2016年5月8日 礼拝説教
  聖 書   ペトロの手紙(一)5章8〜14節
  説教者  山岡 創 

5:8 身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。
5:9 信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。
5:10 しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。
5:11 力が世々限りなく神にありますように、アーメン。
◆結びの言葉
5:12 わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。この恵みにしっかり踏みとどまりなさい。
5:13 共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています。
5:14 愛の口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストと結ばれているあなたがた一同に、平和があるように。

「 しっかり踏みとどまって 」
 昨年の10月から、このペトロの手紙(一)を通して神の語りかけを聴き続けて来ましたが、今日は最終回となりました。この手紙から私たちは信仰について何を学んだでしょうか?皆さんが印象に残っている御(み)言葉は何でしょうか?しっかりと心に留まる御言葉を、ぜひ一つ、この手紙から手に入れてほしいと願っています。

 この手紙の最後で、ペトロは、小アジアの教会のキリスト者たちにこう語りかけます。
「身を慎んで目を覚ましていなさい」(8節)。
同じような言葉が新約聖書の至るところに出て来ます。例えば、福音書の中で、主イエスは、十字架に架けられる前夜、ゲッセマネの園と呼ばれる場所で祈られた時、弟子たちに「目を覚ましていなさい」と何度も言われました。
 身を慎んで目を覚ましているとは、どういうことか?私は、“油断するな!”という意味に受け取りました。そう考えると、ふと子どもの頃にやった缶蹴りという遊びを思い出しました。ある場所に空き缶を立てておいて、鬼の役の人がそれを守っている。他の人は物陰に隠れていて、隙あらば飛び出してその缶を蹴り飛ばすのです。でも、缶を蹴る前に見つかって、鬼に10秒数えられたたら捕まります。全員見つけたら鬼の勝ち。だれかが捕まっていても、他の人が缶を蹴れば、またみんな逃げられる。そういう遊びです。
 緊張感があります。鬼は缶のそばで守っているだけでは見つけられません。缶を離れて探しに来ます。油断していると、鬼が近くに来ていることに気づかずに見つかり、捕まってしまいます。油断せず、鬼の裏をかく。それが醍醐味(だいごみ)の遊びです。
 キリスト者よ、身を慎んで目を覚ましていなさい。油断するな。油断しているとどうなるのか?見つかってしまう。探し当てられてしまう。ペロリと喰い尽されてしまうのです。だれに喰い尽されるのか?悪魔に喰い尽されるとペトロは言います。
「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」(8〜9節)。
 この手紙が書かれた約2千年前の当時は、ローマ帝国によるキリスト教迫害の時代でした。ローマ皇帝が自ら神を名乗り、自分を礼拝せよと人々に強制しました。キリスト者たちは、イエス・キリストこそ我々を救う神だと信仰を告白して、皇帝を礼拝しませんでした。そのために迫害されたのです。ローマ帝国の役人たちがキリスト者を探し回りました。捕まえて投獄し、処刑するためです。だから、キリスト者は身を隠しました。隠れて礼拝を守りました。キリスト者だと分からないように暗号を用いました。今日の箇所の13節にある「バビロン」という地名も一種の暗号で、これは都であるローマを指しています。
 あなたがたを信仰から引き離そうとして、悪魔があなたがたを探し回っている。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい、とペトロは励ましたのです。

 悪魔に抵抗する。この手紙では、ローマ帝国の役人イコール悪魔のように書き記されています。役人の中に悪魔が乗り移っているようなイメージでしょう。
 「悪魔」とは何でしょう?当時の人々は、悪魔を存在として考えていたと思われます。ベルゼブルとかルシフェルとか、固有の名前を持つ悪魔もいて、後に悪魔辞典、悪魔図鑑のようなものまで作られたようです。おもしろそうだと思いますし、それを否定するつもりもありませんが、現代人としては、まやかしだと思う人もいるでしょう。
 私は、必ずしも悪魔を固有の存在として考えなくても良いのではないかと思っています。むしろ、キリスト者を信仰から、神さまから引き離そうとする何らかの要因があるならば、そこに悪魔が働いていると考えたら良いでしょう。ローマの役人にしろ、あるいは親しい友人や家族にしろ、キリスト者を迫害したり、信仰を妨(さまた)げ、教会から引き離そうとするなら、その人を通して悪魔が働いているということになります。キリスト教を迫害する社会や環境そのものに悪魔が働いているとも考えられます。苦しみや悲しみの出来事が信仰から引き離そうとするなら、そこに悪魔が働いています。あるいは、人から何かを言われたり、社会に圧力をかけられたり、出来事に動揺させられたりして、信仰に疑いや迷いを抱き、捨て去ろうとするなら、自分自身の心の中に悪魔が働いていると言えます。
 悪魔というのは、とても巧妙です。あらゆる機会を通して、私たちの油断と隙を探し回り、探し当て、神さまを信じ、思い煩(わずら)いを任せて、希望を持って生きることから引き離そうとするのです。コリントの信徒への手紙(二)11章には、悪魔は「光の天使」を装って私たちを惑わすとさえ書かれているほどに巧妙なのです。
 私たちは、目に見えるものに弱いです。人や環境、出来事は目に見えます。だから、そちらの方が確かなものに思える。動揺させられる。一方、神さまは目に見えません。だから、信じられなくなる。それで、油断していると、私たちの信仰はいとも簡単にペロリと喰い尽されてしまいます。

