2016年5月22日 礼拝説教
  聖 書   ヨハネの手紙(一)1章1〜4節
  説教者  山岡 創 

1:1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――
1:2 この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――
1:3 わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。


「 命のことばを伝える 」
 今日からヨハネの手紙(一)を通して、神さまが私たちに何を語りかけ、何を求めておられるかを聴きたいと思います。皆さんの中には、ヨハネの手紙(一)を読むのは初めて、という方もおられるかも知れません。初めてこの手紙を読むに当たって、まず思い浮かぶ一つの疑問は、この手紙を書いたのは、ヨハネによる福音書を書いた主イエスの弟子であるヨハネさんと同じ人物だろうか?ということではないでしょうか。
ザックリと言えば、同じ人物です、とお答えすることができます。何だかはっきりしない言い方だなぁ、と思われたでしょう。実はヨハネではないかも知れません。けれども、少なくともヨハネの流れを汲む人が書いたと考えることはできます。そして、ヨハネの手紙(一)とヨハネによる福音書は、その内容の中心が非常によく似ているのです。そういう意味で、同じ人物が書いたと言いました。
例えば、気づかれた方もいると思いますが、今日読んだヨハネの手紙(一)の冒頭は、ヨハネによる福音書1章の冒頭部分と似通っています。また、この手紙を読み進んでいくと、その内容の中心が“愛”について、だということが分かります。あなたがたは神に愛されている、だから互いに愛し合いなさい。その信仰とメッセージは、ヨハネによる福音書の内容と同じです。
今年度から坂戸いずみ教会では、〈わたしたちの願い〉として、〈キリストの愛とともに歩もう〉を掲(かか)げました。その元となった聖書の言葉は、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」というイエス・キリストの教えです。これはヨハネによる福音書の御(み)言葉であり、その中心です。そのようなつながりもあって、この手紙を礼拝で説教させていただこうと考えました。

 さて、この手紙の冒頭1〜4節に、繰り返し出て来る言葉がありました。それは、「伝える」という言葉です。この手紙を書いた人物、ヨハネには、熱い思いで伝えたいことがあったのです。それは、1節に書かれているとおり、「命の言(ことば)について」です。
 「命の言」とは何でしょうか?皆さん、読んでいて、ちょっとおかしいと違和感を持たれなかったでしょうか?普通、“ことば”と言えば、私たちは“言葉”と書きます。けれども、ここでは“言”一文字で“ことば”と読ませています。通常の読み書きではあり得ない、パソコンで漢字変換しても出て来ません。
 どうして“言”一文字で“ことば”と読ませているかと言えば、それは普通の“ことば”ではないからです。私たちが普段、話したり、書いたり、読んだりしている“言葉”とは大きく違うからです。
 1節に「初めからあったもの」と書かれていました。この「言」は初めからあったのです。「初め」とは何でしょう?そこで連想するのは、旧約聖書・創世記の冒頭です。「初めに、神は天地を創造された」で始まる神の天地創造物語が記されています。その物語において、神さまは、混沌としたものに言葉で命じることによって、天地を、世界とそこに生きるものを創り出していきます。例えば、神さまが「光あれ」と言葉で命じると、光が現れる、というように。ヨハネの手紙(一)が「命の言」と言うとき、天地創造の際の“神の言葉”が意識されていることは間違いありません。
 ところで、ヨハネの手紙(一)は元々ギリシア語で書かれましたが、「言」と訳されたギリシア語は“ロゴス”という言葉です。ヨハネによる福音書でも同じです。これは通常、“言葉”とか“論理”と訳されます。“理性”とも訳されます。もっと大きな意味になると、宇宙の法則、永遠に存在し、万物を支配する法則なんていう意味にもなります。その意味で、聖書の著者は、永遠に存在し、宇宙、万物を支配している法則とは、神の言だと考えたのでしょう。
 ドイツの宣教師ギュツラフという人が、日本人に訳させた最初の聖書では、ロゴスを“賢いもの”と訳しました。ヨハネによる福音書1章1節は、私たちが使っている新共同訳聖書では、「初めに言があった」と訳されていますが、ギュツラフの日本語訳聖書では、“はじめに、賢いもの、ござる”となっています。また、気仙沼付近の方言であるケセン語で聖書を翻訳した山浦玄嗣先生は、ここを“初めにあったのは、神さまの思いだった”と訳しています。神さまの思いというのが、一番分かりやすいかも知れません。
 「言」について色々お話しましたが、正直、よく分からないぞ、という印象が強いのではないでしょうか?まとめて言えば、この世界を造り出し、支えている神さまの思い、といったところでしょうか。もっと簡単に言えば、“この世界でいちばん大切なもの”と考えたら良いのかも知れません。
 この“世界でいちばん大切なもの”が、私たちに命を与える。私たちの命を生かす。私たちに命の真理を示す。“命はこう生きるんだよ”とこの命を生きるために、いちばん大切なことは何かを教えてくれる。だから、「命の言」と言われるのでしょう。

