2016年4月3日 2016.4/3礼拝説教
  聖 書   マタイによる福音書28章16〜20節
  説教者  山岡 創 

◆弟子たちを派遣する
28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
28:17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
28:18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
底本に節が欠けている個所の異本による訳文


「 いつもあなたがたと共に 」
 皆さんの中には、山登りが趣味だ、趣味と言うほどではないけれど、山登りが好きだ、という人がおられると思います。中には、毎回違う山に登るという人もいるかも知れませんが、同じ山に何度も登った、という人も多いと思います。
 私も山登りが趣味だと言うほどではありませんが、私が何度も昇ったことのある山は、越生町にある大高取山と西高取山という山です。越生町の役場の上の方に無名戦士の墓という太平洋戦争で亡くなった無名の兵士たちを供養する墓がありますけれども、その墓の裏手にある山です。この山には色んな思い出があります。特に印象に強く残っているのは、長女が4歳、長男が2歳で、3人で昇った時のことです。途中でルートを間違えました。しばらくして長男は眠ってしまいました。どこに出るのか分からない不安を抱きながら、片手で長男を抱え、もう片方の手で長女と手をつなぎ、時には長女の手を放して、“あの木につかまって”と指示しながら、下りの道を歩きました。いつも降りる場所とは反対側の道路に出た時はホッとしました。
 同じ山に再び登ると、あの時はこうだったなあ、という思い出がよみがえってきます。主イエスの弟子たちも、そうだったのではないでしょうか。16節に「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておられた山に昇った」とあります。主イエスと山、と言えば、真っ先にエルサレムのそばのオリーブ山が思い浮かぶのですが、ガリラヤの山とはいったいどこの山でしょうか。定かには分かりませんが、一つ思い当たる山があります。マタイによる福音書5〜7章に〈山上の説教〉と呼ばれるまとまりがあります。主イエスが弟子たちと共に、群衆を引き連れて山に登り、山の上でいくつも説教をなさった場面です。弟子たちが昇った山は、その時の山だったのではないかと思います。その山に登りながら、弟子たちは、かつて主イエスがこの山の上でこんなことを教えてくださったなぁ、と主イエスの言葉と姿を思い起こしていたでしょう。昇りながら、果たして本当に主イエスにお会いできるのか?疑いながら昇った者もいたでしょう。いや、11人すべての弟子が半信半疑だったかも知れません。

 けれども、山の上で弟子たちは、復活した主イエスにお会いすることができました。その時、弟子たちはまず何をしたか?主イエスに「ひれ伏した」(17節)といいます。考えてみれば、私たちは日常生活の中で、だれかにひれ伏す、ということは、まずありません。ひれ伏すというのは、相手とまともに向かい合うことができず、ただただ頭を下げ、顔を下げ、身を低くすることです。例えば、恐ろしさのあまり身を低くして助けを乞うたり、相手に何らかの罪を犯して、その申し訳なさに赦(ゆる)しを願ったり、相手が自分にしてくれたことのあまりのありがたさに、深い感謝を表すような態度でしょう。そう考えると、ひれ伏すということはつまり、神を礼拝する、ということなのです。神さまの前に小さくなり、畏(おそ)れ敬(うやま)い、罪を悔い改め、恵みに感謝し、栄光を賛美するという態度なのです。私たちは〈主の祈り〉で“み名があがめられますように”と祈ります。この元々の言葉の意味は“神さまを大きくする”ということです。神さまを大きくするということは、自分は小さく小さくなるとうことでしょう。それはすなわち、神さまにひれ伏すということ、神さまを礼拝(れいはい)するということなのです。
 ガリラヤの山に登った弟子たちは、そこで復活した主イエスに会い、主イエスを神として礼拝したのです。そう考えると、「山」というのは、神を礼拝する場所という意味を持っています。私たちにとって、神を礼拝する場所は、この教会です。教会は、私たちにとって、神を礼拝する「山」だと言えます。私たちは毎週日曜日に、主イエスに呼ばれて、ここへやって来ます。そして、復活した主イエスとお会いし、主イエスの中に神を認め、ひれ伏して礼拝するのです。

