2016年6月5日  礼拝説教
  聖 書   ヨハネの手紙(一)1章5〜10節
  説教者  山岡 創 

1:5 わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。
1:6 わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。
1:7 しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。
1:8 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。
1:9 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
1:10 罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。


「 闇の中から光の中へ 」
 「神は光であり、神には闇が全くない」(5節)。神が光であるとは、もちろん譬(たと)えであり、神のイメージを表わしています。神は光であると聞いて、私たちはどんなイメージを想像するでしょうか?様々なイメージが浮かんで来ると思います。そういったイメージの中で、今日の聖書の御(み)言葉がまず私たちに伝えようとしているのは、神とは、人の罪を照らし出す光、人の罪を明らかにする光だということです。
闇の中にあるものを私たちは見ることができません。例えば、真っ暗な部屋があったら、そこに何が置いてあるのか分かりません。探し物があっても見つかりませんし、部屋に入ることがそもそも危険です。そういう時、私たちはどうするか?懐中電灯で照らすか、部屋の電気を付けます。すると、部屋の中に何があるか見えるようになります。
 神さまとは言わば、そのような光だというのです。闇の中にいて見えない私たちの姿を照らし出す光、私たちの内にある心の闇を照らし、そこにある罪を見えるようにする光の役割をなさるのです。
 今日の聖書の中に、「罪」という言葉が何度も出て来ます。そして、「自分に罪がないと言うなら、自らを欺(あざむ)いており」(8節)とか、「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり」(10節)といった言葉がありました。罪は“ない”のではなく、気づいていないということです。もしくは気づいているけれど、認めたくないということです。そのように、罪に気づいていないか、気づいていても認めずに誤魔化す、隠そうとする心の動きと態度が「闇の中を歩む」(6節)という表現で語られているのです。そのように、気づかない罪、認めたくない罪に気づかせ、認めさせる役割をなさるのが神さまだと言うのです。

 ヨハネによる福音書の8章に、こんな話があります。主イエスが神殿で民衆を教えておられた時、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通(かんつう)の現場で捕らえられた女を連れて来て、主イエスの前に立たせました。そして、「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」(8章5節)と迫ったのです。律法は神の掟としてユダヤ人に重んじられていました。もちろん主イエスも重んじていました。そして、その中には確かに、姦通の罪を犯した者は石打ちで死刑と書かれているのです。主イエスが“殺すな”と言えば、律法違反で訴える口実ができます。“殺せ”と言えば、その冷酷な判断に民衆はがっかりし、主イエスから離れていくかも知れません。主イエスの教えや行動を非難していた律法学者やファリサイ派は、そういう巧妙な罠(わな)を主イエスに仕掛けて来たのです。
 ところが、しつこく問い続ける彼らに、主イエスは、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(同7節)とお答えになりました。「どうお考えになりますか」という問いかけを、逆に彼らに投げ返したのです。しかも、自分自身の罪を考えた上で、と条件を付けて。
 こう言われて、そこに居合わせた人々はどうしたと思いますか?「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしま(った)」(同9節)というのです。主イエスと女だけが残った、というのです。律法学者やファリサイ派の人々はもちろん、民衆も皆、一人残らず立ち去ってしまったのです。だれ一人、石を投げなかった。投げることができなかった。自分も罪を犯したことがあるからです。それを認めざるを得なかったからです。
 主イエスの言葉によって、人々は心の中で“神の前”に立たされました。もし神さまを意識せず、目の前にいる“人間イエス”だけに向かい合っていたら、彼らは自分にも罪があると思っていても、誤魔化(ごまか)したかも知れません。けれども、目には見えないけれど神さまに向かい合っていると意識させられた時、誤魔化すことができなくなったのです。つまりそれは、主イエスの言葉によって、神という光に自分の姿を照らされて、はっきりと見ずにはおられなくなったということです。
 この経緯の後で主イエスは、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(同12節)と言われました。神という光のシャワーの中に人々を立たせた主イエスご自身、「光」であると宣言されたのです。人の内を照らす言葉を持っておられるのです。光の神と一体だと言っても良いでしょう。

