2016年3月13日 受難節第5主日礼拝説教
  聖 書   ペトロの手紙(一)4章1〜6節
  説教者  山岡 創 

4:1 キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。
4:2 それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。
4:3 かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。
4:4 あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。
4:5 彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。
4:6 死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。


「 欲望から神の御心へ 」
 本日、会報『流のほとり』79号が発行されました。週報ボックスのある方には、そこに入れておきました。ない方は、受付のテーブルからお持ちになり読んでみてください。
 実は、78号から約1年ぶりの発行です。本来なら年に3〜4回発行するのですが、それがなかなかできませんでした。私以外の編集委員の方々が、病に倒れ、体調を崩し、天に召された方もおられたからです。
 この1年で天に召された編集委員は、A.SさんとI.Mさんでした。Aさんは1993年の第1号発行から委員長として、この働きを担ってくださいました。Iさんも最初の発病から回復された後、8年余り、会報編集に携わってくださいました。今回の79号は、このお二人の“追悼号”だと言ってもよいでしょう。お二人を追悼する文章も載せました。
 私たちが教会生活を親しく、共にして来たお二人の教会員が天に召されたことによって、皆さまの中には、やはりご自分の命の終わりを意識された方も少なくないのではないでしょうか。そして、残された人生をどのように生きるかということを考えた方もおられると思います。
 今日の聖書の中にも、「肉における残りの生涯」(2節)という言葉が出て来ました。簡単に言えば、地上で、この肉体、この命において生きる残りの生涯のことです。私たちは、何かの折、何かの節目等に、自分の残りの生涯を意識するでしょう。例えば、身近な人の死を通して、特に年配の方は、残りの生涯を意識するでしょう。還暦(かんれき)や古希(こき)、喜寿(きじゅ)といった節目の年齢を迎えた時にも意識するでしょう。仕事を(定年)退職して、生活のスタイルが変わる時、さて残りの生涯をどうやって生きていこうかと考えるでしょう。
 ペトロの手紙が「肉における残りの生涯」と言うとき、どんな節目を意識しているかと言えば、それはキリスト教の洗礼だということができます。直前の3章の終りで「洗礼」という言葉が2度、出て来ました。洗礼とは簡単に言えば、キリストの犠牲によって罪を清められ、神と和解し、キリストと共に、一つになって生きる誓いを立てる儀式です。
今日の1節にも「キリストは肉に苦しみをお受けになった」とありました。キリストが私たちの罪のために苦しみを受け、私たちの罪を負って十字架にかかり、身代わりとなって“罪滅ぼし”をしてくださったのです。それによって私たち人間が神さまと和解する道が開かれました。この救いの恵みを信じて、私たちは洗礼を受けます。そしてそこから、キリストと共に生きる「残りの生涯」が始まるのです。

 洗礼によって新しく始まる「残りの生涯」をどのように生きるか?洗礼を受けようと志す人は、まず洗礼とはどのようなものかを理解しようとするでしょう。私も受洗準備会で、洗礼とはこういうものですよ、と説明をします。それはもちろん、間違いではありません。けれども、今日の聖書を黙想しながら、私たちはむしろ、そこから始まる「残りの生涯」をどのように生きるか、という新たな生き方こそ考えるべきではないか、そちらの方が大事ではないか、ふと、そう思いました。
 ペトロの手紙は、洗礼を受けた者に、その残りの生涯において何を期待しているでしょうか。2節にこう書かれています。
「それは、もはや人間の欲望にではなく神の御(み)心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです」(2節)。
 今までは「人間の欲望」、自分の欲望に従って生きて来た。しかし、これからは「神の御心」に従って「残りの生涯を生きる」ことが期待されている。いや、私たち自身が、その志をもって洗礼を受け、残りの生涯を、神の御心に従って生きる新しい生き方をしようとするのです。
 人間の欲望に従う生き方がどんなものか、3節に記されています。ペトロがこの手紙を書き送った教会のクリスチャンたちも、かつではそうだったのです。
「かつてあなたがたは異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法(りっぽう)で禁じられている偶像礼拝などにふけっていた‥‥」(3節)。
 ちょっと野卑(やひ)な言い方になりますが、いわゆる“金”“酒”“女”を求める欲望の生活です。
 一人の有名な元プロ野球選手がドラッグに手を出して逮捕されました。かつてすばらしい活躍をし、成果を残し、金と名誉を手に入れた人だと思います。けれども、引退した後の残りの生涯を、この方はドラッグに染めてしまいました。金と名誉を手に入れて、家庭もあって、いったいどんな不満があるのかと思われるかも知れません。けれども、残りの生涯をどう生きるか、この方は、そこに確かな生き方を、救いの道を見いだすことができなかったのです。そのために欲望の罪に手を染めてしまったのでしょう。
 この方の姿は決して、私たちとは無関係だと言うことはできません。確かに私たちは、そんなに金も名誉も、何も持っていないかも知れない。けれども、私たちもまた、自分の生涯に確かな生き方、救いの道を見いだせなければ、同じような「人間の欲望」に従う罪の生き方に陥るでしょう。犯罪は犯さなくとも、周りの人を傷つけ、迷惑をかけ、人との関係を壊し、自分を壊しながら生きることになるでしょう。だから、私たちもまた、自分の人生に、神の御心に従って生きる確かな道を見出し、歩むことが大事なのです。そう、放蕩息子(ほうとうむすこ)のように、神の御心に立ち帰って生きることが大事なのです。

