2016年9月4日 礼拝説教
  聖 書  ヨハネの手紙(一)3章11〜18節
  説教者  山岡 創 

3:11 なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。
3:12 カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。
3:13 だから兄弟たち、世があなたがたを憎んでも、驚くことはありません。
3:14 わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。
3:15 兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。
3:16 イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。
3:17 世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。
3:18 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。


「 口先ではなく、行いによって 」
  ヨハネは、教会の信徒たちに、「だから、兄弟たち、世があなたがたを憎んでも、驚くことはありません」(13節)と告げました。なぜなら、正しいことをしていると、周りの人から煙たがられ、憎まれることがあるからです。正しい行いは、本人にそのつもりはなくても、時に“光”となって人を照らし、その人の正しくない姿を明らかにするからです。例えば、掃除をさぼっている人がいて、そのそばに、掃除を一生懸命している人がいたら、さぼっている人は、その人を煙たく感じるでしょう。反省して、“自分もあんなふうにならなければ”と思えばいいのですが、どちらかと言えば、“なんだ、真面目ぶりやがって!”と憎む場合の方が多いのではないでしょうか。

 世間では、正しい人は憎まれる。そのことから、私は、〈とと姉ちゃん〉を思い起こしました。ご覧になっている方も少なくないと思いますが、『暮らしの手帳』という雑誌を発刊し続けた大橋鎭子の生涯を描くNHKドラマです。大橋鎭子をモデルとする人物・小橋常子は、戦後、生活に苦労しながら、しかし、たくましく生きる女性たち、母親たちの暮らしを見て、女性の役に立つ雑誌を作りたいと思うようになります。そして優秀な編集者・花山伊佐治と組んで、〈あなたの暮らし出版〉を立ち上げます。それから、しばらくして生活用品を自分たちで試験し、その結果を掲載する商品試験を始めます。歯ブラシに始まり、アイロン、電気炊飯器と試験と結果の記載は続いて行きます。市民の、特に女性の暮らしの役に立ちたいと、その記事は商品の良し悪しを、試験のままに伝えます。ところが、自社の商品を悪く書かれた会社がだまっていません。その中に、アカバネ電気製造というメーカーがありました。その会社は、最初は泣きつき、次に賄賂(わいろ)を差し出し、それでもだめとなったら、常子をはじめ社員の自宅の窓に石を投げ込むという嫌がらせを始めます。もちろん、証拠はありません。(私は、赤羽根社長役の古田新太が、〈ドクターX〉に次いですっかり悪役が板について来たなあ、と感じていますが)その嫌がらせに社員の一人が、“このまま続いたら‥”と折れそうになり、弱音を吐きます。
けれども、花山編集長の“ジャーナリストとしての誇りと覚悟を持とう”との一言に、社員が皆、立ち向かおうと前向きになったところで先週の番組は終わりました。
さしずめキリスト教流に言い換えるならば、“クリスチャンとしての誇りと覚悟を持とう”といったところでしょう。私たちクリスチャンは、何に誇りと自覚を持つのでしょうか?それは“愛”についてです。隣人を愛すること、「互いに愛し合う」(11節)ことに誇りと覚悟を持つのです。「互いに愛し合う」ことこそ、イエス・キリストが私たちに教えた新しい掟であり、それがクリスチャンにとっての正しい行いだからです。

 正しい人は憎まれる。聖書の中にも、そういう例が出て来ます。今日の聖書の中で取り上げられているのは、カインという人物です。旧約聖書・創世記4章に登場します。カインは、神さまによって最初に造られたアダムとエヴァの長男でした。彼は土を耕す人になります。やがて弟のアベルが生まれ、そちらは羊を飼う者になりました。時が経って、カインは農作物を神さまへの献げ物として持って来ました。アベルもまた、肥えた羊の初子(ういご)を持って来ます。ところが、神さまは、アベルの献げ物は喜ばれましたが、カインの献げ物には目を留めなかった、と書かれています。そのためカインは激しく怒りますが、そのカインに神さまは、「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」(創世記4章6〜7節)と言われます。その理由が何なのかは書かれていないので想像するほかないのですが、カインには何か後ろめたいことがあったのでしょう。正しくない何かがあったのでしょう。それが、アベルの献げ物によって明らかにされてしまったのでしょう。それで反省し、悔い改めればよかったのですが、あろうことか、カインはアベルを憎み、妬(ねた)み、殺してしまうのです。だから、今日の聖書箇所に、こう書かれています。
「カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです」(12節)。
 アベルの正しさが何であったのか、はっきりとは書かれていません。けれども、私たちクリスチャンに求められる正しさとは、愛すること、「互いに愛し合う」ことにほかなりません。

