2016年7月10日  礼拝説教
  聖 書   ヨハネの手紙(一)2章18〜27節
  説教者  山岡 創 

2:18 子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。
2:19 彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました。
2:20 しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。
2:21 わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知り、また、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。
2:22 偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。
2:23 御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。
2:24 初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。
2:25 これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。
2:26 以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。
2:27 しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。

「 イエスは主である 」
 今年の4月から毎月1回、日曜日の礼拝の後、〈求道者の会〉を始めました。ちなみに、求道者とは、キリスト教信仰による道、生き方を求めている人を指します。まだ、イエスを自分の救い主と信じて告白し、生涯、信仰によって生きる誓いの洗礼を受けて信徒にはなっていませんが、お一人お一人、何らかの動機があり、きっかけがあって信仰の道に救いを、幸せを求めて教会に集う方々のことです。
求道中の方々には、信仰、聖書、教会のことで分からないことが少なからずありでしょう。けれども、こんなことを聞いてよいのだろうか?という迷いや、信徒の方々の前でこんな質問をするのは恥ずかしい、といった思いがあるのではないかと思います。そこで、個人的に私とお話していただいても良いのですが、求道という同じ立場にある方々が集まって、どんなことでも質問し、話すことができる会を設けようと考えたわけです。
その際、この会のたたき台として、キリスト教信仰の内容を体系的に学ぶ機会にしたいと願いました。それで、何年か前に礼拝で、日本基督教団信仰告白について、私が聖書からお話した説教シリーズを見直したものをプリントして一緒に読み、その上で様々な質疑や意見交換する形で行っています。

 求道中の方々だけではなく、教会員・信徒の方々にとってももちろん、自分が何を、どのように信じているのかを知っていることは、非常に重要なことです。なぜなら、自分が神さまによって救われているという確信、自分が信仰によって幸せに生きているという喜びは、自分が信じている信仰の内容にかかっているからです。
 私たちキリスト教の信仰は、聖書に基づく信仰、特に新約聖書に基づいた信仰です。けれども、聖書を隅から隅まで読んで、その内容を把握するということは、極めて難しい、とても大変な営みです。そこで、聖書の内容を、聖書に基づいて私たちが信じている内容をまとめて、簡単にしたものがあります。それが信条とか、信仰告白と呼ばれるものです。私たちの教会・教団には、日本基督(キリスト)教団信仰告白があります。その中に含まれている使徒信条は、キリスト教最古の信条として、すべての教会、教団に共通する信条です。だから、自分の信仰ってどんな信仰だろう?と疑問が湧(わ)いたり、他人から“キリスト教ってどんな信仰ですか?”と聞かれたら、日本基督教団信仰告白を答えればいい、使徒信条を思い出せばいいわけです。これは、けっこう簡単なことです。
 ただし、この信仰告白を、使徒信条を、ただ棒読みするのではなく、自分なりに理解し、自分の言葉で話せればベストです。その一部でもよいのです。聖書とその信仰告白、信条をすべて自分なりに理解し、自分の言葉で語れるようになるには、相当な時間がかかります。だから、求道者も、信徒も、そのために信仰生活を続ける、いわゆる“修業”を積み重ねるのです。求道者の皆さんに誤解をしないでいただきたいのは、信徒の方々は、信仰の内容をすべて自分なりに理解し、自分の言葉で語れるようになったから、洗礼を受けて信徒になったのではない、ということです。何かしら感じるものがあって、“この信仰でやってみよう”と決心して、洗礼を受け、信徒としての生活を始めたのです。そういう意味では、洗礼を受け、信徒になることがゴールではありません。そこから始まるのです。信仰の内容、その恵みと救いを自分なりに理解し、語れるようになるための求道の生活、修業は生涯続くのです。それでも、生涯かけても、信仰の道は極められない、だろうと感じます。だから、信仰生活において大切なことは、分らないこと、語れないことと、どう向き合うかです。一言で言えば、保留するということです。分からないことは、分かる時が来るまで、心の中にしまって取っておく、という態度です。もしかしてこの世で分からなかったら、天国でイエス様に聞いてみよう、ぐらいの大らかな姿勢が大切だと思います。分からないことがあっていいのです。分からないことがあっても、それを否定しない。自分が分からないからと言って否定すると、ともすれば私たちは「反キリスト」に陥る危険があります。