 ある説教集に、今日の3節に描かれている乱行(らんこう)に生きる人の姿は、主イエスがお話になった〈放蕩息子〉のようだ、と書かれていました。確かに、その通りです。ルカによる福音書15章のたとえ話で語られている放蕩息子は、父親の財産を生前贈与させ、それらをすべて金に換え、遠くに旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、すべてを失います。その放蕩とはまさに、「好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝など」だったでしょう。しかし、彼はそこで我に返ります。見栄を張らず、父親のもとに帰って謝ろう。そして、息子ではなく雇い人として遇(ぐう)してもらえるように頼んでみよう。そのように悔い改めて帰って来た息子を、父親は、もちろん追い出さず、走り寄って迎え、よく帰って来たと抱き締めて、責めず、罰しもせず、喜び祝って、以前と変わらぬ息子として遇したというたとえ話です。父と子の和解が成ったのです。
 このたとえは、神さまと私たち人間の和解をたとえたものです。私たちが、自分の欲望に従った生き方を悔い改めて、神のもとに立ち帰るなら、神の御心に従って生きようとするなら、神さまは、賠償するとか、罰を受けるとか、そういったことは一切なしに、私たちを受け入れてくださるのです。神と共に生きる生涯に生かしてくださるのです。神に造られた私たちと神さまとの関係は元々、そういうものなのです。この救いの無条件を表わしているのがキリストの十字架です。キリストが十字架の上で苦しまれ、私たちに代わって罪滅ぼしをしてくださったということは、別の言い方をすれば、私たちの救いは無条件だということです。罰も償いもない。虫の良すぎる話のようですが、それが神さまと私たちの(霊的な)関係なのです。
 だからこそ、残りの生涯をどう生きるかが大事なのです。言わば“神の愛”を無条件でいただいた者としてどう生きるか、です。神と和解するということは、何か悪いことをして、謝って、仲直りするということだけではありません。神さまと自分の関係が壊れている。それをどのように、あるべき関係に回復するか、です。自分の欲望に従い、自己中心に、神さまの愛など忘れて生きてしまう私たちが、神の愛に気づいて、受け入れ、神の御心に従う生き方を歩み始めるか。それが、神との和解ということです。
 そこで「神の御心」とは何でしょうか?今日の御(み)言葉に書いてあります。キリストが肉に苦しみをお受けになったように、私たちも肉に苦しみを受けること。「肉に苦しみを受けた者」(1節)になることです。自分の残りの生涯において、何らかの苦しみに生きるのです。私は、それを“愛”に生きることだと考えています。キリストが十字架の上で苦しまれたのは、私たちに対する神の愛を示し、神の愛に生きるためでした。ならば、私たちも、神を愛し、人を愛する生き方をすること、隣人を自分のように愛し、キリストが愛してくださったように互いに愛し合うことこそ、神の御心に従うことだと思うのです。
 そして、愛するということは、好き嫌いという感情の営みではありません。聖書が言う愛は、極めて理性的な思いであり、言葉、態度、行動です。相手を嫌いでも愛することはできるのが、キリストの愛です。だから、愛する時には、忍耐があったり、痛みがあったり、自己犠牲があったり、何かをささげる献身があったり、得を捨て損を厭(いと)わぬ勇気が必要だったりします。だから、愛する者は、ある意味で“苦しむ者”です。
 3・11の東日本大震災から、一昨日で5年が経ちました。テレビ番組で、被災地の、被災した人々のその後が報道されていました。その報道の中で、中学生だった時に被災し、その後、地域でのボランティアに取り組み、今は岩手大学で、地震のことを研究している一人の女子学生の歩みが紹介されていました。それを見ていたら、私はふと、私たちの埼玉地区から福島県の公立高校に教員として赴任(ふにん)した、一人の青年のことを思い浮かべました。女性です。埼玉地区のキャンプで、中学1年生の時から、よく知っている子です。その子は、福島県の人々が地震と津波と、その後の原発事故で苦しんでいることを、ずっと思っていたようです。そして、彼女は大学を卒業する時に、自分の福島に対する思いをそっと置いて来ようと思って、福島県の教員採用試験を受けたのです。たぶん受からないだろう。そう考えていたら、受かっていた。彼女は東京の教員採用試験にも合格していて、どうしようかと相当迷ったようです。無理もありません。放射能の問題は大きな不安材料だったでしょう。しかし、彼女は福島の地で教員をする決断をしました。そして、2年前に赴任していきました。もちろん、彼女は何も偉そうに語るつもりはないでしょう。けれども、私は彼女の葛藤(かっとう)と決断と行動は、神の御心に従う生き方だ、愛だと思うのです。

 もちろん、同じことができなくていい。しかし、道は同じです。そのような愛に生きる生き方を、私たちも残りの生涯において始める。愛の心構えで生きる。「武装」(1節)というのは、あまり快(こころよ)くない言葉ですが、ペトロは“愛の武装”をすることを考えていたのでしょう。愛の心で自分の欲望と闘い、罪と闘い、神の御心を生きていくのです。「罪との関わりを絶った」(1節)などとは、とても言えないかも知れないけれど、放蕩息子のように悔い改めて、繰り返し神の御心へと立ち帰り続けるのです。そういう生き方を、周りの人々は「不審に思い」(4節)、もしかしたら「そしる」(4節)こともあるかも知れません。けれども、私たちは、この信仰と生き方こそ「霊において生きるようになる」(6節)道だと、神の救いへと至る道だと信じて歩むのです。
 今朝の子どもチャペルの礼拝で、イエス・キリストの十字架を負って処刑場まで歩いたシモンという人の話をしました。私たちも、キリストの十字架を負って歩きましょう。キリストの苦しみによって愛され、救われた者として、私たちも愛の十字架、愛の苦しみを背負って、残りの生涯を歩んで行きましょう。





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