 悪魔に抵抗するために、「信仰にしっかり踏みとどまって」(9節)とペトロは言います。12節にももう一度、「この恵みにしっかり踏みとどまりなさい」と言われます。神の救いの恵みから、それを信じる信仰から一歩も動かない。足から根が生えているかのように、そこに踏みとどまるのです。
 それで連想したのですが、最近、フジテレビで〈ライオンのグータッチ〉という番組が始まりました。一生懸命やっているのに結果が出せない子どもたちのもとに、その道のエキスパートや有名なアスリートが訪れて、全力でサポートして、夢を追いかける子どもたちの成長を見守る応援ドキュメント・バラエティー番組です。
 この番組の中で、相撲に取り組む小学6年生の女の子が取り上げられました。2年生の時からずっと相撲を続けているのですが、大会で一度も勝ったことがない子です。そこに、女子相撲の元世界チャンピオンが訪れて、彼女を指導します。練習で、自分よりも明らかに体の小さい相手に押し込まれて負けてしまいます。踏みとどまれないのです。身長はかなり高いし、どうして勝てないのだろうと不思議に思いますが、素人目で見ていても明らかな原因があります。立ち会いで鋭く前に踏み込まずに、フワッと立ってしまうのです。そうすると、相手に下から押し上げられて腰が浮いてしまう。棒立ちになって、その場に踏みとどまれず、押し出されてしまうのです。以前に強い相手とやった時、立ち会いで吹っ飛ばされて、それ以来、立ち会いが怖くなってしまった、ということでした。次回の放送で、この子がどんなふうに変わるのか、果たして大会で勝つことができるのか、とても楽しみです。
 もちろん、必ず勝てるわけではありません。試合で一度も勝てない少年野球チームが、元ジャイアンツの仁志選手に2ヶ月ほど指導されて、でも試合には残念ながら勝てませんでした。けれども、その練習と試合を通して、子どもたちなり学んだもの、つかんだものがあり、成長しているのだと思います。
 信仰に、恵みにしっかりと踏みとどまる。そのためには、信仰の足腰が鍛えられて、腰が座っていることが大切でしょう。言い換えれば、当たり前のことですが、何事も基礎が大事ということです。信仰ももちろん基礎が大事です。
 信仰の基礎とは何でしょうか?それは信仰告白です。つまり、自分が何を信じているのか、その内容をしっかりと踏まえているということです。そして、その信仰告白の中で、自分が何によって救われているのか「恵み」と呼ばれる内容をしっかりとつかんでいることです。特に、私たちのキリスト教信仰は、神が、救いの恵みを、イエス・キリストを通して表わされたこと。イエス・キリストが我が身を犠牲にして十字架にかかり、私たちの罪を償い、神と和解させてくださったこと。イエス・キリストが復活して、罪と死と悪魔に打ち克ち、私たちを、神と共に生きる新しい命に生きられるようにしてくださったことを救いの恵みとして語ります。この救いの恵みをしっかりとつかんで、信仰告白をしっかりと踏まえていることが、信仰の基礎です。
 この信仰の基礎を身につけるために、私たちは、日曜日毎に礼拝を守り、神の御言葉に聴き、学びます。礼拝だけではなく、礼拝後の集まりや平日の集まりに参加して、御言葉を学び、共に祈りを合わせます。言わば、それは“信仰の練習”の機会です。“修業の場”です。それだけではなく、私たちは普段の生活の中で、自分で聖書を読み、考え、神さまに祈る時間を持ちます。言わばそれは“自修錬”の機会です。
 そのようにして私たちは、信仰の基礎を身に着けていきます。ただ知識として身につけるのではありません。聖書の御言葉の内容、イエス・キリストによる救いの恵みを、自分なりに焼き直して受け取り直すのです。聖書は2千年前の書物、イエス・キリストは2千年前のユダヤの人物、そのままでは現代日本の私たちに関係のあるはずがありません。聖書を通して、イエス・キリストを通して、現代の私たちにも通じる、普遍的な人生の真理が、命の恵みが、人としての道が語られています。それを自分なりにつかんだ時、初めて信仰は生きたものとなります。私たちにとって生きた力となります。希望となります。
 そして、この信仰の訓練の成果を試す“試合”が、私たちの日常生活です。日常の言葉や態度、行動、人間関係です。信仰の本番は日常生活なのです。皆さんは、この日常生活という“信仰の試合”で一度でも勝ったと感じたことがあるでしょうか?一度も勝ったことがないと感じている人はいないでしょうか?いや、それどころか一度もその試合をしたことがない、という人はいないでしょうか?日常生活を、信仰と無関係なものにしては意味がありません。ぜひ試合をしてください。試合で信仰の力と成果を試してみてください。そして、勝ってください。勝利する喜びを味わってください。勝つと嬉しいものです。けれども、負けたとしても、その試合の経験の中で、きっと得るものがあるはずです。成長があるはずです。

 先ほど〈ライオンのグータッチ〉という番組のお話をしました。その番組に譬(たと)えれば、私たちキリスト者は皆、神さまのグータッチをいただいていると言えます。信仰という道のエキスパートであるイエス・キリストが私たちのもとを訪れてくださいます。今は、ご自分の代わりに天から聖霊を送って、私たちを全力応援してくださっているのです。
「あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神ご自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」(10節)。
 父なる神が、イエス・キリストを通して、私たちをサポートし、訓練し、しっかりと踏みとどまれる者へと成長させてくださいます。この世の苦しみは、私たちを信仰から引き離すものになることもありますが、反対に、私たちを強め、力づけ、揺らぐことのない信仰へと鍛えるものにもなるのです。
 いつもうまく行くわけではありません。けれども、この道に真理があると揺らがずに信じて、コツコツと練習しましょう。日常生活で勝負しましょう。そして、勝てた!と神さまとグータッチできる信仰生活を目指しましょう。





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