2016年2月28日 受難節第3主日礼拝説教
  聖 書   マタイによる福音書26章69〜75節
  説教者  山岡 創 

26:69 ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。
26:70 ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。
26:71 ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。
26:72 そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。
26:73 しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」
26:74 そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。
26:75 ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。



「 激しく泣いた 」
「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』と書いてあるからだ‥‥」(26章31節)。
「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(同33節)。
「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏(にわとり)が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」(同34節)。
「たとえご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(同35節)。
 イエス様とペトロの、わずか数時間前の対話です。イエス様と、ペトロをはじめお弟子さんたちは、夜の食事を共にしていました。その席での対話です。
ロビーの本棚の上に、その夕食のシーンをレオナルド・ダ・ビンチという人が描いた絵が飾られています。イエス様と12人の弟子たちが席に着いて食事をしています。ナイフを持っている人がいます。後で探してみてください。
この食事は後になって〈最後の晩餐(ばんさん)〉と呼ばれるようになりました。それは、イエス様と弟子たちが共にした、文字通り最後の夕食、晩餐になったからです。この数時間後、イエス様は、イエス様を嫌い、ねたみ、陥れようとする人々の手に捕らえられます。そして、裁判にかけられ、でっち上げの罪と汚名を着せられ、有罪の判決を受け、十字架に架(か)けられて殺されてしまうのです。
この成り行きをイエス様は予想していました。だから、弟子の一人が自分を裏切り、敵に売り渡すことも予告しました。パンとワインを弟子たちに配り、自分が死んでも記念としてこの食事を行うように、と弟子たちに命じました。そして最後に、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」と、わたしに従うことができなくなる、と言われました。
 すると、ペトロが反論しました。自分は決してつまずかない、一緒に死ぬことになってもイエス様を知らない、とは決して申しません、と。ペトロだけではなく、他の弟子たちも同じようなことを言ったと書かれています。
 この後、イエス様はいつものようにオリーブ山で祈っている時に捕まりました。そして、最高裁判所で夜中の裁判にかけられ、でっち上げの罪と汚名を着せられて、死刑の判決を受けるのです。この時、弟子たちは皆、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。ただ一人、ペトロだけは違う行動を取ります。「ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと、中に入って、下役(したやく)たちと一緒に座っていた」(26章58節)と書かれています。ペトロは逃げずに従いました。さすがペトロ!と言いたいところですが、実は“逃げ腰”です。「遠く離れてイエスに従い」という言葉が、何かあったら逃げられる距離をキープしていることを表わしています。この時、既にペトロは、「たとえご一緒に死なねばならなくなっても‥‥」と断言したペトロではなくなっていました。イエス様よりも自分がかわいく、自分の身を守ろうとするペトロに変わっていました。これで何事もなければ、ペトロの心変りが暴かれることもなかったでしょう。ところが、ペトロの覚悟が、信仰が試される場面が来るのです。

 「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」(69節)。中庭にいたペトロに、一人の女中が近寄って来て言いました。ペトロはドキッとしたに違いありません。思わず、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」(70節)と皆の前で打ち消します。身の危険を感じたペトロは、この場を離れようと門の方へ向いました。ところが、そこでも「この人はナザレのイエスと一緒にいました」(71節)と別の女中が証言します。「そんな人は知らない」(72節)とペトロは誓って打ち消します。逃げようとすると、かえって疑われる。そう感じたペトロは、中庭に戻ります。きっとドキドキしながら、できるだけ人の目を避けながら、ペトロは中庭に戻ったことでしょう。ところが、またしても居合わせた人々が、「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる」(73節)と詰め寄って来ました。その時、ペトロは「呪いの言葉」さえ口にした、といいます。これが確かな証明だとばかりに、神を冒涜(ぼうとく)したイエスは呪われてしまえ!とでも言ったのでしょうか。そのようにイエス様を呪いながら、「そんな人は知らない」(74節)と誓ったと書かれています。
 それで、人々はようやく納得してくれたのでしょう。ペトロも、これで危険は去った、嵐は去ったと、ホッとしかけたかも知れません。
 ところが、その時、鶏が鳴きました。ホッとしかけたペトロは、その鳴き声にハッとしたはずです。そうだ、あの時イエス様は、「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と自分に言われた。自分は、「たとえご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と断言したはずではなかったか‥‥‥前の晩の最後の晩餐でのやり取りが浮かび上がって来ました。イエス様のお顔が、言葉が浮かび上がって来ました。その瞬間、ペトロは自分が大きな罪を犯したことを感じました。心がズキッと痛みました。そして、ペトロは、イエスなんて知らないと言ってしまったことを後悔して激しく泣いたのです。
 もはやだれからも罰せられません。けれども、自分の醜(みにく)さを、裏切りを、他でもない“自分”が、いちばんよく知っているのです。他人をごまかすことはできても、自分の心をごまかすことはできません。そして、自分の心をご存じである神さまをごまかすこともできません。