 今日読んだ聖書箇所に「反キリスト」という言葉が出て来ました。
「偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御(み)父と御(み)子を認めない者、これこそ反キリストです」(22節)。
 「反キリスト」とは、「イエスがメシアであることを否定する者」のことです。「メシア」というのは、旧約聖書の原語であるヘブライ語でキリストと同じ意味です。だから、「反キリスト」とは、イエスがキリストであることを否定する者ということになります。
 イエスがキリストであることを、すなわち、父なる神から遣わされた救い主であり、神の子であることを否定する人々が、ヨハネの教会の中にいました。この手紙をもう少し読み進んでいくと、4章10節に「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」と書かれています。イエスは、単なる預言者の一人ではなく、ただの“人間”なのではなく、父なる神と同質の神の子が、人となってこの世においでくださった方である。言わば、神が人となった方である。そして、全世界、全人類の罪を償ういけにえとなられた方である。それが、イエスが十字架に架かられた出来事である。父なる神が、神の子イエスを、いけにえとして私たちの罪を赦(ゆる)してくださったところに、神の愛が現れている。逆に言えば、イエスは命をかけて、神の愛を私たちに表してくださった。だから、イエスを通して神の愛が分かり、イエスをそのような方と認めることで、神と結びつくことができる。ヨハネが言いたいのは、そういうことです。イエスはキリストであると肯定し、信じるとは、そういうことです。そして、聖書に基づくキリスト教信仰において、最も重要な内容です。
 ところが、ヨハネの教会の中に、この信仰を否定する人々がいました。神の子であり、神と同質のイエスが人となったのは、仮の姿であって、本当に人間になったのではない。肉体を持ったのではない。だから、イエスが人間として自分の命を捨て、いけにえとなって全世界、全人類の罪を償ったという信仰は成り立たないと言うのです。イエス・キリストとは、極めて霊的な存在であり、霊においてイエス・キリストと一致することが重要だと考えたのです(仮現論)。そのように主張する人々が教会の中に現れました。
 そのような人々と、受け継がれて来た信仰を信じる人々とが対立し、ぶつかり、それらの人々は教会を去って行きました。今まで信仰生活、教会生活を共にしてきたかなりの人々が去って行ったのですから、残った信徒たちにとっては大きなショックだったでしょう。そのショックと動揺をどのように収めるか。指導者であるヨハネにしてみれば、彼らは「反キリスト」であった、「真理」を知らなかった、我々の信仰の「仲間」ではなかった、と言う以外になかったのでしょう。

 「初めから聞いていたことを、心にとどめなさい」(24節)とヨハネは語りかけます。ペトロをはじめとするイエス・キリストの使徒たちから伝えられ、受け継がれてきた信仰です。ヨハネも受け継いだ信仰です。受け継がれてきた信仰を“正統”と言います。これに対して、受け継がれてきた信仰とは異なる信仰を“異端”と言います。
 日本でも、異端と考えられているキリスト教があります(私は、もはやキリスト教とは言えないと思っていますが)。けれども、キリスト教の正統の教会からすれば異端でも世間一般の人々は、同じキリスト教だと思っている人が多いでしょうし、今日礼拝に出席しておられる方の中にも、どこが違うのだろうと疑問に思っている人もおられるかも知れません。
 正統キリスト教と異端の違いをザックリと言えば、異端は、?聖書以外の聖典を使い、それを重んじていること、?神が、父なる神と子なるキリストと聖霊による三つで一つの神であるという三位一体の神であることを否定することです。つまり、イエスは神の子、神ではなく、あくまで人間とします。だから、イエスの十字架によって表わされた神の恵みと愛と救いを信じず、救いの条件がまったく別のものに変わってきます。たとえば、教祖の選んだ相手と結婚するとか、神が喜ばれる善行を積むことによって救われる、というふうに考えるのです。
 以上、本当にザックリと異端についてお話しました。一つ注意したいのは、異端とカルトは違うということです。異端とは、お話したように、受け継がれてきたキリスト教信仰とは異なる内容の信仰です。カルトというのは、反社会的な行為をする宗教団体のことです。マインド・コントロールをしたり、金銭を巻き上げたり、法律に反する破壊的行動を取ることもあります。私は、異端であっても、カルトでなければ、その宗教信仰を否定する必要はないと思っています。正統な信仰とは違っても、その内容を信じて、救いを感じ、喜びを感じる人がいるなら、一宗教としては、それはありだと思います。要するに、(キリスト教だとは思いませんけれど)他宗教としては認めるということです。しかし、それがカルト教団であるならば、キリスト教の異端であろうと、仏教系であろうと神道系であろうと、イスラム教系であろうと、人に真理と救いを伝える宗教として許されないと思います。

 少し異端の話をさせていただきました。けれども、今日の聖書箇所で「反キリスト」と言われているのは、同じ教会・教団の中で、異なる信仰を抱いている人々のことです。その点、私たちは、まず自分自身の信仰が、聖書に基づいているか、使徒信条と信仰告白に適っているかを吟味することが大切でしょう。
 その意味で、私自身が「反キリスト」だった時がありました。私は高校1年、16歳の時、イエス様を救い主キリストと信じます、と告白して洗礼を受けました。適当な信仰生活をしていましたが、高校を卒業して、教会学校(子どもチャペル)の教師の奉仕をするようになってから、熱心になりました。子どもたちに聖書と信仰を教えるのだからと、聖書を熱心に、それこそ隅から隅まで読み、そこで命じられていることを実践しようとしました。けれども、熱心になればなるほど、聖書に書かれていることを行うことができない自分に失望し、こんなことではイエス様は私のことを認めてくださらない、父なる神さまは私のことを認め、救ってくださらないと落ち込むようになりました。
行いによって救われる。私たちは、行いと結果主義というこの世の価値観に慣らされているので、ついつい信仰でも、行いが救いの条件と考えがちです。けれども、それは言ってみれば「反キリスト」なのです。初めから聞いている、受け継がれてきた信仰とは違うのです。これは一つの例ですが、そんなふうに、私たちは知らず知らず、自分勝手な考えと思い込みから、イエス・キリストと父なる神さまの御(み)心に反する信仰を抱いていることがあるのです。
 自分の行いによるのではなく、イエス・キリストの十字架の恵みによって、神の愛によって愛され、救われる。この信仰を知った時は、心から嬉しかった。肩の重荷がスーッと取れて、本当に心が軽くなりました。それが、聖書が伝える「真理」であり、私たちの教会が初めから聞いて、受け継いできた信仰なのです。





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