2016年6月12日  礼拝説教
  聖 書   ヨハネの手紙(一)2章1〜6節
  説教者  山岡 創 

2:1 わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。
2:2 この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。
2:3 わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。
2:4 「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。
2:5 しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。
2:6 神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。


「 キリストのように歩む 」
 私たちが、キリスト教の教えを伝道して行く上で、一つの引っ掛かりになるのは、「罪」という言葉だと思います。今日、この礼拝(れいはい)においでになっている方の中にも、「罪」の意味内容がよく分からないという方、また自分は罪など犯していないと、「罪」という言葉に不快感を感じている方がおられるかも知れません。
 先週の礼拝後に行われた交わり会でも、この話題が出ました。“罪”という言葉を説明なしに使うと、私たち日本人の間では、どうも誤解を生じる恐れが多分にある。それは、罪と言われると、日本人はまず犯罪を連想する人が多いからです。けれども、人はもっと根本的な罪を抱えて生きている、と聖書は見ています。
 聖書の元々の言葉で、罪とは“的外(まとはず)れ”という意味です。放った矢が的を外すという意味です。当てるべき的に当たらずに、逸(そ)れている状態です。別の言い方をすれば、“道を逸れている”と言っても良いでしょう。道を逸れて、間違った道を進んでいるから目的地に着かないのです。いわゆる“迷子”の状態です。そういうニュアンスをうまく伝える日本語訳はないものかと交わり会で話になりました。
 あなたがたは、的外れな生き方をしてはいないか?人生の迷子になってはいないか?それが、聖書が語るところの“罪”という言葉が問いかけてくるものです。
 では、人生のどこで的を外しているのか。それは、他者との関係においてです。神との関係において、また人との関係において、です。簡単に言えば、私たちは神さまと仲違いし、また人とも仲違(なかたが)いしながら生きている、ということです。私たちは、私たちを神さまの気持、神さまのお考えが分からずに生きている。誤解したまま、また従おうとせずに生きている。そして、その“神さま関係”がおかしなことになっているから、“人間関係”においても、的を外し、道を逸れて生きることになってしまうのです。相手のことを考えず、自分中心に振る舞ったり、自分と人を比べてみたり、自分が正しいと言い張って相手を裁き、否定したりするのです。その間違いは、他人との人間関係だけではなく、“自分”との人間関係にも及んで来ます。自分を過大評価して思い上がったり、逆に劣等感で自分を好きになれなかったり、何でも自分の知恵・力で行い、答えを出さなければ納得がいかなかったりするのです。
 聖書が語りかける“罪”の問題、少しご理解いただけたでしょうか?けれども、私たちは、そういう自分の生き方の間違いに気づいていないことが少なからずあります。自分はこれでいいと思い込んでいるのです。先週の説教でもお話しましたが、私たちは、神という光、神の言葉という光によって、自分の姿を照らし出していただいて、時々、自分の姿を見直す必要があるのではないでしょうか。

 折々に私たちは自分の罪をチェックする。それは、罪を犯さないようになるためです。今日の聖書の1節にも「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです」(1節)とありました。自分の罪に気づいて、それを改めていく。それによって私たちは罪を犯さないようになっていきます。
 けれども、罪という現実は、そんなに単純ではない。改まったと思っても、再びしてしまう罪があります。また自分で気づかない罪があり、また気づいても自分ではどうにもならない罪もあります。だから、16世紀に生きたマルチン・ルターという宗教改革者は、罪を悔い改めるとは、ただ一度のことではなく、私たちの全生涯が悔い改めであることを主イエスは望まれたのだ、と言いました。そのとおりだと思います。私たちの人生にはそれぐらい、自分を見つめる謙遜さが必要だと思うのです。
 そのように、私たちが罪を犯さないようにと努めても、罪から逃れられない、罪を犯さずにはいられない。開き直って言うのではありません。それほどに、私たちの罪の問題は、的外れの状態は深いということだと思います。けれども、だからこそ、神さまは、私たちが自分では完全に解決することができない罪の問題を、神さま御自身が代わって解決してくださいました。神の独り子イエス・キリストに償(つぐな)わせるという方法で解決してくださったのです。「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、私たちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです」(2〜3節)とありました。ここには、裁判の法廷のたとえが用いられていますが、言わば、私たちが被告人として裁かれるとき、主イエス・キリストが弁護者として立ち、“私がこの人のために罪を償いますから、どうか罪の罰を負わせないでください。刑を科さないでください”とかばってくださるということです。そして、罪の償いにご自分の命を保釈金として出してくださった。ご自分の命を償いに差し出してまで、私たちの罪の赦しを獲得してくださった。それが、しばしばお話するキリストの十字架の意味です。
 「いけにえ」とは、極めて宗教的な表現ですけれども、もう少し別の言い方をすれば、罪を抱えたまま生きていても、私たちの存在は否定されないということです。安心して生きていて良いのだよ、ということです。気づかなければ気づかないままですが、私たちは、自分の的外れ、間違いに気付き、それがだれかを深く傷つけたと感じたとき、自分を責めます。責任を感じ、でも取り返しがつかないこともあって、自分を否定します。生きていてはいけないとさえ思うことがあります。また、例えば劣等感のように、自分の的外れに気づかないまま、自分には価値がないと落ち込み、自分の存在を否定することがあります。生きている値打ちがないとさえ思うことがあります。普段は表立って語らない、考えないかも知れませんが、自分の胸に手を当ててみれば、それほどに私たちが抱えている命と罪の問題は深いのだと思います。根本的だと思います。
 けれども、それでも私たちは存在を否定されません。与えられた命です。私たちが自分で造り出したものではありません。与えられた命だから、それが召される時まで生きて良いのです。色々な問題を抱えていても、その価値がなくなるわけではありません。生きて良いのです。安心して生きてよいのです。生きるということは、命を与えてくださった方に存在を丸ごと受け入れられ、生かされ、赦されて生きている、ということだと思います。そのお方の思いを信じて、“こんな私ですが、よろしくお願いします”とゆだねて生きるのです。

