2016年6月26日  大人と子供の礼拝説教
  聖 書   ルカによる福音書24章36〜43節
  説教者  山岡 創 

24:36 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
24:37 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。
24:38 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。
24:39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」
24:40 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
24:41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。
24:42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
24:43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

「 幽霊は魚を食べない 」
 私たちは、神さまを信じています。けれども、神さまを信じる‥‥‥と一口にいっても、神さまの“何”を信じているのか、神さまを“どう”信じているのか、よく分かりません。これが分からないと、信仰はあやふやなものになりますし、下手をすると自分勝手な信じ方をしている場合があります。(かつて私もそうでした)
 何を、どう信じるか?それを表わすのが、信仰告白と呼ばれるものです。私たちの教会、教団には、日本基督(キリスト)教団信仰告白があります。また、後で一緒に告白する使徒信条、これは世界中の教会、クリスチャンに共通する信仰告白です。その中で、今日は“三日目に死人のうちからよみがえり”という告白部分、つまりイエス様の復活について聖書の言葉を聞いてみましょう。

 イエス様の復活を証言する物語は、4つの福音書の中にたくさんあります。皆さんは印象に残っている箇所、好きな箇所はありますか?ちなみに私は、ヨハネによる福音書20章で、信じないと啖呵(たんか)を切ったトマスの前にイエス様が現れてくださるシーンが大好きです。
 今日の箇所はルカによる福音書23章、弟子たちが集まっているところに、復活したイエス様が現れて、手足を見せ、魚を食べてみせるという話です。
 既にイエス様は、マグダラのマリアの他3名の女性に現れ、エマオの村へ旅する二人の弟子に現れ、さらにシモン・ペトロに現れておられました。そのことで、弟子と仲間たちが集まり、本当にイエス様は復活して現れた!と話しているところに、復活したイエス様がスーッと現われて真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」(36節)と祝福の挨拶(あいさつ)をなさったのです。
 今の今まで、“イエス様は復活した”とワイワイ話し合っていたとはいえ、いざイエス様が目の前に現れると、“本当だ”“嬉しい”“よかった”といった反応は出て来ませんでした。「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」(37節)とあるように、弟子たちは、イエス様の姿を見、その言葉を聞いても、疑い、恐れたのです。常識では考えられない出来事だったからです。その気持はよく分かります。私たちだって、弟子たちと同じ状況に立たされたら、復活したイエス様を見て、疑い、恐れるのではないでしょうか。
 そんな弟子たちに、ご自分が本当に復活したことを信じさせようとして、イエス様は手足を見せ、みんなの前で魚を食べて見せたのです。
「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」(38〜39節)。

 ところで、日本人は、幽霊には足がない、と考えているところがあります。イエス様は「わたしの手や足を見なさい」と言われましたが、二千年前のユダヤの人々も、幽霊には手足がないと考えていたのでしょうか。ちなみに、どうして幽霊には足がないか知っていますか?
 日本でも最初は幽霊にも足があったようです。昔の人は、亡くなると死装束(しにしょうぞく)と言って、白い服を着て、頭に三角形の布を付けました。幽霊を絵に描くとき、その姿で描かれたそうです。しかし、その絵を見る人にとっては、見なれた姿なので、ちっともおもしろ味がない。そういう中で、江戸時代に、丸山応挙という画家が、一見すると奇麗な女性、でもよく見ると足がなかったり、体の向こう側が透けて見える、という幽霊画を描いたところ、それが大ブレイクしたということです。以来、幽霊と言えば足がない、というのが定番になったのだそうです。
 もう一つ、ふと疑問に思ったことは、幽霊と亡霊はどう違うのだろう?ということでした。今日の聖書箇所には、「亡霊」という言葉が出て来ました。そこで、これも調べてみると、亡霊というのは“亡き者の霊のことで、見た目は人間とそっくりである”と書かれていました。では幽霊と亡霊の違いは?と言えば、先の手足の件で言えば、幽霊には手足がなく、亡霊はこちらに手を振ったり人間と同じ行動を取る、とありました。大きな違いは、幽霊の場合、この世に未練があって死に切れいない霊なのだそうですが、亡霊は、使命を果たすために、死んだ後も相変わらずその務めを継続している霊だということです。
 イエス様は、ご自分のことを亡霊ではない、と言われましたが、それは実体のない存在ではないという意味でしょう。この亡霊の定義からすると、イエス様、これに合っているなぁ、と思うのですね。死に切れないのではなく、使命を果たすために死んだ後も相変わらずその務めを続けておられる、そんなふうに復活したイエス様のことを思いました。弟子たちを救う、いや、すべての人々を救うという父なる神さまの願いを実現することをご自分の使命として、生きている時も、死んだ後も、その使命を果たそうと務めを継続しておられる。生きている時も、死んだ後も、弟子たちに、すべての人に、“あなたは神さまに愛されているのだ”というメッセージを届けようと、神の愛を届けようとして、霊となってまで働き続けておられるのでしょう。

 そこで、改めて考えてみると“救い”とは何でしょうか?イエス様が復活したことを信じる人は、自分も父なる神さまに復活させていただけるという約束を与えられます。そして、天の御国(みくに)に入れていただき、復活の体と永遠の命をいただいて生きる希望を抱くことができます。ならば、救いとは、復活して永遠の命をいただくことでしょうか?もちろん、間違いではないと思います。死を恐れている人にとっては、復活は希望であり、救いでしょう。けれども、もう一歩突っ込んで考えると、ちょっと違うような気がしてくるのです。
 と言うのは、自分にとって仲の悪い人、嫌いな人がいるとします。その人と自分がお互いに復活して、永遠に一緒に生きることになったらどうでしょう?それは、救いとは言えないのではないでしょうか?むしろ、それは苦しみでしょう。“天国”と言うよりは、“地獄”と感じるかも知れません。仲が悪い、嫌いだという理由でなくとも、相手に迷惑をかけたり、傷つけたりして、申し訳ないと思っている関係であったり、相手が自分のことを支配しているような関係であったり、つまり相手との関係が健全ではない相手と一緒にいて、しかも永遠に、なんてことになったら、これはものすごいストレスであり、決して幸せではない。救いとは言えません。
 だから、私は思うのですが、復活そのものが救いなのではなく、関係改善こそが“救い”なのではないでしょうか。神さまと互いに愛し合う関係に改善する。人と互いに愛し合う関係に改善する。この世に生きている間には、気がつかないかも知れないし、改善できない場合も少なからずあるでしょう。だから、愛による関係改善のチャンスがあの世にまで与えられている。生前には分からなかったことに、自分の至らなさや、逆に相手の思いやりに気づかされたりして、天国での方がきっと和解ができる。愛し合える。互いに和解し、愛し合うことができたら、私たちは嬉しいのです。幸せなのです。そこにこそ救いがあるのではないかと思うのです。
 天地創造の初めに、エデンの園でぶっ壊れた神さまと人との関係、人間同士の関係を回復することが神さまの願いです。そのために神の子イエス様が、愛することの大切さを教えてくださいました。愛を届けてくださいました。復活してまで弟子たちに、“私はあなたがたを愛している。赦している。恨んでなどいない。安心して平和な心で生きなさい”と語りかけてくださいました。神さまの愛を知り、互いに愛し合い、安心して生きる。そこにこそ平和な世界があります。幸せがあります。救いがあります。





   ウィンドウを閉じる