 弟子たちはガリラヤの山で、復活した主イエスとお会いし、ひれ伏して礼拝しました。けれども、そこでマタイによる福音書は、重大なことをサラリと書き記しています。「しかし、疑う者もいた」(17節)。何と!復活した主イエスとお会いし、ひれ伏して礼拝しながら、それでもなお疑う弟子がいたというのです。「疑う者も」というのですから、信じる者もいた、ということになります。しかし、果たしてそうでしょうか?主イエスが十字架に架けられた時、弟子のすべてが逃げ去ったように、復活した主イエスを前にして、完全に信じたという者はなく、すべての弟子が多かれ少なかれ疑いを抱いたのではないでしょうか。信じてひれ伏す思いと、信じたいという願いと、自分の中の常識と、本当に復活したのかという疑いが混じり合った信仰、言わば“半信半疑の信仰”だったのではないでしょうか。
 弟子たちの中には、「疑う者もいた」。半信半疑の弟子たちです。けれども、私たちのだれが、それを非難することができるでしょうか。私たちも、どこか半信半疑ではないでしょうか。主イエスは本当に復活したのか?人間の復活と永遠の命なんて本当にあり得るのか?作り話ではないのか?そんなふうに私たちは復活を疑い、常識の範囲内で復活を合理的に解釈しようとしたりします。私たちも弟子たちと同じです。
 けれども、それが私たちの信仰、人の信仰だと思うのです。全く疑いも、動揺(どうよう)も、不安もない完全な信仰の人なんていないのではないでしょうか。どこかに信じられないところ、信じ切れいないところを抱(かか)えながら、けれども、主イエスを信じている、すがっている、ゆだねている。それが私たちの信仰でしょう。確かに信じているところがあるから、私たちはこの生き方を選ぶのです。洗礼を受けるのです。信仰によって生きる道から離れずに、歩き続けるのです。

 では、私たちは何を信じているのでしょう。「わたしは天と地の一切の権能(けんのう)を授(さず)かっている」(18節)と、復活した主イエスは言われました。簡単に言えば、主イエスが天と地をすべて支配しておられるということでしょう。私たちは、この主イエスの権能、主イエスの支配を信じているのでしょうか?
 主イエスの権能と支配を信じる信仰は、私の中では何かしっくりしないところがあります。もちろん、信じないというわけではないのですが、何かがずれているような感じがするのです。私は何を信じているのだろうか?そのように自分に問いかけた時、私は主イエスの愛を信じている、主イエスを通して表わされた神の愛を信じている。その信仰が自分にいちばんピッタリします。自分の腹にストンと落ちます。もし主イエスの権能を“愛の権能”と考えて良いのなら、つまり主イエスが愛によって天地を支配されるお方、天地を愛で満たすお方であると考えて良いのなら、私は納得(なっとく)して、主イエスの権能を信じます、とはっきり言うことができます。
 今週の金曜日から昨日の土曜日にかけて、サムエル・ナイトが行われました。その中で、教会に連なる一人ひとりの役割と奉仕というテーマを考えながら、コリントの信徒への手紙(一)12〜13章を学びました。そこには、教会はキリストの体であり、教会において最も大切なのは“愛”であると書かれていました。主イエス・キリストに愛されて、主の愛を信じ、互いに愛し合って生きるところが教会なのです。そして、教会を生かす愛は、世の終わりまで、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」。13章の最後に、そう書かれています。最後まで残る、最も大いなるものは、愛です。力でもなく、悪でもなく、憎しみでもなく、愛こそがこの世の真理、天地の真理なのだと私は信じたい。愛は死んでも、必ず復活すると信じたい。その愛を、主イエスが命がけで、復活して表わしてくださった。その主イエスを私は救い主と信じるのです。
 そして、この確信があるから、私はこの信仰による生き方を選び続けます。主イエスの御(み)言葉を、十字架と復活を、主イエスの愛を宣べ伝えます。私たち一人ひとりを愛してくださる主イエス・キリストとの結ばれとしての洗礼を勧(すす)めます。それが、主イエス・キリストから託(たく)された弟子たちの使命、私たちの教会の使命です。

 3年に渡り協議検討して来た私たちの教会の理念(りねん)が決まりました。<私たちの願い>という表現で言い表しますが、今年度の週報表紙にもあるように、“キリストの愛とともに歩もう”ということです。主イエス・キリストと共に歩む。でも、主イエスは私たちの目の前にはいない。ならば、キリストの愛とともに歩むことこそ、キリストと共に歩むことだと言って良いでしょう。主イエス・キリストは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(20節)と約束してくださいました。世の終わりまで続く、最も大いなるものは愛です。だから、私たちがキリストの愛とともに歩むことを願って、祈って、目指して生きるならば、キリストに愛されて、キリストを愛し、また互いに愛し合うならば、まさに主イエス・キリストは“愛”において、私たちと共にいる。世の終わりまで、命ある限り、共にいると信じることができます。キリストの愛とともに歩もう。キリストに手をつながれるように、時にはキリストに抱かれるように、ともに歩んでいきましょう。私たち一人ひとりの内に、また私たちの交わりの内に、私たちの教会に、キリストの愛を満たしていただき、キリストが共にいてくださることを信じて歩んでいきましょう。





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