2016年5月29日 大人と子供の礼拝説教
  聖 書   マルコによる福音書15章6〜15節
  説教者  山岡 創 

15:6 ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。
15:7 さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。
15:8 群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。
15:9 そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。
15:10 祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。
15:11 祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。
15:12 そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。
15:13 群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」
15:14 ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。
15:15 ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。


「 十字架につけたのはだれ? 」
 どんなグループや集団にも目的があります。例えば、サッカー少年団は、子どもが一緒にサッカーをするために集まります。小中学校は、子どもたちが義務教育を受けるために集まるところです。では、教会の目的は?‥‥それは、小さな幼子からお年寄りまで、みんなが神さまを信じて一緒に生きていくために集まります。つまり、“信仰の集まり”です。そして、私たちの信仰は使徒信条(しとしんじょう)という信仰告白に表わされています。この説教の後、私たちは大人も子どもも一緒に、使徒信条を告白します。
 ところで、子どもチャペルの礼拝では、『教師の友』という教材を使っています。その中で、4月から使徒信条について学ぼう、というシリーズが始まりました。今日は使徒信条の中で、“ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ”という信仰告白の内容を、大人の方も一緒に考えてみましょう。

 イエス様が十字架につけられたのは、私たちの罪のために犠牲になり、私たちの罪を赦(ゆる)すためです。そう信じることが、キリスト教信仰の大事なところです。でも、2千年前に、ユダヤで起こったイエス様の十字架刑が、どうして現代の“私”と、“私たち”と関係があるの?関係ないじゃない。私はイエス様を十字架につけてなんかいないよ、と普通は思うでしょう。そこで、どうしてイエス様の十字架が、私(たち)のためなのか、聖書から考えてみましょう。
 今日の聖書の中に、ピラトという人が出て来ました。使徒信条では、イエス様がポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受けた、と言います。ピラトはローマ帝国のユダヤ州の総督です。日本で言えば、県知事のようなものです。譬(たと)えて言えば、ピラトはユダヤ県の知事さんといったところです。
 総督には、裁判を行って、有罪か無罪かを判決する裁判官の仕事もありました。それで、祭司長たち(神殿での礼拝を行う人たち、牧師みたいなもの)が、イエスには大きな罪があると訴えたので、ピラトは裁判を行いました。ちょうど、この裁判は、過越(すぎこし)の祭りが祝われている時に行われました。
 当時ユダヤには、大きなお祭りが3つありました。過越の祭りもその一つです。お祭りの時には、特別に、人々が選んだ罪人を赦すという決まりがありました。大勢の人々(群衆)は、ピラトのところにやって来て、いつものようにだれかを赦して釈放してほしいと言いました。ピラトは、人々が“イエスを赦してほしい”と願うだろうと思っていました。と言うのは、祭司長たちの訴えは、ちゃんとした理由になっていなかったからです。イエス様には何の罪もなく、祭司長たちは、イエス様の人気をねたんで、イエス様に罪を着せて、十字架につけてしまおうと腹黒いことを考えていることをピラトは知っていました。ところが、何と言って言うことを聞かせたせたのか分かりませんが、祭司長たちは、バラバという人を赦して、イエス様は十字架につけるようにと、人々に言うことを聞かせたのです。
 では、イエスはどうするか?とピラトが聞くと、人々は「十字架につけろ」(13節)と叫びました。「いったいどんな悪事を働いたというのか」(14節)とピラトが言うと、
人々はそれに答えもせず、ただ「十字架につけろ」(14節)と声を大きくして叫び続けました。ついにピラトの方が折れて、人々を「満足させようと思って」(15節)、イエス様を有罪とし、十字架刑を決定してしまったのです。