 神さまという光は、私たちの内側にある姿を照らし、明らかにします。気づかせ、認めさせます。けれども、それだけではありません。光にはもう一つ、より大切な役割があります。7節に、「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子(みこ)イエスの血によってあらゆる罪から清められます」とありました。神という光、主イエスという光の中を歩むとき、自分の罪に気づかされ、認めるだけでなく、言わばその光に暖かく包まれるような生き方が生み出されるのです。主イエスによって罪を清められ、清められた者同士の心を開いた交わりが始まるのです。
 そのきっかけは、気づいた罪、認めた罪を悔い、神さまに向かって告白することです。続く9節に次のように記されています。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦(ゆる)し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」。
 この御言葉は、礼拝において〈悔い改めと赦し〉の中にも引用されている言葉です。この御言葉によって、自分の罪の告白を促(うなが)された私たちは、神さまに対して、共に、共同の言葉で、自分の罪を公に言い表します。余談ですが、以前に講壇交換礼拝で他の教会に伺ったとき、礼拝の中で自分の罪を黙想する時間がありました。帰りの自動車の中で、一緒に行った教会員の方と、坂戸いずみ教会の礼拝の中にも、共同で、公に告白する前に、自分自身の罪を思い巡らし、悔い改める時間を設けてもよいですね、と話し合ったことがあります。自分の罪を黙想してから共同の告白をした方が、形式にならず、共同の告白でありながら、その中に自分自身の悔い改めの思いを、より強く、深く込められるようになると思われます。検討したい課題です。
 ともかく私たちは、何らかの形で自分の罪を告白します。それは、罪の赦し、罪の清めという救いの恵みに、私(たち)という存在を丸ごと包んで受容し、生かす命の真理に出会うためです。一言で言うなら、神の愛と出会うためです。
 この命の真理、神の愛は、「御子イエスの血」によって示されました。主イエス・キリストが、私たちの罪を背負い、身代わりとなって十字架にかかり、罪を償(つぐな)ってくださったと聖書は語ります。別の言い方をすれば、命がけで私たちに対する神の愛を示してくださったのです。だから、主イエスの十字架は、命がけの神の愛のシンボルなのです。
 主イエスのたとえ話の一つに〈ファリサイ派の人と徴税人〉の話があります(ルカ18章9節)。先ほど話したヨハネ福音書8章にも登場したファリサイ派と徴税人(ちょうぜいにん)が神殿を参拝して、神さまに祈りをささげる話です。ファリサイ派の人は、自分は律法に書かれていることを、あれも行っている、これも守っている、と言い、徴税人をチラッと見て、自分はこの徴税人のような人間ではないことを感謝する、とまで言って祈りました。自分は正しく生きている。だから神様、ほめてください、認めてください、という祈りです。他方、徴税人は、「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」(13節)、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(13節)と祈りました。自分は律法を守れず破っている。罪を犯している。神さまに誇れるものなど何もないことを自覚していた徴税人は、ただただ自分の罪を告白し、神の憐れみを願う祈り以外できなかったのです。ところが、この話の結末、「義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」(14節)と主イエスは言われました。律法を行うという意味では、それを守っていたファリサイ派の人は、自分を正しい人間だと思い込み、もっと深い自分の罪に気づいていなかったのです。彼は、闇の中を歩んでいました。一方、徴税人は、自分の罪を知り、悔いて告白しました。その悔い改めと祈りを通して、神の愛が注がれます。神の赦しに気づきます。罪の告白とは、神の愛という光が差し込んで来る“窓”なのです。窓を閉じて心の部屋を暗い闇にしている時は、愛の光は差し込んで来ません。自分の罪を認め、神さまに向かって心を開くとき、神さまが罪を裁き、罰する方ではなく、罪を赦し、愛する方であるとの光が、暖かく心に差し込んで来るのです。
 先ほどの姦通の現場で捕らえられた女性の話、主イエスはこの女性と二人きりになった時、彼女にこう言われました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい」と。神さまという光、主イエス・キリストという光は、人の罪を照らし、明らかにするだけでなく、罪人を暖かく包み、赦し、愛する光なのです。
 私も青年の頃、この光の意味を知りませんでした。ファリサイ派の人のように、聖書の中で命じられていることを行い、正しく生きることで、神さまは私のことを認めてくださる、愛してくださると思い、行いに熱心になりました。けれども、熱心になればなるほどできない自分、また心のない形だけの行いをする自分に気づかされ、私は、こんな自分では神さまに認めていただけないと絶望しました。自分には価値がないと落ち込みました。しかし、そのようなダメ人間の罪人だと思った時初めて、自分に注がれている神の愛に気づきました。“お前はそのままで生きていい。生きる価値があるのだ”と語りかけて来る神の言葉を聴きました。生かされてあることを知りました。自分という存在が丸ごと受け入れられ、認められていることを知り、平安になりました。

 現代人である私たちは、「自分の罪」というものをどのように考えるか、大きな課題です。聖書が示す罪とは、犯罪のことではありません。一言で言うなら、神さまの御心に適わない生き方ということです。それは、“愛”という視点で考えるべきものです。
 主イエスは、神の律法の中で最も重要な掟は、心を尽して神を愛することと、隣人を自分のように愛することだと言われました。そして、新しい掟として、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)とお教えになりました。私たちは、この主イエスの言葉によって照らされる時、自分の罪を知るでしょう。自分は神を愛しているか?人を愛しているか?自分を愛しているか?と問いかける時、見えて来るもの、気づかされる自分の姿があるでしょう。神との関係において、神に造られた者として、謙遜に、また自分らしく生きられない自分を知るでしょう。隣人との関係において、相手の視線や考えばかりを気にして、あるいは見下して、その人を尊敬し、受け入れ、対等に向かい合うことのできない自分を知るでしょう。自分との関係において、自分を受け入れず、認めず、傷つけている自分を知るでしょう。神を愛せない、人を愛せない、そして自分を愛せない罪に気づくでしょう。
 けれども、そのような自分が神さまに丸ごと受け入れられ、赦され、愛されている存在だということを知る時、私たちは、安心と感謝を得るでしょう。自分を受け入れられるようになるでしょう。人を受け入れ、心を開くようになるでしょう。自分を徒(いたずら)に隠さず、偽(いつわ)らず、人に心を開く交わりへと向かうでしょう。その時、私たちは、信仰によって神という光の中を歩んでいます。幸せの中を歩んでいるのです。




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