2016年10月16日 信徒証し礼拝説教
  聖 書  使徒言行録17章10〜12節
  説教者  山岡 創

17:10 兄弟たちは、直ちに夜のうちにパウロとシラスをベレアへ送り出した。二人はそこへ到着すると、ユダヤ人の会堂に入った。
17:11 ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。
17:12 そこで、そのうちの多くの人が信じ、ギリシア人の上流婦人や男たちも少なからず信仰に入った。

「 毎日、聖書を調べ 」
 坂戸いずみ教会が属する日本基督(キリスト)教団では、今日からの1週間を〈信徒伝道週間〉と定めています。その暦にちなんで、わたしたちの教会では毎年、この週間の日曜日に〈信徒証し礼拝〉を行っています。今回は、O.Hさんに証しをしていただきました。父なる神さまを信じ、主イエスに従う信仰と生活の中で、自分がいただいた神の恵み、その喜びと感謝をお話することによって、神さまを信じて生きることのすばらしさを、周りの人に証しするのです。その証しによって、信徒は伝道します。
 伝道とは、道を伝えると書きます。神を信じて生きる道(生活)のすばらしさを伝えるのです。伝道することは、神さまを信じる教会と信徒たちに、イエス・キリストから託された大切な使命です。世界に愛と平和を伝えていく。神の祝福を伝えていく。そして、神さまが「極めて良かった」(創世記1章31節)と喜ばれた世界を回復するために、私たちは、神の恵みとそれを信じて生きることのすばらしさを伝えるのです。
 皆さんの中には、伝道は牧師がするものと思っていた方もいるかも知れません。けれども、そうではありません。信徒も伝道するのです。いや、むしろ“信徒が”伝道するのです。確かに牧師は、聖書を説き明かし、教会を治めるプロフェッショナルです。その意味では、牧師は伝道のエキスパートに違いありません。けれども、伝道において、かなり重要なのは“口コミ”です。人と人とのつながりです。その点、牧師が口コミできる人間関係は限られています。けれども、信徒の皆さんが口コミできる人とのつながりは、皆さんの数だけ広がりがあり、可能性があるわけです。しかも、牧師が語るのを聞いて、“あの人は牧師だからね、特別だからね”と思われるよりも、信徒の皆さんが、同じ立場で語る方が伝わりやすい場合が少なからずあると思います。
 大宮教会の疋田國磨呂牧師がよく、“羊を生むのは、羊飼いではなく羊です”と言われます。新しい信徒を生み出すのは、牧師ではなく、信徒だということです。その意味で、伝道の中心は、牧師ではなく、信徒だと言ってもよいのです。

 けれども、私は口下手だし、信仰歴も短いし、神さまの恵みなんて上手く話せないよ、と思われる方もおられるでしょう。だいじょうぶです。証しをするとは、口で語ることだけではありません。むしろ私たち一人ひとりの、信仰を持って生きる姿が、生活そのものが“証し”になるのです。
 藤木正三という牧師が、伝道について、次のように語られました。
 伝道というのは、道を伝えて信仰に導くことではありません。道は、伝えるものではなく、生きるものだからです。煩悩(ぼんのう)にあえぐ私たちがそのままに受け入れられて生かされる、これしか生きる道はないとするのが信仰というものでしょうが、幸福を求めて生きたり、豊かさを求めて生きたり、楽しさを求めて生きたり、人生を生きる道は数多くあるわけで、その中で、この生かされて生きる道以外は選ばない、断固としてそれ以外に生きる道を選ばない、それが伝道ということなのです。伝道の生命は、この断固さにかかっています。(『灰色の断想』164頁)
 人生には、色々な生き方がある。その中で、重荷を負い、疲れてあえぐ自分がそのままに受け入れられて生かされる道、これ以外は選ばない。断固として選ばない。そのように生きる姿が“伝道”だというのです。
 そういう意味では、日曜日に、私たち一人ひとりが、こうして教会に集まり、礼拝を共にすることも、伝道だと言うことができます。日曜日の過ごし方は色々あるわけで、家で寝ていることも、自分の趣味に使うことも、家族や友だちと出かけることにも使えるわけです。けれども、そういう数ある選択肢の中で、教会を選ぶ。礼拝に出席する。それは、自分の生活によって神を証ししている、伝道している、教会の伝道の一端を担っていることになるのです。
 もちろん、断固さと言っても、“何としても‥”とか“‥せねばならない”という固さとは、ちょっと違うと思うのです。この道を生きる感謝と喜びから生まれる断固さだと思うのです。だから、この道に生きる私たち一人ひとり、口下手でもいい、うまく証しができなくてもいい、ただ一言、こう言えるようになってほしい、と思う言葉があります。それは、“教会って、いいよ”ということです。これが言える人になってほしい。何がいいかは、その時、その人の信仰の度合いによって変わりますので、皆さん一人ひとりにお任せします。何かしら喜びを見つけて、“教会って、いいよ”とニッコリ言える人になってほしい。そう言える教会を、みんなで祈りを合わせ、力を合わせて、造り上げていきたいのです。

