2016年5月15日 聖霊降臨祭ペンテコステ礼拝説教
  聖 書   ヨハネによる福音書14章15〜21節
  説教者  山岡 創 

14:15 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
14:18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
14:19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
14:20 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。
14:21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」


「 永遠にあなたがたと一緒に 」
[子どもの説教]
 今日は〈ペンテコステ〉と呼ばれる特別な日を迎えました。教会には特別なお祝いの日が3つあります。イエス・キリストのお誕生を祝うクリスマス、イエス・キリストの復活を祝うイースター、そして今日のペンテコステです。
 ペンテコステとは、どんな記念日でしょうか?先週の子どもチャペルの分級で、子どもたちと一緒にペンテコステについて学びました。ペンテコステというのは、簡単に言えば“教会の誕生日”です。そして、教会を産んだ“お母さん”が聖霊(せいれい)だと言っても良いでしょう。
 今からおよそ2千年前、ユダヤの国に、神の子であり、救い主であるイエス様が、“人間”としてお生まれになりました。イエス様は、人々に神さまの“愛”を届けるお仕事をなさいましたが、反対する人たちによって十字架に架けられ、殺されてしまいました。でも、十字架に架けられる前に、イエス様は、ご自分の代わりにあなたがたを守ってくれる方を送ってあげよう。その方は決していなくならない。永遠にあなたがたと一緒にいてくださる、と約束してくださいました。それが聖霊です。
 その直後、イエス様は十字架に架けられ死にましたが、復活して、弟子たちの前で天に昇って行かれました。弟子たちの前からいなくなりました。けれども、お弟子さんたちは、イエス様の約束を信じて、聖霊を送ってください、と祈りました。
 やがてイエス様の復活から50日目のペンテコステの日に、約束の聖霊が与えられました。激しい風が吹くような音がして、見た目は、人の舌のような形をした炎だったと聖書(使徒言行録2章)に書かれています。それが弟子たち一人ひとりにとどまったと言います。すると、弟子たちは、今まで口にふたをしていたマスクを外したかのように、イエス様の言葉を伝え始めました。十字架にかかり、復活したイエス・キリストが救い主であることを語り始めました。その日はお祭りの日でしたので、エルサレムの町にたくさんの人々が集まっていました。何事か!?と周りに集まって来て、弟子たちの話を聞いた人々のうち、その日に何と3千人もの人が洗礼を受けたと言います。自分の罪を感じ、イエス・キリストによる赦しを願い、今までの人生に決別して、新しい命に生きる決心をした人が、そんなにもいたのです。こうして世界初の教会が、聖霊によって生まれました。それがペンテコステです。

 今日は、ペンテコステ当日の聖書の箇所ではなく、その前の、イエス様が聖霊を約束してくださった箇所を読みました。さあ、聖霊とは何でしょうか?
 先週の分級で、子どもたちに、聖霊はどんなものだと思いますか?聖霊を感じたことがありますか?と聞きました。何人かの人が、聖霊は、自分たちの周りでフヨフヨ、フワフワしている、そんなイメージだと答えてくれました。おもしろいなぁと笑いそうになりましたが、今日の聖書の言葉から考えてみると、あながち間違ってはいないのかも知れません。17節でイエス様は、「この霊があなたがたと共におり」と言われました。聖霊は共にいるのです。永遠に一緒にいるのです。でも、目には見えない。それをイメージで言えば、自分たちの周りでフヨフヨ、フワフワしているということになるでしょう。
 でも、そこにいるだけです。私たちの外にいるだけです。まだ私たちの“内”に入っていない。「この霊があなたがたと共におり」の後に書かれているように、「あなたがたの内におり」にはなっていないのではないかと思いました。聖霊が私たちの内に入って来ると、つまり私たちが聖霊を受け入れると、それまでとは違うことが起こるのです。
 夏の中学生KKS青年キャンプに参加した人は、キャンプファイヤーでの出来事を印象深く覚えていることでしょう。一緒に体を動かしてゲームをした後、後半は証(あか)しの時間になります。最初に一人か二人、自分のことを話してくれる人を選んでおきますが、その後続けて、みんなが話をしてくれるか、シーンとした時間が続かないか、スタッフはちょっと不安なんです。でも、そんな不安を吹き飛ばすかのように、中学生が、高校生が、青年が次々と話をします。しかも、自分の心の奥に抱えていて、普段は決して話さないだろうということを証ししてくれる。自分の不安や悩み、弱さや劣等感を話してくれる。涙ながらに話す子がおり、それを聞いた者も感動に涙する。
 私は、あの時間、周りでフヨフヨフワフワしている聖霊が、私たちの内に入って来ているのだと思います。私たちの内で働いてくださり、自分の心の奥深くにあるものを話させてくれる。それを受け入れて聞けるようにしてくれるのだと感じます。お互いの心に、あたたかい“愛”を与えてくれるのだと思います。

 愛のあるところには、聖霊がいます。私たちの内にいます。私たちは時々、ついだれかに意地悪をしたくなったり、意地悪なことを言ったり、争って傷つけ合うことがあります。それは、聖霊が私たちの内にいない時です。イエス様の言葉を聞いて、そうしようと思うとき、聖霊は私たちの内に入って来ます。“聖霊よ、私たちの内にいつも来てください”と祈り求めていきましょう。そこには優(やさ)しい愛があふれます。


