2016年8月14日 平和聖日礼拝説教
  聖 書   コリントの信徒への手紙(一)13章1〜13節
  説教者  山岡 創 

13:1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
13:2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
13:3 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
13:6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
13:8 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
13:9 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
13:10 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
13:11 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。
13:12 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
13:13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。


「 平和は愛から 」
 本日は〈平和聖日礼拝〉を迎えました(日本基督教団の暦では本来8月第1日曜日)。聖書の御(み)言葉と信仰から、平和を考える日曜日、平和を祈り求める日曜日です。この時期に日本基督(キリスト)教団が〈平和聖日〉を定めたのは、太平洋戦争が71年前の1945年8月15日に終戦したことと深く関係していると思われます。広島、長崎と原子爆弾によって日本が世界唯一の被爆体験をした国となったのも8月です。あの戦争を抜きにして、平和について語ることはできない、平和聖日の礼拝を守ることはできない、と言っても言い過ぎではないでしょう。
 戦後、日本は平和を謳(うた)う憲法の下に歩んで来ました。太平洋戦争で日本の人々が受けた痛み、と同時に、諸国に与えた苦しみ。その痛みと苦しみの経験に立って、日本国憲法第9条は生み出されたと言っても良いでしょう。戦争はしない。戦力を持たない。戦う権利を否定する。この3つを謳う憲法第9条を今、改めようとする動きが、政府において顕著(けんちょ)になっています。安倍政権は、専守防衛だった自衛隊のあり方を、他国(アメリカ)と共に海外でも戦うことができる集団的自衛権を行使することができるように閣議決定しました。そして、この決定を国会で決議することができるように、憲法第9条を変えようとしています。
 憲法第9条がなくなるとどうなるのでしょう?自衛隊が海外に派遣され、そこで戦闘があれば積極的に関わることに、つまり戦うことになるでしょう。戦争による自衛隊犠牲者も出るでしょう。そうなると、戦うことを嫌って、自衛隊に入る人が減るのではないか?そうなったら、政府は、徴兵制(ちょうへいせい)を施行するのではないか?政府は、徴兵制はしないと言っているけれど、現実に入隊する人が少なくなったら、必ず徴兵制を敷くでしょう。そうなったら、また太平洋戦争の時のように、家族が、親しい友人が、自分自身が、戦争に駆り出されることになる。そして、死ぬことになるかも知れない。相手を傷つけ、殺すことになるかも知れない。そんな危惧を抱いています。
 戦う権利を認め、戦力を持ち、戦うことを辞さない。この考えは、どこから来るのでしょう?詰まるところ相手への不信頼、人間不信から生まれる考え方です。そして、戦いもせずに、理不尽に殺されたら損だという、一種の損得計算でしょう。当然と言えば当然です。だれにだって生きる権利があります。
 けれども、この考え方からは“平和”は生まれない。私たちはだれしも平和を望みます。平和を祈り求めます。けれども、権利ばかりを主張して、損得ばかりを考えて、何も捨てなかったら、たとえ損をしても厭(いと)わないという考え方でなかったら、人と人との間に平和など生まれるはずがないのです。

 8月6日は広島に原子爆弾が投下され、多くの人々が犠牲になった記念の日です。先々週の金曜日、NHKで、広島での平和祈念式典が放映され、犠牲者への黙祷がなされ、松井一實・広島市長の平和宣言が行われました。
 その後、そのままテレビをつけていて、私がたまたまリビングに用があって来た時に、一人の年輩の女性が、平和を訴える証言をするのが映っていました。私が見て、聞いたのは、ほんの1〜2分だったと思いますが、その女性は、原子爆弾によって家族親族、親しい友人が犠牲になったようです。けれども、その女性は、原爆を投下した兵士を、アメリカを恨(うら)まない、憎まないと言いました。それは、自分の心の中にも悪があるからだと言うのです。自分も兄弟ととんでもないケンカをする。争い、戦う心がある。その悪の心を棚に上げて、どうして相手だけを恨み、憎み、責めることができようか。憎むなら、私は、人の心の中にある悪を憎む。戦争そのものを憎む。この女性は涙ながらに、そう語っていました。
 私は、ほんの数分でしたが、その証言に釘づけになりました。家族や友人が原爆の犠牲、戦争の犠牲になっているのです。自分も被爆したのです。原爆を落とした兵士を、アメリカを敵として憎み、恨んでも、不思議ではありません。そういう感情を抑えて、恨み、憎しみを捨てるというのは、何だか“やられ損”をしているような気にさえなるのです。けれども、この女性は、相手を憎まない、恨まない、責めない、と言うのです。それが、平和を生み出す根本的な心だと考えているのでしょう。私は、そのお考え、その言葉に大きな感動を覚えました。自分が何かを捨て、何かを犠牲にして、相手を大切にするところに、平和は生み出されていくのです。一言で言うならば、それは“愛”の心です。
 ヨハネによる福音書20章で、復活した主イエス・キリストが弟子たちのもとに現れた場面を思い起こしました。主イエスは弟子たちに、2度続けて、「あなたがたに平和があるように」(19、21節)と、重ねて祝福されました。その後で、弟子たちをこの世に遣(つか)わす、と言われ、息を吹きかけてこう言われました。
「聖霊(せいれい)を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦(ゆる)せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(22〜23節)。
 これは、主イエス・キリストに代わって、赦すも赦さないもあなたがたの自由だ、と言っているのではありません。“赦しなさい”と言っているのです。わたしに代わって、この世に赦しを広げなさいと命じているのです。赦すためには、当然主張できるはずの自分の権利を捨てなさい、と言っているのです。そうでなければ、どんなに「平和があるように」と祝福しても、あなたがたに「平和」などありようはずがない。主イエスご自身がそうされたように、十字架の上で命を捨てられたように、ご自分を裏切り、知らないと否認し、見捨てて逃げた弟子たちを赦したように、あなたがたも捨てて赦すのだ。愛するのだ。そこにこそ「平和」があると、主イエスは弟子たちを諭(さと)されたのです。一言で言えば、愛から平和が生まれる、ということです。