 あなたの存在は、あなたの命は決して否定されない。安心して生きて良いのだよ。聖書は、この恵みを語りかけます。幸せを語りかけて来ます。だからこそ、この恵み、幸いにふさわしい生き方があります。私たちは、罪の問題を抱えていても、存在を否定されず、受け入れられ、赦されて生きています。これを一言で言うなら、「神の愛」(5節)です。けれども、だからと言って、自分の罪はこのままでいい、と開き直って生きることはふさわしくありません。主イエスも、“安心して行きなさい。もう罪を犯してはならない”と言われました。無条件に、無償で肯定され、愛されているからこそ、射当てるべき的があります。進むべき道があります。ふさわしい生き方があります。それは、神の愛を感謝して、自分も神を愛し、自分を愛し、人を愛して生きることです。
 3節に、「わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります」と書かれています。神の掟とは、主イエス・キリストが弟子たちに、新しい掟を与えると言って命じられたこと、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ福音書13章34節)ということです。これが、神さまの思いであり、私たちが射抜くべき的です。
 先ほどからお話して来た“罪”ということで言えば、罪とは、この神の掟を守らずに破ることだと言い換えることができます。神に愛されていることを知らず、人を愛さずに生きることです。神の愛を知り、感謝して、自分を肯定し、人を愛して生きている時、私たちは、命本来の、ふさわしい生き方をしています。それは、「神を知っている」生き方だと言われています。
 「『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者」(4節)がいました。神の愛を感謝せず、人を愛さない者がいました。そういう人は、キリスト者として「偽り者」(4節)だとさえ言われます。厳しい言葉です。当時の教会には、人間を肉と霊によって成る存在と考え、霊の面ばかりを強調する人たちがいました。神人合一と言って、霊において神と一致することが救いだと考え、人間の肉の面、つまり体と生活の面を軽く考える。だから、罪の問題など大したことではないと言い、イエス・キリストの償いなど重要ではないと考え、愛する生活を軽んじる人々がいました。それは、的外れな生き方、的外れな信仰だとヨハネは言うのです。

 「神を知っている」人は、神の愛を知り、感謝し、人を愛して生きる人だとヨハネは教えます。そのように生きようとする人は、「イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません」(6節)とヨハネは語りました。それは、主イエスが人を愛したように、私たちも人を愛するということでしょう。主イエスが私たちを愛するために、ご自分の命を献げたように、私たちも、自分を人に献げるような、与えるような生き方をしようということでしょう。つまり、主イエスの言葉をよく聞いて、主イエスの姿をよく見て、まねるような生き方をするのです。
 まねるような生き方ということで、先日の朝日新聞の〈フロントランナー〉というコーナーで紹介されていた、宮大工の小川三夫さんのことを思い出しました。小川さんは、高校を卒業した後、何度も弟子入りを断られながらも、21歳で、法隆寺の宮大工棟梁だった西岡常一氏に入門します。そこで道具の使い方、大工としての勘、立ち居振る舞いなど、西岡棟梁のすべてを体に写し取るように修業をされます。そして、30歳で独立し、宮大工の集団〈鵤(いかるが)工舎〉をつくります。小川さんは言います。
 大工の仕事というのは、言葉で教えることができないんだよ。技術は体の記憶だからな。だからこそ、弟子を一人前に育てるには、昔ながらの徒弟制度しかないと、俺は思うんだ。
そのように“教えない”を信条に40年やって来た小川さんが、最近、
でも、ここを独り立ちしたら迷うこともあるはずなんだ。西岡棟梁が亡くなった後、もっといろいろ聞いておけばよかったと、俺も思ったからな。
と言って、技術や伝道の儀式を教える場所をつくろうと考えているともいいます。そうやって、先人の心と技術、その生き方を受け継ぎながら、300年先の大工が解体修理をしたときに、平成の大工の技術や思いを読み取れるような、うそ偽りのない仕事を残すこと、それこそ小川三夫さんの願いだと紹介されていました。
 私たちも、「偽り者」ではないキリスト者として生きたいと願います。そのためには、主イエスのように歩むこと、聖書の言葉や物語を通して、主イエスを見て、聞いて、まねること、愛することをまねて、自分の体に写し取ることだと思いました。
 そして、その点でふと気づいたことは、受け継ぐ者の大切さです。1節の最初で、ヨハネが教会の信徒たちを、「わたしの子たちよ」と呼びかけています。これは、言うなればヨハネの“弟子たち”です。もちろん主イエスを信じる弟子なのですが、同時に目の前にいるヨハネに教えられ、ヨハネをまねることで、主イエスのように歩んでいる弟子たちです。
私たちも教会の中で、この人のようになりたいと思う先輩信徒がいることと思います。その人をまねながら、私たちは信仰と愛の生き方を身につけていくような面があると思います。同時に、私たち一人ひとりが、だれかのモデルにされることもあるでしょう。自分のような者がとんでもない、と思うかもしれません。でも、罪のある私が、こうして赦されて、愛されて、生かされて生きているのだと感謝して、人を愛する生活をするとき、神の愛の下で、自分らしく愛に生きるとき、私たちはきっと、だれかのモデルになっています。感謝して、人を愛する嘘偽りのない信仰生活を歩みましょう。そうやって信仰は受け継がれていくのです。救いと幸せは受け継がれていくのです。





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