 さてさて、ここまでの話だと、私たちには、机上の空論のような抽象的な話で、何のことなのか、よく分からないかも知れません。けれども、ヨハネは、「初めからあったもの」、世界を造り出し、支えている神さまの思いを、この世界でいちばん大切なものを、命の言を、「聞いた」と言うのです。「目で見た」と言うのです。「手で触れた」(以上1節)と言うのです。つまり、ヨハネは、これは机上の空論のような抽象的な話なんかではなく、とても現実的な話、リアルな出来事だと言いたいのです。
 そんなの嘘だと思われるかも知れません。けれども、ヨハネは確かに、世界でいちばん大切なものを見て、聞いて、手で触れたのです。と言うのは、世界でいちばん大切なものが、この世に“人間”となって、“人間”の姿で現れたからです。もうお分かりでしょう、命の言、世界でいちばん大切なものが人間となったのが、イエス・キリストだとヨハネは伝えようとしているのです。
 ヨハネは、イエス・キリストの弟子として歩みました。12弟子の中で、いつも主イエスのそばにいる3人の弟子の一人がヨハネでした。いつも間近でイエス様の教えを聞きました。間近でイエス様の姿を見ていました。それはまさに、手で触れられる距離感だったでしょうし、実際に触れたこともあったでしょう。そのように、極めて親しい交わりを、ヨハネは主イエスと持ったのです。そして、この世界でいちばん大切なものを教えていただいたのです。しかし、その大切なものに生きられず、失敗もしたのです。
 もちろん、ヨハネは最初から、自分の目の前にいる主イエスのことを、「命の言」、世界でいちばん大切なもの、とは思っていなかったでしょう。最初は、預言者の一人、ユダヤ人をローマ帝国から解放する英雄ぐらいに思っていたでしょう。けれども、主イエスの生き様は、世の常の預言者や英雄のそれではなかった。社会で疎外(そがい)されている人をこの上なく大切にし、指導者たちとはその思い上がりを鋭く指摘し、対立する。その信念を貫いて、最後は十字架に架けられ、処刑された。成功も栄誉もない、しかしこの世でいちばん大切なものを貫き通したその生き様、死に様を、ヨハネは最も間近で見たのです。触(ふ)れたのです。そして、その十字架の死から復活した主イエスと出会ったのです。復活の主イエスを見て、聞いて、触れたのです。復活については、皆さん、色々と思うところがあることと思います。今日は詳しい話はできません。ただ一つだけ、ここで申したいのは、ヨハネにとって、それはリアルな出来事だったということです。その後の生涯を大きく変えるほどに、伝えずにはおられなくするほどに、復活はリアルな出来事だった。それは間違いありません。
 その体験から、改めて、イエス・キリストをどのように紹介しようか、どのように伝えようかと考えたとき、イエス・キリストとは、「命の言」そのものだ、世界でいちばん大切なものだ、それが人となってこの世に現れた方だと理屈抜きに受け止め、伝えようとしたのでしょう。

 ヨハネは、イエス・キリストというリアルを通して教えられた、この世界でいちばん大切なものを伝えたいと、熱い思いを持っています。そのために、キリスト者である自分たちとの「交わり」(3節)を持つようになることを願っています。私たちの中には、だれかに誘われ、だれかとのつながりで、つまりその人との交わりで教会に来た、という人もいるでしょう。また、きっかけは何であれ、人との交わりを求めて教会に来る人もいるかも知れません。けれども、教会での交わりを通して、共に賛美し、共に御言葉を聞き、共に語り、共に祈ることによって、その交わりに、目には見えない第3者が、すなわち父なる神が、イエス・キリストが共におられることを信じられるように変えられていきます。その時、「交わり」は、「御父とイエス・キリストとの交わり」(3節)へと進化するのです。
 この世は“交わりの世界”だと言っても過言ではないでしょう。人との交わりはもちろんですが、人間以外の生き物や無生物との交わりまでも考えることができるかも知れません。だれと出会い、どんな交わりを持つかで、私たちの人生は大きく変わります。人生長く生きれば、そのような出会いと交わりを多かれ少なかれ、私たちは経験するでしょうし、きっとこれからそのような出会いと交わりを経験する若者もいるでしょう。そして、そのような出会いと交わりの究極が、イエス・キリストとの交わりだとヨハネは言うのです。そして、イエス・キリストと交わることを通して、父なる神を知り、神との魂の交わりが可能になるのです。イエス・キリストが教えてくださった愛、身を持って愛してくださった愛、十字架で命を献げてまで示してくださった愛。その愛によって神さまに愛されていると信じ、自分を愛し、神を愛し、人を愛する交わりに生きる。そこに人の命の救いがあるとヨハネは考えています。この世界でいちばん大切なものがあるとヨハネは考えています。もうお分かりでしょう。この世界でいちばん大切なもの、それは“愛”です。そして愛が“人間”となったのがイエス・キリストだとヨハネは私たちに伝えるのです。

 ヨハネは、この「命の言」を、世界で一番大切なものを、イエス・キリストとその愛を伝えずにはおられないのです。それを伝えることが「喜び」(4節)なのです。伝わったら、「喜びが満ちあふれる」(4節)のです。
 最近流行りの『嫌われる勇気』というアドラー心理学の本を読みました。最初に妻が読んで、私に話したくて仕方がない、という感じでした。その後で私も読みましたが、私もだれかに話したくなりました。その内容、驚くほどに聖書的なのです。聖書の内容を心理学的に捉(とら)え直したのではないか、アドラーという人は非常に深い信仰を持ったキリスト者なのではないか、とさえ思いました。
 時間もないので、その内容には触れませんが、私たちは、良いものと出会うと、それをだれかに伝えたくなる傾向があります。そういう意味でも、私たちはやはり、交わりに生きる存在なのでしょう。ヨハネも同じです。良いものと出会ったのです。この世界でいちばん大切なものと出会ったのです。だから、伝えずにはおられないのです。私たちも、聖書を通して、この世界でいちばん大切だと信じられるものと出会わせていただきましょう。その出会いと交わりから、喜びが満ちあふれる人生が、信仰が、伝道が始まります





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