2016年10月2日 礼拝説教
  聖 書  ヨハネの手紙(一)4章1〜6節
  説教者  山岡 創

4:1 愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。
4:2 イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。
4:3 イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。
4:4 子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。
4:5 偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます。
4:6 わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。

「 神に属する 」
霊を確かめなさい。ヨハネは、教会の信徒たちに、そのように命じます。
「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい」(1節)
その霊が、神から出たものかどうかを確かめなさい、と言うのです。
 と言われても、現代人である私たちには、霊という存在、霊という考え方が、今一つピンッと来ないのではないでしょうか?霊とはいったい何でしょうか?
 例えば、心霊写真といったものが何かのテレビ番組で取り上げられることがあります。撮った写真に、そこにいなかった、知らない人が写っている。その写真を見て、霊の専門家の人は、“この人の霊があなたに取り付いている”と言ったり、“この霊はこの場所に住みついている”と言ったりします。ごく普通に、霊が見えると言う人がいます。そういう人は霊感が強いと言われます。
 そういう話を聞くと、幽霊とか地縛霊(じばくれい)と言われる霊が、本当に存在するのだろうか?と考えさせられてしまいます。けれども、証明することなどできませんし、確かめようもありません。霊を感じる、霊が見える、という人はごく少数でしょう。そういう意味では、現代において霊の存在というものは、当たり前ではありません。私たちは、目に見えないものが存在するということが、今一つピンッと来ないのです。
 けれども、およそ2千年前の新約聖書の時代の人々にとっては、霊という存在は当たり前のものだったようです。今日の聖書の箇所にも、当たり前のように、霊ということが書かれています。当時の人々にとっては、神の霊や悪の霊、この世の様々な霊が存在するということは、自明のことだったのでしょう。
 だからと言って、当時の人々が霊が見えたわけではなかったと思います。説明のできない色々な現象の背後に、目に見えない霊が働いていると想定したのでしょう。

 教会と信徒たちの内にも霊が働いている、神の霊が働いていることは、自明の前提でした。けれども、その霊の中にも、「神から出た霊」とそうでない霊が考えられていました。神から出ていない霊は「反キリストの霊」(3節)と言われています。キリストに逆らう霊です。この「神から出た霊」とそうでない霊、「反キリストの霊」を見分けよ、確かめよ、とヨハネは命じるのです。
 では、目に見えない霊をどのようにして見分けよ、確かめよ、と言うのでしょうか?それは、公に言い表される信仰の内容で確かめよ、と言うのです。すなわち、「イエス・キリストが肉となって来られたということ」(2節)を信じて、公に告白する人の内には、神から出た霊が働いている、と判断してよい、ということです。けれども、そのことを言い表さない人には、反キリストの霊が働いている、と見なしなさい、その言葉に聞き従ってはいけない、と注意しているのです。そのように、イエス・キリストが肉となり、人なってこの世に来られたことを言い表さない教師は「偽(にせ)預言者」(1節)と呼ばれています。
 偽預言者とは“人”です。反キリストの霊が働いている人です。その意味で、今日の聖書箇所で、繰り返し出て来る「霊」という言葉を、“人”に置き換えてみると、少し分かりやすくなります。あるいは、その人が語る“言葉”とか“信仰”に置き換えても、“あぁ、なるほど”と思うところがあるのではないでしょうか。神から出た人がおり、神から出た言葉、信仰があるのに対して、神から出ていない人がおり、神から出ていない言葉、信仰があったのです。それが、教会と教会の外とに別々にあるのなら事は簡単ですが、教会の中に共存しているから難しいのです。信徒は何を信じたら良いのか混乱したでしょう。主イエスのたとえ話にもありますが、同じ畑に良い麦と毒麦が一緒に生えているようなものです(マタイ13章24節以下)。だから、教会という畑の中で、良い麦と毒麦とを選別しなければならない。神から出た人か、そうでない人か、神から出た言葉と信仰か、そうでない言葉と信仰か、神から出た霊か、そうでない霊かを見分け、判断しなければならない。間違った信仰に陥らないためです。そして、その基準は信仰告白である。イエス・キリストは肉となり、人となってこの世に来られたと信じて公に言い表す信仰告白であるとヨハネは言うのです。

