2016年8月7日 礼拝説教
  聖 書   ヨハネの手紙(一)3章4〜10節
  説教者  山岡 創 

3:4 罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです。
3:5 あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません。
3:6 御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません。罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく、知ってもいません。
3:7 子たちよ、だれにも惑わされないようにしなさい。義を行う者は、御子と同じように、正しい人です。
3:8 罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。
3:9 神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。
3:10 神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。

「 神の種から生まれる人 」
 今日の聖書によれば、人は「神の子たち」と「悪魔の子たち」(10節)に区別されます。そして、神の子か、それとも悪魔の子かは、罪を犯すか否かによって区別されます。神の子たちは罪を犯さず、罪を犯すのは悪魔の子たちである、と言われているからです。さて、私たちは神の子でしょうか?それとも悪魔の子でしょうか?
 私(たち)は神の子だ。はっきりとそう言いたいところです。2章2節にあるように、イエス・キリストを「わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償(つぐな)ういけにえです」と信じ、洗礼を受けて罪を取り除かれ、清められた者は神の子である。そのとおりです。だから私は神の子だ、悪魔の子ではない。そう言いたいのです。
 けれども、「御子(みこ)の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません」(6節)、「神から生まれた人は皆、罪を犯しません」(9節)と言われると、“自分は罪を犯さないだろうか?犯していないだろうか?”という疑問が心の中に湧き上がって来ます。そして、自分は決して罪を犯さない、とは言えないのが、自分の現実だ、自分の心だ、自分の姿だと気づかずには、認めずにはおられなくなります。であるならば、罪を犯す者は悪魔の子だと言うのならば、私(たち)は神の子ではないのでしょうか。イエス・キリストを信じ、洗礼を受けながら、私たちは悪魔の子なのでしょうか。

 ひとまず、神の子か、悪魔の子かという問題から離れて、「罪」とは何か、改めて考えてみたいと思います。
今日の聖書箇所のはじめに、「罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです」(4節)とありました。これを読んで、罪とは法律に背くことだ、自分は法律を破るような犯罪は犯していないから罪人ではない、と思う人がいるかも知れません。けれども、聖書が語る「罪」とは、そんなに単純な、表面的なことではありません。法は法でも、神の法、もっと言えば“神の御心(みこころ)”を指していると考えられます。“罪とは、神の御心に背くことです”と考えた方が分かりやすい。では、神の御心とは何か?御心に背くとはどうすることでしょうか?
 旧約聖書のはじめにある創世記の3章に〈エデンの園〉の物語があります。人が初めて罪を犯す物語です。神さまによって天地が創造され、最初の人として造られたアダムとエヴァは、エデンの園で幸せに暮らしていました。園での生活について、神さまは二人に、一つだけ注意を与えました。「園のすべての木からとって食べなさい。ただし、善悪の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(2章16〜17節)。言わば、これはエデンの園の「法」であり、神さまの御心です。ところが、蛇が現れて、善悪の木の実を食べるようにと二人を誘惑します。そして、二人は誘惑に負けて木の実を食べてしまいます。すると、目が開けて自分たちが裸であることを知り、いちじくの葉で裸を覆います。夕方になって、神さまがエデンの園に来られると、二人は森に隠れます。呼びかけられ、見つかって、あの木の実を食べたのかと神さまから問われると、アダムはエヴァのせいにし、エヴァは蛇のせいに責任転嫁(てんか)をしました。
 言わば二人は神の法に背いて罪を犯したわけですが、そのような表面的な問題以上に、もっと深い、内面的な問題があります。それは、自分がしてしまったことを罪と認めていない、ということです。拙(まず)いことをしたと思ってはいるでしょう。だから森に隠れ、見つかったら人のせいにするのです。しかし、罪を罪として正面から向かい合い、認めようとはしない。聖書が最初に示した人の罪の姿とは、これです。
 もう既に天に召されましたが、三浦綾子氏というクリスチャン作家がいました。この方が書いた『光あるうちに』という著書があります。この本の〈罪とは何か〉という章の中で三浦綾子さんは、太平洋戦争の終戦後、自分は二人の男性とほとんど同時に婚約し、先に結納金(ゆいのうきん)を持って来た方と結婚すればいい、と考えていた、そしてそんな自分を悪い女だとさえ思わなかった、と書いています。しかし、もしこれが逆の立場だったら、自分は烈火のごとく怒ったに違いないと書いています。また、後に結核(けっかく)を患(わずら)い、入院していた時、自分は真実なる恋人・前川正を得た。ところが、そこに結婚したばかりの元婚約者・西中が現れ、自分の元・婚約者が不治の病に侵されたことを知った彼は、不憫(ふびん)に思い、毎日のように見舞ってくれたと言います。彼には新妻があり、自分には恋人がいる。しかし、別段悪いことをしているとは思わなかったと言います。けれども、これが逆の立場だったら、私は自分の恋人・前川を裏切者とののしり、西中の妻を浮気者と憎んだに違いない、と書いています。そして、そんな自分を顧みながら、
  罪を罪と感じ得ないことが最大の罪なのだ。(『光あるうちに』26頁)
と知ったと書いています。そう言って、三浦綾子さんは様々な例を挙げて行きます。自分が車で人の家の子どもを轢(ひ)いた時は、飛び出した子どもが悪い、親のしつけが悪いと言い、自分の子どもが轢かれた時は、運転手に食ってかかり殴りつけ、決して赦(ゆる)さなかった知人の男性。隣りの妻が浮気をした時は非難し、その夫に同情したけれど、自分が浮気をした時には“生まれて初めてすばらしい恋愛をしたの”と気にもしなかった女性。同居している義理の母親について“うちのおばあさんたら、食いしん坊で、あんな年をしていても3杯も食べるのよ”と嫁に陰口を言われ、傷ついたその老女が食を断って死んだという話。何気ない陰口、悪口が、めぐりめぐって人を深く傷つけるのです。なぜ私たちはそうなのでしょう?ダブル・スタンダードだからです。私たちは二つの尺度を持っている。“人のすることは大変悪い”という尺度と“自分のすることは、そう悪くはない”という尺度を持っているからだ。つまり、自己中心なのだ。だから、人を傷つける罪を犯すのだ。そして、そんな自分の罪に鈍感で、胸を痛めることの甚だ少ない私たちの姿を、三浦綾子さんは、これでもか!と言わんばかりに描いています。