 主イエス・キリストは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)とお教えになりました。そして、その言葉どおりに、イエス様ご自身が人を愛されました。弟子たちを愛し、病人を愛し、特に社会の中で差別され、疎外されている人々に寄り添い、その友となり、神の愛を伝えました。その行いが、ユダヤ人の指導者や主流派に煙たがられました。憎まれました。彼らは、愛さなくていい人がいる、律法を守らない人は愛さなくいいと考えていたのです。ところがイエス様は、そんな人は一人もいないと、彼らが差別し、疎外した遊女や徴税人たちを愛されました。その結果、指導者や主流派の人々の憎しみと怒りは頂点に達し、彼らはイエス様を罪人扱いし、十字架に架けて殺しました。彼らは気づいていないでしょうが、彼らもまたカインのような人殺しになってしまったのです。
 今日の15節に、「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」とありました。私たちは、人を憎んだぐらいで人殺しだなんてオーバーだよ、と思うかも知れません。けれども、果たしてオーバーでしょうか。愛のない冷たさは人の心を殺すのです。例えば、嫌いな人がいて、その人を無視したとしましょう。相手に関わらないことが、時に自分を守ることになる場もあります。けれども、悪意のある無視は相手を傷つけます。それが、クラスや会社等で集団になったら、実際に無視された人が自殺してしまうことだってあります。そうなったら、心を殺すだけではなく、本当に人殺しです。
 ユダヤ人の指導者と主流派の人々は、イエス様を殺しました。けれども、その十字架刑は、単にイエス様が殺された出来事ではなく、イエス様が「わたしたちのために、命を捨ててくださった」(16節)行為だとヨハネは言います。私たちの後ろめたい罪の責任を負ってくださり、私たちを赦(ゆる)すために犠牲になられたと言うのです。「そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」(16節)と、ヨハネは私たちに、愛することを勧(すす)めるのです。
 人を殺す者と、人のために命を捨てる者の違い。それは、本当の愛があるかないかの違いです。主イエス・キリストに愛され、その愛を知り、愛の誇りと覚悟を持っているか、いないかの違いです。

 「わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」。命を捨てるというのは、必ずしも実際に命を捨てることではありません。命の捨て方は命の使い方です。どのように使うか?愛することに使いなさい、ということです。
 『こころの友』という伝道用の雑誌があります。その中に〈山谷ホスピス旅館から〉という記事が連載されています。東京・山谷(さんや)のドヤ(ホームレスの方のための簡易旅館)に生きる人々の姿が描かれています。そこに生きる人の多くは、太平洋戦争を体験した戦災孤児たちでした。生きるために食い逃げをし、スリをし、かっぱらいをした。靴磨きや、廃材(はいざい)売りもした。やがてそういう子どもたちが、地下鉄や高速道路、ビル建設等の日雇い労働者となって、日本の復興と高度経済成長の働き手となります。けれども、機械化が進み、やがてバブルがはじけて、彼らは仕事にあぶれ、山谷のドヤで暮らすようになったといいます。そういう過去の持ち主ですから、人を愛することに不器用で、力で存在を見せつけようとします。
 そういう人たちの中にSさんという人がいました。この人は、山谷のドヤの一つ“きぼうの家”に寝泊まりしていましたが、この家のスタッフに大切にされ、献身的に面倒を見てもらうことに感動して、“どうしてそんなことができるんだ!?”と叫んだそうです。スタッフは言いました。“実は2000年前にイエス様という人がいて、「みんな神さまの子どもだから、お互い親切にしなさい」と言ったのよ”。その答えに驚き、感心し、Sさんは改心し、愛の人に変えられました。86歳で召される前に洗礼を受け、Sさんは天国へと旅立っていった、ということです。(「こころの友」9月号)
「世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」(17〜18節)。
 山谷のきぼうの家は、この聖書の言葉を実践している一つの生き方だなぁ、と思い、感動しました。

「言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」。この言葉に照らされると、恥ずかしくなります。穴があったら入りたくなります。つい、きぼうの家のスタッフと自分を引き比べて、自分はダメだと感じたりします。
でも、そう考える必要はありません。私たちにも、できることがあります。自分が置かれた場所があります。人間関係があります。その中で、人を愛することを心がけ、“小さな目標”を立てて、実践していきましょう。例えば、嫌いな人に必ず挨拶(あいさつ)する、とか、嫌なことを言われても、言い返さない、とか、毎晩皿洗いをするとか、困難を抱えている内外の人のために、毎月500円をささげるとか、日々の祈りの中で必ずだれかのために祈るとか、私たちにできる小さなことはたくさんあります。もちろん、教会の中にだってたくさんあります。「互いに愛し合うこと」、このイエス様の教えを、行いをもって誠実に実践していきましょう。





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