2016年7月24日初雁教会との交換交流礼拝説教
  聖 書   ヨハネによる福音書13章34〜35節
  説教者  山岡 創 

13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
13:35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

「 キリストの愛とともに歩もう 」
 〈キリストの愛とともに歩もう〉。今日の説教題をそのように付けました。実は、この説教題の言葉は、坂戸いずみ教会の〈願い〉から取ったものです。
 坂戸いずみ教会では、この3年間、自分たちの教会の基本理念を模索(もさく)して来ました。1年ごとに変わるものではなく、変わることのない教会形成の方針です。関東教区の中でも、教会形成の方針というものを掲げている教会が幾つかあります。私たちの教会も、開拓伝道から創立20年の歩みを過ぎて、そのような教会形成の基礎になる、変わらぬものを定めようと、聖書の御(み)言葉から、そして教会の20年の歩みを振り返って協議して来ました。聖書の御言葉は、およそ二つの方向性がありましたが、イエス・キリストが弟子たちに、「あなたがたに新しい掟を与える」(34節)と言われたものを中心に据えることにしました。その御言葉が、今日朗読していただいた、
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(34節)
という御言葉です。
 この御言葉を基礎に据え、色々な方針の言葉が出て来た中から、協議検討を重ねて選ばれ、定められたのが、〈キリストの愛とともに歩もう〉でした。この言葉を、理念ではかたい、分かりにくいということで、〈わたしたちの教会の願い〉という言い方で掲げることにしました。週報にはもちろん表紙に載せてあります。作業が遅れがちですが、ホームページにもトップページに、要旨説明と共に掲げるつもりです。教会員、関係者がこの願いを意識し、共同の願いとするために、礼拝の中で唱える形を今、検討中です。

 〈キリストの愛とともに歩もう〉。言葉には随分こだわりました。ある意味で、キリストとともに歩もう、と言い換えても、中味はほとんど同じことかも知れません。
イエス・キリストが自分の隣にいて、共に歩いてくださる。共に生きてくださる。弟子さんたちは、そうやってイエス・キリストと一緒に歩きました。神の救いを宣べ伝えるために旅を共にしました。キリストがそばにいてくださることで、安心を感じていました。
 けれども、イエス・キリストは私たちの救いのために十字架にかかり、復活して天にお帰りになったので、地上にはもういません。弟子たちが改めて神の救いを宣べ伝える時にはいませんでした。そして今、ここに、私たちの隣にもいないのです。
けれども、私たちはキリストの教えを、何よりキリストの愛を、聖書によって知っています。キリストが命がけで弟子たちを愛されたこと、命がけで神さまの愛を私たちにとどけてくださったことを知っています。だから、イエス・キリストからいただいた愛に感謝して、愛を携(たずさ)え、愛を心がけて生きていきます。その微妙な違いを意識しました。それが、〈キリストの愛とともに歩もう〉という願いです。
 ふと『ラチとライオン』という絵本を連想します。ご存知の方もいるでしょう。ラチという弱虫の少年がいました。ある日、ラチの家に、小さな赤いライオンがやって来ます。ライオンは弱虫のラチを勇気づけ、強くするために訓練します。そして、ラチが家から出かける時には、いつもラチの服のポケットの中に入って、一緒について行きました。何をするわけでもありません。ただポケットの中で、ラチとともにいるだけです。でも、ラチはそれだけで心強く、勇気が湧いて来るのでした。
 そんなある日、公園でノッポの男の子が、小さな子どもたちが遊んでいたボールを取り上げて、いじめていました。それを見たラチは、勇気を出して、ノッポに向かって、ボールを返すように要求します。嫌だ、と言って逃げ出すノッポをラチは追いかけて、ついにボールを奪い返してきます。小さな子どもたちにボールを渡し、ラチは、ポケットのライオンに向かって“やったぞ!”と嬉しそうに声をかけます。ところが、その時、ライオンはもうポケットの中にいませんでした。家に帰るとテーブルの上に手紙が置いてありました。“君はもう立派に強くなった。勇気を手にした。だから、ぼくはかつての君のように僕を必要としている弱虫の男の子のところに行くからね”。
 キリストとともに歩もう、ではなく、〈キリストの愛とともに歩もう〉というのは、そんなイメージかな、と思うのです。イエス・キリストはもう地上にはいない。私たちはキリストとともに歩むことはできない。けれども、聖書を通して、キリストによって届けられ、教えられ、鍛えられた愛は、私たちの心のポケットに入っている。私たちはキリストの愛を抱いて歩む。愛されていることに安心して、人を愛する勇気を持って生きる。キリストの愛とともに歩む、とは、そんなイメージです。