 残念ながら、神の御子イエス・キリスト以外に、罪を犯さない人はいません。私たちは皆、罪を犯すのです。その意味で、“自分は神の子である”と胸を張って言えるような人は一人もいないのです。けれども、大切なことは、そのような自分の罪に気づき、自分は罪人であると、神さまの前に認めるかどうか、ではないでしょうか。自分を罪人と認め、悔いることによって、私たちは辛うじて、悪魔の子であることを免れるのではないかと思うのです。
 ユダヤ教のファリサイ派の人と徴税人(ちょうぜいにん)が、祈るために神殿に行ったという主イエスの話があります。ファリサイ派の人は胸を張って、自分の行いを誇り、神に祈りました。他方、徴税人は下を向き、胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18章13節)と祈りました。神さまから義とされて家に帰ったのは、今日の聖書箇所の言葉で言えば、神さまから神の子と認められて家に帰ったのは、徴税人だったと主イエスは語っています。そうすれば認められるという計算ではありません。現実に、私たちはそうする以外にないのです。聖書の言葉をガイドにして、自分の内側に分け入り、自分の罪を見つめるならば、そのように悔い改める以外に、私たちに生きる道はないはずです。だからこそ、私たちはこうして教会に来る。正しい人ではなく、罪人を招く主イエスに招かれて、ここに来る。自分の罪に気づき、認め、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と悔い改めて、祈るために、ここに来るのではないでしょうか。そして、「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(1章9節)との御言葉の下に、「わたしたちの罪、いや、全世界の罪をつぐなういけにえ」(2章2節)である神の御子イエス・キリストを信じて、罪を告白し、悔い改め、祈るのです。そのようにして罪を赦されて、愛されて、神の子とされていることを確信し、愛と安心を心に携(たずさ)えて、明るい気持で、私たちは日常生活へと踏み出していくのです。

 そのように考えると、今日の聖書箇所において「罪を犯す」という意味は、罪があるのに、それを罪と認めず、自分は正しい人間だと言い張ることではないでしょうか。そうだとすれば、確かに、イエス・キリストを信じる者は罪を犯さない、と言えるかも知れません。一時的に自己主張をしたり、意地を張ったりすることはあるかも知れません。けれども、どこかで必ず自分の罪に気づかされて、それを認め、悔い改めるに違いありません。なぜなら、主イエス・キリストによって蒔(ま)かれた「神の種」が、その人の内にあるからです。「神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません」(9節)。と書かれているとおりです。
 神に造られるとか、神に命を与えられる、とは言いますが、神から生まれる、というのはユニークな表現だと思います。けれども、これはギリシア神話のように、神々と人とが結婚して、半神半人のような人間が生まれるというようなニュアンスではありません。神から生まれるとは、神の種がその人の内側で芽生え、根を張り、成長して実を結ぶということです。
 私は、高麗川(こまがわ)の向こう側で畑を借りて家庭菜園をしています。昨日、これぐらい(中ぐらい)のスイカが二つ収穫できました。中がちゃんと赤いか心配ですが、家庭菜園をずっとやっていて初めてスイカを作ったので、とても楽しみです。
 種は土に蒔かれれば、必ず実を出します。小さくても、必ず実を結びます。主イエス・キリストは、聖書を通して、私たちの心に御言葉という「種」を蒔いてくださいました。その種は、私たちが無視しなければ、必ず芽を出します。御言葉を聞いて、すぐには分からなくても、その御言葉と対話し、心の中で思い巡らしていれば、いつか必ず、芽を出し、根を張り、成長します。そして、自分の罪を罪と認める信仰の実を、悔い改めの実を結びます。そのような自分が、イエス・キリストが十字架の上で私たちのために命をささげ、死んでくださった償いによって罪を赦され、清められていることを信じる実を結びます。神の子として愛されていることを信じる実を結びます。神さまに愛されたように、キリストに愛されたように、人を愛し、互いに愛し合う愛の実を結びます。
 私たちは「神の種」を宿した神の子です。神の種が芽を出し、成長して実を結ぶのは、神の霊である聖霊の働きです。御言葉をよく聞いて、思い巡らし、悔い改めの実、信仰の実、愛の実を結びましょう。





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