 そのために、大切なことは何か?聖書を読んで、祈る生活です。聖書を読んで、神さまが自分に何を語りかけているか、教会に何を語りかけているかを受け止める。そして、語りかけられた神さまの御心(みこころ)が、自分の生活の中で、教会の中で実現するように祈る。それが、私たちの断固とした信仰生活の基礎になります。
 今日は、使徒言行録(しとげんころく)17章10〜12節の御(み)言葉から、神さまの語りかけを聞きました。パウロが2回目の伝道旅行をして、ギリシアにあるベレアという町に伝道するために立ち寄った時のことです。パウロは、ユダヤ人の会堂に入って、聖書を引用し、神が私たちのために遣わしてくださる救い主は、必ず苦しみを受け、死者の中から復活されると語り、その方こそイエスであると証ししました。その言葉を、ベレアのユダヤ人たちは受け入れて、果たして神がそのように語っているかどうか、「毎日、聖書を調べていた」(11節)というのです。毎日、聖書を読んで、神さまが自分(たち)に、何を語りかけているかを聞こうとした、受け取ろうとしていた、ということです。その結果、「そのうちの多くの人が信じ、ギリシア人の上流婦人や男たちも少なからず信仰に入った」(12節)と書かれています。
 聖書を読む。そこに何が書かれているか、ただ、その内容を読むのではありません。もちろん、それでもいいのですが、自分と関係づけて聖書を読む。重荷を負っている自分、疲れている自分、苦しみ悩みを抱えている自分、病を負っている自分、孤独に打ち沈む自分、失敗に打ちのめされている自分‥‥‥そういう自分の立場から、聖書の言葉を読んでみる。神が聖書を通して、自分に何を語りかけておられるのか、聞いてみる。そのように自分の生活と思いに照らし合わせながら読むとき、毎回ではないかも知れませんが、何か大切なことに気づかされて、ハッとしたり、ホッとさせられたりすることがきっと出て来ます。心に染み入る言葉をきっと見つけることができます。そして、その語りかけに気づかせていただいたら、今度は、私たちの側から神さまに語りかける祈りが生まれて来るでしょう。
 短い時間でいい。一日5分でいい、といった人がいます。“1日5分、1日の288分の1の時間を神さまに献げなさい。3分聖書を読んで、2分祈りなさい。そうすれば、あなたの生活は必ず変わります”。私は、20歳になるかならないかぐらいの時に、その話を聞いて、やってみました。本当に変わりました。自分の姿勢が内側から変えられました。それはきっと、仕事や生活や人間関係に現れてきます。
聖書を読んで、祈る時間を設けてください。日曜日の礼拝と共に、毎日の生活の中で神さまと向かい合い、自分を見つめ直す時間を確立してください。それが、私たちの信仰生活の基礎になります。断固とした伝道の基礎になります。喜びの源泉になります。





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