2016年8月28日 大人と子供の礼拝説教
  聖 書   ヨハネによる福音書17章1〜3節
  説教者  山岡 創 

17:1 イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。
17:2 あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。
17:3 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。

「 永遠の命なんて、あるの? 」
 “永遠の命を信じます”。私たちは、使徒信条(しとしんじょう)において、そのように信仰を告白します。神さまを信じ、イエス・キリストを救い主と信じることは、言い換えれば、永遠の命を信じる、ということでもあります。永遠の命がある、永遠の命が与えられる、と信じるのです。
けれども、“永遠の命なんて、本当にあるの?そんなもの、ないよ”と私たちは考えるかも知れません。その前に、そもそも永遠の命って何でしょうか?どんな命でしょうか?私たちは、永遠の命というのは、何百年も、何千年も、ずっとずっと永久に生きることだと考えていないでしょうか。

 私が子どもの頃、〈銀河鉄道999〉というアニメがありました。お金持ちと貧乏人、世界はそのように格差社会となり、金持ちは貧乏人を見下していました。やがて金持ちたちは、今の幸せをずっと永遠に続くものにしようと願い、自分の魂を機械の体に移し替えて機械化人間となり、永遠に生きるようになります。
 このアニメは、主人公の少年・鉄郎が、謎の美女・メーテルに誘われて、宇宙列車・銀河鉄道999に乗り、機械の体をただでくれるという星まで旅をする、という内容です。最初、鉄郎は、自分も機械の体を手に入れて永遠に生きられるようになりたいと考えていました。けれども、旅を続け、多くの人と出会い、色々なことを経験することを通して、“命って何だろう?”“永遠に生きることが本当に幸せなのだろうか?”と考え始めます。そして、旅の最後に鉄郎は気づくのです。
機械伯爵や、機械化人を見ていると、永遠に生きることだけが幸せじゃない。
  限りある命だから、人は精一杯がんばるし、
思いやりや優しさがそこに生まれるんだと、そう気が付いたんです。
  機械の体なんて、宇宙から全部なくなってしまえと。
  僕たちはこの体を、永遠に生きていけるからという理由だけで、
  機械の体になんかにしてはいけないんだと気が付いたんです。・・・
 私たちは、やがていつか死にます。このままずっと生きられるわけではありません。この命には限りがあります。でも、限りある命だから、人は精一杯がんばろうとするし、思いやりや優しさがそこに生まれる。それは、幸せな命なのではないでしょうか?永久ではないかも知れいないけれど、幸せな命ではないでしょうか?そして、聖書が言う「永遠の命」というのは、永久の命ではなく、幸せな命のことだと私は思うのです。

 聖書の中にも、永遠の命を得たいと願う若者が出て来ます。彼は、神の掟をよく学び、しっかり守っていました。でも、何か物足りない。そこで、イエス様のところにやって来て、“永遠の命を得るには、どうしたらよいでしょうか?”と尋ねます。イエス様は、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽して、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」(ルカ10章27節)と、その答えを示しました。すると、若者は、わたしの隣人とはだれですか?と尋ねます。そこでイエス様は〈善いサマリア人〉のたとえ話をなさるのです。強盗に襲われ、さびしい山道に倒れている人がいた。そこに祭司が通りかかったが、道の向こう側を通って行ってしまった。レビ人も行ってしまった。しかし、通りかかったサマリア人は、彼の手当をし、ろばに乗せて宿屋まで連れて行き、宿代まで出して行った。あなたも行って、このサマリア人と同じようにしなさい。それが隣人を愛することだと若者に教えました。
 若者は、永遠の命を得たい、と願ってイエス様のところに来ました。若者はたぶん、ずっと生きられる永久の命を考えていたと思われます。その若者に、イエス様は、〈善いサマリア人〉のお話を通して、神さまを愛すること、隣人を自分のように愛すること、それが「永遠の命」だと教えたのです。

