2016年5月1日 礼拝説教
  聖 書   ペトロの手紙(一)5章1〜7節
  説教者  山岡 創 

5:1 さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。
5:2 あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。
5:3 ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。
5:4 そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。
5:5 同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、/「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。
5:6 だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。
5:7 思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。

「 しぼむことのない栄冠 」
 ペトロは、この手紙の中で、具体的な立場にある信徒に対して呼びかけをして来ました。例えば、「召し使いたち」への勧(すす)めがありました。また、妻に対して、夫に対して勧めをしています。そして、今日の聖書箇所では、「あなたがたのうちの長老たちに勧めます」(1節)と書き記しています。
 「長老」とは何でしょう?何となく分かるのではないかと思いますが、今日の聖書の御(み)言葉で言えば、2節にあるように、神の羊の群れを牧(ぼく)する者のことです。教会が「神の羊の群れ」にたとえられています。教会員・信徒は羊です。その羊たちを牧するのですから、いわゆる“羊飼い”のような役割が求められているのです。
 羊飼いの役割とは何でしょう?一つは、羊たちに食物を与えることです。良い草地に連れて行って、十分に草を食べられるようにする。それは、教会の働きで言えば、魂の食物、魂の糧(かて)である御言葉の説教ということになるでしょう。羊飼いのもう一つの役割は、羊たちを守るということです。野獣に喰い殺されないようにする。また病気にならないように健康管理をする。そんなことが考えられます。教会で言えば、相手のために祈り、連絡を取り、話を聞き、時には良いアドバイスをして、その人の魂が信仰によっていつも健(すこ)やかに保たれるようにすることでしょう。
 教会の中には長老派と呼ばれる教会があります。教会の中で、長老を選び、立てるのです。牧師は、聖書の御言葉を説教し、宣べ伝える長老として、宣教長老と言われます。また、教会員の中から選ばれる長老を治会(ちかい)長老と言います。
皆さんの中には、以前に長老派の伝統を持つ教会に通っておられた経験のある方もおられるでしょう。私たちの教会は長老派ではありません。そのような立場にある者、特に教会員の中から選ばれた者を“役員”と呼んでいます。呼び方は違っても、役割は同じだと考えて良いでしょう。

 ペトロは、小アジアにある教会の長老たちに、「神の羊の群れを牧しなさい」(2節)と命じました。それは、ペトロ自身が、教会の「大牧者(だいぼくしゃ)」(4節)である主イエス・キリストから命じられたことでした。
 十字架に架(か)けられ、死なれた主イエスが、復活して弟子たちに現れてくださった際、主はペトロにお尋ねになりました。「ヨハネの子シモン、(この人たち以上に)わたしを愛しているか」(ヨハネ21章15節)。ヨハネの子シモンとはペトロのことです。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」(同15節)と応えると、主イエスは、「わたしの(小)羊を飼いなさい」(同15節)とお命じになりました。しかも、この同じ問答が3度繰り返されたのです。ペトロは、思い出したに違いありません。自分が3度、主イエスを知らないと否認してしまったことを。死んでも言わないと断言したことを、自分も捕まり処刑されるかも知れないと恐れて、主イエスとの関係を3度否定してしまったのです。
 もちろんペトロはその罪を片時も忘れたことはなかったでしょうが、この時改めて、主イエスもその時のことを忘れてはおられない、意識しておられるのだとハッとしたに違いありません。心が痛み、悲しみを感じたに違いありません。
 けれども、その後で、もっと大切なことにペトロは気づいたと思うのです。主イエスは、自分を責めようとして、この問答を3度繰り返したのではない。知らないと3度言ってしまった自分に、「愛している」と3度応えるチャンスをくださったのだ、と。自分を立ち直らせようとしてくださっているのだ、と。そして、この問答を通して、ペトロは、自分が主イエスを愛するより先に、主イエスが自分を深く愛してくださっていることを知ったはずです。
 主イエスの羊を飼う。神の羊の群れを牧する。それは、主イエスを愛している者の務めです。しかし、「強制されてする」(2節)務めではありません。主イエスから愛されていることを知る者が、主イエスから罪を赦され、魂を愛され、自分の全人格を受け入れられていると信じる者が、感謝して、「自ら進んで」(2節)担(にな)う務めです。根本的な、この信仰の意識がとても大切です。
 3月に役員選挙総会がありました。重任を承認された者が2名、投票で選ばれた者が2名、4名の者が今年度の教会役員として選ばれ、立てられました。教会役員の務めは、責任の上でも、時間的にも重いものがあります。そのために、はっきり言えば、少なからぬ教会員の方が役員を避けたがっていると思います。“大変だ”“面倒くさい”“ふさわしくない”“自分にはそんな信仰も力はない”。思いは様々でしょう。その気持が分からないわけではありません。けれども、主イエスが、「わたしの羊を飼いなさい」と私たちに求めておられるのです。ペトロもまた、「神の羊の群れを牧しなさい」と願っているのです。主イエスの愛に応えて、主イエスの十字架と復活に応えて、“至らない者ですが、あなたの聖霊の助けによってお用いください”と、この務めを担っていくことが、2節に書かれている「神に従って」ということなのです。このことを心に留めてください。
 しかし他方で、違う意味で、自ら進んで役員に選ばれ、立てられたいと願う者も出て来ます。それは、「利得(りとく)」と「権威(けんい)」があるからです。役員に選ばれると、教会の中で何だか自分が偉くなったような気分になります。選ばれたということが“名誉”になり、役員であることが“ステータス”になるのです。そういった思い上がりと誤解から、長老の権威を振り回す、平たく言えば威張るという問題も出て来ます。あるいは当時、長老が会計を管理していたことから、金銭的な利得もあったと言われています。現代でも、国によっては教会の牧師であり、長老であることが、社会的に大きな名誉となる国もあるのです。
 ペトロはもちろん、長老たる者、そうであってはならないと言います。「いやしい利得のためにではなく献身的にしなさい。ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません」(2〜3節)と勧めるのです。