 さて、だれがイエス様を十字架につけたのでしょうか?「十字架につけろ」と叫んだのは人々(群衆)です。でも、そう言わせたのは祭司長たちです。そして決定したのはピラトです。みんな、それぞれ責任があります。イエス様を十字架につけた罪があります。その中で、イエス様は不思議と、何も言わず黙っています。自分には何の罪もないと弁解もせず、自分を訴える人たちを罵(ののし)りもせず、黙っています。
 イエス様と他の人たちの間に、決定的な違いがあります。それは、他の人たちは皆、“人”を見ているということです。祭司長たちは、イエス様を見て、ねたみを感じ、消してしまおうと思っています。人々は、祭司長たちを見て、その思惑に乗せられ、従っています。ピラトは、人々を見て、恐れ、面倒なことにならないように、彼らを満足させようとしています。つまり、みんなが人を見て、人の目、人の思いを気にしています。“自分”がないのです。自分のなすべきことは何か?正義は何か?愛は何か?幸せは何か?自分で判断していないのです。
 他方、イエス様は、自分の周りの人を見ずに、ひたすら神さまを見つめています。神さまの心は何かを考えています。神さまの心を思い、自分で判断し、決断しています。争わず、沈黙し、みんなのために十字架につくことを引き受けようとしています。
 神さまを見ずに、人を見て、人を気にして判断し、行動し、その結果、人を傷つける。自分を傷つける。そういうことが私たちにもあるのではないでしょうか?だとしたら、イエス様を十字架につけた人たちと、同じものが私たちの心の中にもあります。同じ罪があります。自分の中にも同じ罪がある。それを認めることが、イエス様を十字架につけたのは私だ、と告白することにつながります。
 ウィリアム・ブースという人がいました。この人は、ある時、イエス様が十字架に架(か)けられている夢を見ました。イエス様が苦しんでいる。何とかしてお助けしたいのだが体が動かない。その時、一人の男が十字架に梯子(はしご)をかけて登って行きました。“あぁ、よかった。あの人がイエス様を助けて、十字架から降ろしてくれる”とブースさんはホッとしました。ところが、その男は、金槌を出して、イエス様が十字架につけられている手の釘を、もっと深く打ち込み始めました。何てことをするんだ!と思った瞬間、その男が振り返ってニヤっと笑いました。何とその顔は、自分の顔でした。この夢は、イエス様を十字架につけた罪人は自分だというブースさんの思いの現れでしょう。

 イエス様を十字架につけたのはだれか?その言葉で、私たちは自分を見つめ直すのです。自分の罪を認めることは勇気が要りますが、結局それが私たちの幸せにつながっていきます。
 イエス様は、そんな私たちの罪を背負い、犠牲となって赦してくださいます。私はふと、子どもの頃のある事件を思い出しました。小学校1年生の時、近所の同級生の女の子と遊んでいた時のことです。自転車に乗っていたら、突然、目の前が真っ暗になりました(たぶん脇見)。気づいたら、私は大きなおばさんにぶつかっていました。どの程度のけがをしたのか分かりませんが、おばさんは、自分を私の家に案内しろ、と言いました。“このことをお父さんとお母さんに言うのだろう”。私は怖くなりました。しかし、家はすぐ近くですし、逃げるわけにもいきません。私は恐怖を感じながら、おばさんを家に連れて行きました。その後、どういう話になったのか、私には分かりませんでした。けれども、今考えると、父と母は、私に代わって謝ってくれたのでしょう。けがの償(つぐな)いに、慰謝料を出したか、後で菓子折りの一つも持ってお詫(わ)びに行ったかも知れません。ともかく、私はそれでゆるされました。
 自分ではどうしようもない時、親が代わって謝り、責任を取ってくれます。まして父なる神は、神の子である私たちを愛し、その罪の責任を負ってくださるのです。私たちの中にある、どうしようもない罪の心を、父なる神さまが、イエス・キリストが、代わりに背負い、責任を取って、ゆるしてくださいます。私たちに安心を与えてくださいます。罪のある私が、イエス様の十字架によってゆるされて、神さまに愛されて、安心して生きていける。自分は生きていていい。ここに居ていい。安心して生きていけることは幸せです。その感謝を込めて、私たちは、“ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ”と告白することです。





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