 今日読んだ聖書の言葉も、〈善いサマリア人〉のお話と同じだと思います。
「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(3節)
 永遠の命とは、神さまとイエス・キリストを知ることだと、今日の聖書は言います。神さまとイエス様の教えによって、神さまとイエス様の心を知るのです。例えば、〈善いサマリア人〉の教えによって、神さまと人を愛することを知る、ということです。
 でも、“ただ知っている”だけではだめです。善いサマリア人のお話を、知っているだけではだめです。「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ10章37節)というところが大切です。聖書が言う“知る”というのは、そういうことです。ただ、イエス様の言葉を知っている、善いサマリア人の話を知っている、愛することは大切だと頭で知っていても“知る”ことにはなりません。実際にやってみることです。自分の家族や友だちを、思いやりや優しさを持って愛するのです。時には、見知らぬ人に親切にしたり、世界の反対側にいる人を援助するのです。時には、自分が嫌いない人を受け入れたり、支えたりするのです。失敗することもあるでしょう。難しい、大変だと感じるでしょう。悔しさも味わうでしょう。でも、きっと喜びを知るでしょう。愛することで人のあたたかさにも触れるでしょう。愛する喜び、愛される喜びに心が満たされるでしょう。それが“知る”ということです。愛を知るということ、神さまとイエス様を知る、ということです。言い換えれば、イエス様と同じように生きる、ということです。イエス様のように、神さまと人を愛して生きる、ということです。そして、それが永遠の命なのです。

 「永遠の命」とは、永久の命ではありません。“愛”の中で生きる命、愛にあふれた命のことではないでしょうか。
 理沙ちゃんという女の子がいました。5歳の時に、お腹に病気(腫瘍)ができました。入院して手術をし、強いお薬を入れる治療が始まりました。病院に、藤井あけみさんという人がいました。お医者さんでもなく、看護師さんでもなく、チャイルド・ライフ・スペシャリストと言って、病気の子どもと家族を支えるお仕事をする人でした。藤井さんはできるだけ理沙ちゃんを病室に訪ねました。理沙ちゃんも、藤井さんと遊ぶ時間が大好きでした。理沙ちゃんは紙粘土が好きで、病気のためにご飯が食べられない時も、紙粘土で大好きなのり巻やイチゴのケーキを作ってにっこりしていました。やがて、足にも病気ができ、お薬を使っても痛みが取れなくなって来ました。お母さんがマッサージをする時だけ痛みがやわらぎます。そして、痛みが和らぐと“遊ぶ”と言いました。
 その日も、理沙ちゃんは、横になったまま紙粘土を握りしめ、フワッと笑いました。藤井さんが帰る時、“明日も遊んでね”と言いました。けれども、次の日、藤井さんが来る前に、理沙ちゃんは亡くなりました。藤井さんは、こう書いています。
  理沙ちゃんの人生は6年と少しでした。辛いこともたくさんありました。けれども最後まで理沙ちゃんは輝いていました。希望にあふれていました。大好きなパパとママに愛されて、いっぱい遊んで、理沙ちゃんらしく生きました。すばらしい生涯でした。(『幸福のレシピ 〜 チャイルド・ライフの世界より』藤井あけみ/『教師の友』2016年7〜9月号より)
 死ぬことによってお別れすることは、とても悲しく、つらいことです。だから私たちは、ずっと生きられるようにと、永久の命を願うのかも知れません。でも、限りのある命でも、たとえ6歳の命でも、輝く命がある。愛の中で、愛に包まれた命がある。それは、幸せな命ではないでしょうか。そう信じるのです。そして、イエス様は、そんな私たちを“もう一つの命の世界”に、天国に導き入れてくださると信じるのです。
 聖書(?コリント13章)の中に、愛は永遠、最後まで残る最も大いなるもの、と書かれています。だから、愛を知る命は「永遠の命」だと言って良いでしょう。
 私たちも「永遠の命」を信じて、求めましょう。神さまを愛し、人を愛し、自分も愛される命を祈り求めていきましょう。





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