 嫌々でもなく、利得と権威のためでもなく、「むしろ群れの模範(もはん)になりなさい」(3節)とペトロは言います。模範になるとは、どのようにすることでしょうか?そのことに深く関わっている御言葉が5〜6節だと思います。
「皆互いに謙遜を身につけなさい。‥‥‥神の力強い御手(みて)の下で自分を低くしなさい」
 この御言葉から連想する主イエスの教えがあります。弟子のヤコブとヨハネ兄弟が主イエスに、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(マルコ10章35節)と願い出たことがありました。主イエスがこの世の王国を建てて王に君臨すると誤解して、一人を右大臣に、もう一人を左大臣にしてほしいということです。それこそ利得と権威を欲しての願いです。他の弟子たちも皆、似たり寄ったりの願いを抱いていたようです。主イエスは、そのような弟子たち一同を呼び寄せて諭(さと)されました。
「異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(しもべ)になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献(ささ)げるために来た(のと同じように)」(同42〜45節)。
 謙遜を身につけ、自分を低くするということは、すべての人の僕となって皆に仕える、という意識と姿勢を指しています。
 比較的最近、日本でもサーバント・リーダーシップという言葉を耳にするようになりました。価値観が多様化する現代社会においてグローバル企業が取り入れている新しいリーダーシップです。1970年代に、アメリカのロバート・グリーンリーフという人が“リーダーである人は、まず相手に奉仕し、その後、相手を導くものである”と提唱しました。従来の支配型のリーダーではなく、“支援型リーダー”と言っても良いでしょう。指示や命令を中心とせず、相手の言葉に耳を傾ける。権力に立ってものを言うのではなく、部下との信頼関係を大切にする。部下の失敗を厳しく責めるのではなく、部下と自分の失敗とその原因を明らかにし、失敗から学ぶ環境をつくる。競争を勝ち抜くことではなく、みんながお互いに利益になることを求めていく。‥‥サーバントとうのは“僕”“奉仕者”の意味ですが、この考え方は明らかに、聖書の主イエスの教えに基づいています。
 長老の模範として求められている、自分を低くする謙遜。その具体的なあり方は、サーバント・リーダーシップの考え方が参考になります。相手の言葉に耳を傾ける。信頼関係を築き、大切にする。失敗から共に学ぶ。みんながお互いに利益になることを求めていく。そのように謙遜に仕え合うことができれば、私たちの教会も、互いに愛し合う愛に満ちあふれた、すばらしい「神の羊の群れ」として成長することができるでしょう。
 自分を低くする謙遜が求められているのは長老だけではありません。5節にあるように「皆」です。「若い人たち」(5節)にも求められています。若い人たちというのは、いわゆる中学高校生や青年たちのことではありません。長老以外のすべての教会員・信徒たちを指しています。主イエス・キリストが十字架に架かり、ご自分の命を身代金として私たちの罪を贖(あがな)い、私たちを深く愛して僕として仕えてくださったように、私たちも皆、一人ひとりが主イエスに愛された者として、赦(ゆる)された者として、謙遜な者となり、互いに愛し合い、仕え合っていく時、教会は豊かな「神の羊の群れ」となります。

 謙遜に、相手に仕えるように、神の羊の群れを牧する。それができなかった過去の失敗が思われます。人の魂に救いをもたらす御言葉を、ここに招かれ集まる方々に、しっかりと伝えることができていなかったのではないか。私との言葉のやり取りや、相手を配慮するケアが足りなかったことから、この教会を去らせてしまった人も少なからずいます。模範として生きるとは、本当に難しいことです。
 それでも、主イエスに赦していただいて、謙遜に、人を愛する牧会(ぼくかい)、僕として互いに愛し合う教会造りを目指していきたいと願っています。99匹の羊を野原においても、迷い出た一匹の羊を探し求めると言われた主イエスのたとえ話から、私は、藤木正三牧師の〈一人に届く〉という文章を思い起こします。
  政治はできるだけ多くの人に届くように、その手を伸べるべきものでしょうが、それでもなお届かない深さで悲哀を噛みしめているのが人間なのです。その悲哀に届くはずのものが宗教なのですが、現実には宗教も多くの人の救いを考え過ぎて、一人の、その人だけの悲哀に届かない一般論に堕(お)ちているようです。多くの人に届かないとしても、その無力は誇りとこそなれ、恥では決してないのが宗教ですのに、徒(いたずら)に恥て焦っている傾向があります。宗教の生命は一人に届く暖かさであって、多くの人に届く普遍性ではありません。(『神の風景』より)
 いつも主イエスのようにできるわけではありません。そのようにいかないことが多いかも知れません。それでも、謙遜に神の羊の群れを牧することを考えるとき、一匹を探す、一人に届くという姿勢を心がけて、皆さんと一緒に、神に喜ばれるの羊の群れを造り上げていきたいと願っています。





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