 今日は、コリントの信徒への手紙(一)13章、〈愛〉とタイトルの付いた、“愛の賛歌”と呼ばれる箇所を読みました。その冒頭には、「そこでわたしはあなたがたに最高の道を教えます」とのパウロの言葉があり、改めて、愛とは「最高の道」なのだということを受け止めました。
コリント教会では、天使の言葉と言われる異言(いげん)を語ることができる信者が優れているとされ、それができない者は蔑(さげす)まれ、教会に要らないとさえ言われることもありました。しかし、パウロは言います。愛がなければ、異言など「騒がしいどら」「やかましいシンバル」(1節)に過ぎないと。あらゆる知識と神秘に通じ、山をも動かす信仰を持っていても、愛がなければ無に等しい。全財産を貧しい人に施し、自分の命をささげることがあっても、愛がなければ何の益もない。そう言ってパウロは、愛を歌い上げます。
「愛は忍耐強い、愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(4〜7節)。
そして、この章の最後で、
「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(13節)。
と結ばれます。愛は「最高の道」そして、いつまでも永遠に残る最大のものです。私たちの世界で、最後に勝利するものは「愛」だと私は信じます。たとえ、人間の悪が、不信頼が、力が、この世を支配しているように見えても、愛は無力なように見えても、でも、人の内で最後に勝利するものは、愛以外にない、と信じます。
 先々週の金曜日、ジブリのアニメ映画〈もののけ姫〉が放映されました。ご覧になったことがある方もいると思いますが、アシタカという主人公が、対立する自然と人間の争いを和解させ、二つのものの間に平和を造り出す、そういうアニメ映画だと言うことができます。平和を造り出す“愛”の物語です。
 人間が山を切り崩し、森を開拓して、自然の世界を侵食していきます。それに怒り、抵抗し、戦うのが、山と森に住む“もののけ”と呼ばれる巨大な動物たちであり、その象徴(しょうちょう)が、山犬に育てられた人間の少女、もののけ姫と呼ばれる“サン”という少女です。主人公のアシタカは、森を切り開く人々と交わりを持ちながら、同時に、森を守ろうとするもののけ姫・サンにも心を寄せ、自然と人間、双方が共に生きる道を真剣に模索(もさく)します。
 ところで、山と森に“シシ神”と呼ばれる命と死を司る守り神がいました。時の天朝様はシシ神の首に不老不死の力があると信じ、隠密部隊にその首を取って来るように命じます。その企てが成功し、隠密部隊は首を手に入れますが、首を取られて怒ったシシ神が、人の命も森の命も吸い取る恐ろしい化け物・デイダラボッチとなって、首を取り戻そうと追って来ます。アシタカはサンと共に、人間の奪い取った首を、人間の手で返そうと、隠密部隊の長・ジコ坊を説得し、首を受けとって、“シシ神よ、首をお返しする。鎮(しず)まりたまえ”と叫びながら、首をシシ神に返します。それによって、デイダラボッチは止まり、死と滅びがそれ以上、人間界にも森にも広がるのが納まります。
 アシタカは自分の命を捨ててでも、自分がこれだと信じる道を、森と人間とが和解し、共に生きられる道を追い求め、平和を実現しようとしました。その行動は、対立する双方に味方し、損得を度外視した無計算で、“ばかじゃないの?”と言いたくなるような、愚かな行動にさえ見えます。けれども、その心と行動が、森と人間の間に平和をもたらしたのです。
 事が納まった後で、隠密部隊の長・ジコ坊が言った言葉が、今回とても印象に残りました。
   いや〜、ばかには勝てん。
 ばか。これは、アシタカをけなした言葉ではありません。他人のために自分を捨てた、無計算だけれども誠実なアシタカの心と行動っぷりを認めた言葉です。そして、私は、この“ばか”という言葉を、別の言葉に言い換えることができると思いました。それは“愛”です。“いや〜、愛には勝てん”、ばかには勝てん、とは、言い換えれば、愛には勝てん、ということです。愚かなほどの愛が、人の世界で最後には勝利するのです。

 愛には勝てん。この世で生きる「最高の道」、最後まで残るもの、そしてこの世で最後に勝利するものは、憎しみと争いではなく、愛だ。聖書は、私たちにそのように語りかけているのです。そして、その愛が、私たちの求めてやまない“平和”を造り出すのです。もちろん、主イエス・キリスト以外に、完全な愛は、私たち人間にはありません。けれども、あきらめず、絶望することなく、キリストの道、愛の道を歩いて行きましょう。キリストの愛とともに歩き、まず私たちの身近なところから、平和を造りだしていきましょう。





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