 〈キリストの愛とともに歩もう〉。これは、坂戸いずみ教会が定めた教会の願い、基本方針だとお話しました。けれども、互いに愛し合い、キリストの愛とともに歩む、ということは、すべてのクリスチャンに共通する、普遍の課題であり、目標である。そう言っても過言ではないでしょう。イメージはできました。では、愛するとは、互いに愛し合うとは、具体的にはどうすることでしょう?
愛は、相手によって、様々な言葉となり、態度となり、行動となります。とても一口では言えませんが、愛を具体的に実践するためのヒントを二つお話します。
 “ゆうくんのあいさつは元気いっぱいだ”“のりちゃんは、独りでいる子によく声をかけている”“しんちゃんは、おもしろいことを言って、みんなを笑顔にしている”“ちかちゃんは何でも一生懸命だ”‥‥‥これは、AC(公共広告機構)の〈イイトコメガネ〉という、2年前ぐらいに放映されたコマーシャルの話です。一人の男の子が、クラスの友だち一人ひとりの良いところを見つけます。イイトコメガネをかけると、人の良いところが見えるのです。もちろん、本当にあるめがねではありません。“イイトコメガネは、みんなの心の中にあるよ”と、最後に男の子が言います。つまり、人の良いところを見るようにしよう、という呼びかけです。
 これ、愛がなかったらできません。愛がなかったら、人の悪いところばかりが見えてきます。人の悪いところは、なぜか小さなことでもよく見えます。それなのに、自分の悪いところは大きくてもなかなか気付きません。気づいても認めません。聖書の中で、イエス・キリストも、「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」(マタイ7章3節)と指摘しています。私たちは、人の悪いところばかりを見ていたら、文句や不満ばかりが出て来ます。そういうところに、愛のある良い人間関係が、安心が、平和が生まれるはずがありません。
 キリストは、愛のまなざしで、弟子たちの良いところを見ておられたでしょう。それは、父なる神のまなざしです。神さまは天の上から、愛のまなざしで私たちの良いところを見ていてくださいます。私たちも“キリストのめがね”を、“愛のめがね”をかけて、お互いに良いところを見ましょう。そこから平和と幸せは始まります。
 もう一つ、やはり最近の公共広告機構のコマーシャルですが、交差点で横断歩道を渡っていた男性同士の肩がぶつかります。一人が振り向いて、“この野郎、どこ見て歩いているんだ!”と言わんばかりの険しい形相で相手をにらみつけます。そこで、相田みつおさんの詩が流れます。
  セトモノとセトモノとぶつかりっこすると、すぐこわれちゃう。
  どっちかがやわらかければだいじょうぶ。
  やわらかい心を持ちましょう。
 もう一人の男性が振り向いて、“ごめんなさいね”と手を挙げて、やわらかな表情で渡って行きます。その言葉と態度に、にらみつけていた男性の表情が緩みます。そして、ふと、にらみつけた自分を反省するような表情に変わります。
 “やわらかい心を持ちましょう。それも立派な公共心です”と、このコマーシャルは結ばれます。やわらかい心は、寛容な心です。赦(ゆる)しの心だと言っても良いでしょう。川越市にある特別養護老人ホームの廊下の壁に、入居者の方々が書道をなさった様々な言葉が掲示されています。その中に“まあるい心”という言葉がありました。私は、とても良い言葉だなぁ、と感じて、その方にお願いしていただいて来ました。数年前のことですが、今もその言葉は、牧師室に貼ってあります。まあるい心とは、角のない、相手を傷つけない、やわらかい心でしょう。それは、聖書で言えば、キリストの心、愛の心です。
 イエス・キリストは、ご自分を裏切ったユダを赦されました。ご自分を知らないと否定したペトロを赦されました。ご自分を見捨てて逃げた弟子たちを赦されました。ご自分を十字架かに架けた人々を赦されました。そして、セトモノのような私たちのことも愛して、赦されます。
“やわらかい心を持ちましょう。それも立派な愛です”とイエス様は言われるでしょう。そこに平和と幸せが生まれます。

 キリストの愛とともに歩む志を持ち、「互いに愛し合いなさい」との御言葉に従って生きる。これは、私たちクリスチャンに共通の課題であり、目標です。救いの道、平和の道、幸せの道です。
 最近、アドラー心理学が一つの社会現象を起こしています。様々な形でのセミナー等も開かれているようです。私も、『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』の2巻を読みました。読んでみての私の感想は、その内容が驚くほどに、聖書的、キリスト教的だということでした。聖書、特に新約聖書を心理学的な視点から翻訳したものではないか、とさえ思いました。間違いなくそのベースには聖書が、キリストの愛があります。内容を丁寧に紹介する時間はありませんが、少しだけその内容の核心に触れるなら、アドラー(を紹介する著者)は、人生最大の選択は愛だ、と言います。あなたが抱えているすべての問題は、愛の問題に集約される。その問題をクリアし、幸せになるためには、愛を選ぶこと、愛する勇気を持つことだと言うのです。そして、わたしの幸せではなく、あなたの幸せでもなく、それ以上に、“わたしたちの幸せ”を追い求め、築き上げていく。それが愛だと言うのです。アドラーは、このように、わたしたちの幸せを求める愛を“共同体感覚”と呼びました。これだけでも、聖書の話を聞いているようだと思いませんか?“わたしたちの幸せ”を求め、築き上げるとは、「互いに愛し合う」ことに他なりません。共同体感覚とはまさに、互いに愛し合うことなのです。
「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(35節)。
とイエス・キリストは言われました。キリストの弟子であるということは、互いに愛し合う共同体を造る、ということです。そして、教会が真実に、そのような共同体であるならば、不思議と人を引き付けます。それは当然でしょう。だれだって、平和で、幸せで、愛にあふれた場所にいたいと願うに決まっています。
 もちろん、簡単ではありません。愛するとはある意味で、もっとも険しい道、困難な生き方です。だからこそ勇気が問われます。愛することへと一歩踏み出す勇気が問われます。信仰とは、愛の道であり、勇気の道です。聖書をよく読んで、聴いて、私たち一人ひとりを愛してくださるキリストの愛を知りましょう。キリストの愛が、私たちを、人を愛し、互いに愛することへと導く道標になるでしょう。私たちに、愛する一歩を踏み出させる勇気の源となるでしょう。





   ウィンドウを閉じる