 仲良くしている友だちがいました。Aちゃんといいます。ある日、Aちゃんが学校でいじめられていました。どうしよう、助けようか、それとも見ぬふりをしようか?‥‥迷いました。ところが、いじめグループから“お前もAちゃんの仲間だろう”と言われてドキッとする。自分もいじめられるかも知れないと感じて怖くなり、思わず“Aちゃんなんて友だちなんかじゃない”と言ってしまう。心が痛む。ところが、今度はお前もいじめグループに入れ、と強制される。そして、Aちゃんの前で無理やり言わされる。“Aちゃんなんて友だちじゃない。Aちゃんなんて死んでしまえ”。悲しみで顔をゆがめるAちゃん、自分もズキズキと心が痛い‥‥。
 こういうことが、私たちの現実にもあり得るのではないでしょうか。そして、こういう場面に立たされたら、だれが見捨てない、裏切らないと言うことができるでしょうか。普段仲良くしていても、いざとなったら私たちは友だちを見捨てるかも知れない。それが私たちです。今日の聖書の内容を考えながら、ペトロの立場に立たされたら、私もイエス様を知らないと見捨ててしまうのではないか、離れてしまうのではないか、命をかけることなどできないのではないか。否、今、私は牧師でありながら、信仰に命をかけていると言えるか、人生をかけていると言えるか?そんな神さまの言葉が、私の心に問いかけられているような気がしました。

 人を非難した。見捨てた。裏切った。でも、そのことに罪を感じないこともあります。自分を正当化することさえあります。それは、相手が大切な人ではないからです。大切な人を傷つけた、悲しませた、そう思うとき、私たちは自分の罪を感じます。罪を心から強く感じるのは、愛を傷つけた時ではないでしょうか。その時、私たちの心は夜を迎えます。後悔の夜を迎えます。
 けれども、その夜にもう一度、鶏が鳴く時が来ます。朝が来ます。主イエス・キリストの愛によって、私たちの心の夜にも必ず夜明けが来ます。イエス様は予(あらかじ)め、ペトロが知らないと言うことを知っていました。知っていて、責めませんでした。赦(ゆる)していました。かえってペトロが立ち直れるようにと祈ってくださいました。そして、そのまま十字架にお架かりになりました。ペトロは自分のせいだと思ったでしょう。
 けれども、ペトロは初めから、イエス様の大きくて深い愛と赦しに包まれていました。この愛と赦しに包まれていることを悟(さと)ったとき、ペトロの心の夜は明け、人生の新しい朝を迎えます。
 私たちの人生にも、こんな大きくて深いイエス様の愛と赦しが注(そそ)がれている。私が人を傷つけ、悲しませ、神さまを裏切り、取り返しのつかない、悔(く)いても悔やみきれない罪。しかし、その罪がイエス様によって赦され、愛されている。この恵みを信じることができたとき、私たちも人生の新しい朝を迎えます。神さまと、イエス様と共に歩き始める“新しい夜明け”を迎えます。





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