 私たちの教会には、公の信仰告白として使徒信条(しとしんじょう)があり、日本基督(キリスト)教団信仰告白があります。使徒信条において、私たちは、“主は‥‥おとめマリアから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬(ほうむ)られ‥”と信仰を告白します。今言った部分は、つまり、イエス・キリストが肉となり、人となって、この世に来られたことを言い表しているのです。また日本基督教団信仰告白においても、“御子(みこ)は我ら罪人の救いのために人となり、十字架にかかり‥”と告白します。これも同じく、キリストが肉となり、人となって来られたことを言い表しています。
 けれども、ヨハネの当時、イエス・キリストが肉となり、人となってこの世に来られたことを信じず、告白しない人々が教会の中にいました。まだ使徒信条のような信仰告白が定められていない時代でした。イエス・キリストを説き明かす預言者、イエス・キリストを信じる信徒の中にも、様々な信仰があったのです。その中の一つが、イエス・キリストが肉となり、人なってこの世に来たのではない、とする信仰でした。では、彼らはどのように信じていたのかと言えば、この世に来られたイエス・キリストは、肉体を持った人間として来たのではなく、霊的な存在として来たのだと主張しました。それがどういうことかと言えば、霊的な存在なのだから、イエス・キリストは苦しまない、と言うのです。だから、イエス・キリストが十字架に架けられた時も、苦しんではいない、というのです。苦しんで、ご自分の命をささげ、全世界の人々の罪を、私たち一人ひとりの罪を背負い、犠牲となり、赦(ゆる)しと神さまとの和解の道を切り開いたという十字架の恵みを否定するのです。十字架による救いの恵みではなく、霊であるイエス・キリストと霊的に一つになることが重要だ、と主張したのです。当時のギリシア・ローマの社会では、人間は霊と肉から成っており、肉体を軽視し、霊を重んじる傾向がありました。だから、生活の上での実践や労働は軽んじられ、物事を深く考える思索が価値あるものとされました。その傾向がキリスト教信仰と結びついて、教会の中にはびこってきたのです。

 聖書と信仰告白に基づく私たちのキリスト教信仰において、大切な教えは、人となって来られたイエス・キリストが十字架につけられた、ということです。私たちの信仰は、頭で考える思索とフィクションではなく、この事実に、歴史的な事実を土台として立っているのです。そして、この十字架刑という事実の意味は、“ひとたび己(おのれ)を全(まった)き犠牲(いけにえ)として神にささげ、我らの贖(あがな)いとなりたまえり”ということです。単なる思索ではなく、イエス・キリストが人となり、十字架に架かられた事実に、私たちを赦す神の愛が、私たちを生かす神の恵みが示されていると信じるのです。
 この十字架という事実がなかったら、私たちの信仰は、頭の中で勝手な思いをこねくり回しているだけの理屈になるでしょう。どんなに理屈を立てても、イエス・キリストとの生きた出会いは味わうことはできません。
 イエス・キリストは人としてこの世に来られたのです。肉体をもって苦しまれたのです。痛まれたのです。命をお捨てになったのです。私たち一人ひとりのために。だからこそ、私たちは、その苦しみ、痛みを想像する時、その心を思うとき、理屈を超えて、私たちを生かす神の愛を感じるのではないでしょうか。弱く、疲れ果て、罪深く、価値もないと打ち沈む私を、安心と喜びと幸せに導いてくださる神の愛を信じるのではないでしょうか。そして、この神の愛は、イエス・キリストが肉体を持った人間としておられない今日において、理屈ではなく、肉体を持った人間としての生活と実践、血の通う、愛の通う人との交わりとその体験から感じ取るものではないでしょうか。

 8月に埼玉地区の中学生・高校生(KKS)・青年のキャンプが行われました。〈イエスさまは誰のために〉というテーマのもと、イエス・キリストの十字架と復活の場面を聖書で読み、考え、劇にして発表するというワーク・ショップを行いました。そのキャンプで最後に書いた一人ひとりの感想文を、文集にするという機会が、先週25日(日)の夕方、坂戸いずみ教会で、秋のフェスタという形で持たれました。51名が集まりました。
 出来上がった文集を読んで、心から感動を覚えました。例えば、一人の中学生がこんなことを書いています。
 ‥‥キャンドル・サービスでは普段は分からない気持なども分かち合い、自分でもすごく分かる気持もあり、みんなも同じ気持を抱えているんだと思いました。
このキャンプでは、普段読んでいるところでも深く考えるところが多くあり、考え直してしまいました。僕はイエス様が何をしたか分かりませんでしたが、イエス様は僕たちのために十字架にかかってくださったので、感謝していこうと思いました。これから、もし困っている人がいたら、イエス様みたいに助けていこうと思いました。
 私は、10年キャンプを主催する立場にあった者として、本当に涙が出るほど嬉しいのです。一人の中学生が、イエス様が自分のために十字架に架かってくださったと受け止めてくれた。それは、ただ聖書を読んで考えただけの理屈ではなく、イエス・キリストを信じる仲間と交流し、そこで十字架の物語を劇にして、一緒に演じるという実践を通して、理屈抜きに感じ取った恵みだと思うのです。
 また、一人の青年はこんなことを書いてくれました。
 ‥劇にすることによって、その時のイエス様の思いや、周りの人たちの行動とそのとき思っていたことがリアルに想像できました。高校生たちの(発表で)、イエス様がゴルゴタの丘を登って十字架につけられてしまう時、こんなにイエス様の苦しみを想像できたことはありませんでした。でも、そのおかげで私たちは赦されている。赦されるってどういうことか、言葉にするのは難しいけれど、自分は生きていていいんだ、と思えてきます。
 イエス・キリストの十字架の苦しみの意味が、一人の青年の心に、リアルに浸(し)み入っているのです。
 「イエス・キリストが肉となって来られたということ」を信じて告白するということは、このように、イエス様が“わたし”のために十字架に架かり、“わたし”を愛し、生かしてくださったと信じて告白することだと言うことができます。
 この言葉に耳を傾けてください。耳を傾け、(いつの日か)自分のものとしてください。そして、イエス・キリストの十字架によって示された神の愛の下に、愛とともに歩んでいきましょう。





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