[大人の説教]
 教会のすぐそばを高麗川(こまがわ)が流れています。先日は土手際の公園で、お花見会を催し、皆さんと桜とちらし寿司を楽しみました。その公園にあずま屋があります。ある雨の日に、そのそばを通りかかった時、ニャーニャーと鳴く声が聞こえて来ました。あずま屋の下に段ボール箱が置いてありました。子猫が2匹、その中で鳴いていました。ふと気づくと、別の1匹が外に飛び出していて、雨に打たれ、うずくまったまま鳴いています。私はその子猫を箱の中に戻して立ち去ろうとしました。しかし、箱が低いせいか、子猫はすぐに箱から飛び出して、私を追いかけて来ようとします。もちろん、赤ちゃんですから、すぐに立ち止まってしまいます。かわいそうだとは思いますが、どうすることもできませんでした。私は子猫をもう一度箱の中に戻して、後は振り返らずに立ち去りました。
 今日の聖書の18節に、「わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない」という主イエスの約束がありました。「みなしご」という言葉からふと、あの捨てられた子猫たちのことを思い出しました。
 私たちの人生は、イエス・キリストに出会うのでなければ、捨てられた子猫たちのような「みなしご」の人生なのかも知れません。みなしごというのは、保護者のいない状態です。別の言い方をすれば、“独りぼっち”だということです。孤独の状態です。みんなと一緒にいれば孤独ではないかと言えば、そうではありません。みんなと一緒にいても孤独を感じることがあります。いや、かえってみんなと一緒にいることによって、孤独を感じることもあります。職場にいても、クラスにいても、サークルにいても、家庭にいても、私たちは孤独を感じることがあります。周りに人がいても、そこに一人も仲間がいなかったら、味方がいなかったら、私たちは孤独なのです。
 以前に〈海底のきみへ〉というドラマを紹介しました。中学時代にひどいいじめに遭(あ)い、引きこもりになってしまった青年が、懸命に社会に出て働こうと努力をする。そのもがき苦しむ日々の中で、青年は一人の女性と出会います。心を開きかけた矢先に、その女性の弟が中学でいじめに遭い、自殺未遂を図ります。それがきっかけとなって、青年は、この痛みと間違いを社会に知らしめようと、中学の同窓会の日に、かつてのクラスメートへの復讐、道連れの自爆テロを企てます。そして、爆弾のボタンを押そうとした時に、かの女性に止められ、彼はつかまります。しかし、数年の受刑生活の後、彼が刑務所を出る時、その門の前に、彼女と彼の実の妹が待っていました。彼はもう一度、生きようと決心をします。
 このドラマは、いじめを経験した人たちの多くの投稿を元に作られたドラマだそうです。その投稿の中に、“あの時、自分に一人でも味方がいれば‥‥”という内容のものがありました。人は独りぼっちの孤独には耐えられない。だれか一人でも、味方と思える人がいると、私たちは生きていける。希望と勇気を失わずに生きていけるのです。あの青年は、自分の心に寄り添ってくれる人が、彼が犯罪を犯してもなお彼を捨てない味方がいたことによって、もう一度“生きよう”と思うことができたのです。
 味方とは何でしょうか?自分の心に寄り添ってくれる相手です。そして、たとえ自分が間違っているとしても、それでもなお自分を捨てず、自分と人生を共にしてくれる人です。究極的には、自分と一緒に死んでくれる人でしょう。16節に書かれている「弁護者」というのは、そういう存在です。そして、そのような味方の究極、弁護者の究極的な存在が、イエス・キリストなのだと聖書は語ります。キリストは、私たちの罪のために、私たちと一緒に、十字架に架かって死んでくださった方なのです。
 そのイエス・キリストが、「あなたがたをみなしごにはしておかない」と言われます。「あなたがたのところに戻って来る」(18節)と言われます。生きた霊となって、聖霊となって戻って来て、永遠にあなたがたと一緒にいる、と約束してくださいました。
 私たちは、だれか味方がいれば生きていけます。そのような人生において、究極の味方と出会う、世界一の弁護者と出会うことが、信仰なのだと言うことができるでしょう。
 ある方が配偶者を失いました。自分の半身であるかのように、共に歩んで来た配偶者を失うということは、どんなに辛く、孤独を感じることだろうかと、自分自身に当てはめても想像できます。夜になると、何だか怖くなると言われました。きっと暗い夜の中で、独りということをいっそうお感じになるのでしょう。けれども、その時間に、独り座って聖書を読む。その聖書の箇所を説き明かした説教集を読む。そうしていると、不思議と怖さが遠のいて、平安が満ちあふれてくると言われました。聖霊なるキリストが、自分と一緒にいてくださる。自分を支える味方として寄り添ってくださることを感じておられるからでしょう。

 約束の聖霊は、私たちをみなしごにせず、弁護者として、永遠に一緒にいてくださいます。聖霊が共にあるとき、私たちは、主イエスが言われているように「わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが分かる」(20節)ようになります。ヨハネによる福音書の中には、これと同じような表現がたびたび出て来ます。具体的にイメージしづらい表現ですが、それは、父なる神とイエス・キリストと信じる弟子たちの一体感を表わしているのです。
 けれども、父なる神と、神の子であるイエス・キリストが一体だというのは分かりますが、私たちも一体だというのはどういうことでしょうか?神さまと一体なんて、ちょっとピンと来ません。けれども、これは父なる神とイエス・キリストの愛の中に包まれているということです。そして、その愛を知って、私たちがイエス・キリストの掟(おきて)を守る時、私たちはよりいっそう神の愛の中にいることを感じるでしょう。
 イエス・キリストの掟、それは13章34節に書かれているように、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」ということです。神が自分の究極の味方、自分を愛する方であることを知り、自分も、だれかの味方になろう、愛する者になろうと心掛ける時、私たちは、愛において父なる神とイエス・キリストと一体であることを感じるのではないでしょうか。
 御(み)言葉と信仰を通して、聖霊を内に受け止めて、互いに愛し合いながら、キリストの愛とともに歩む教会を目指していきたいと願います。





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