2016年10月23日 礼拝説教
  聖 書  ヨハネの手紙(一)4章13〜21節
  説教者  山岡 創

4:13 神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。
4:14 わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。
4:15 イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。
4:16 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。
4:17 こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。
4:18 愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。
4:19 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。
4:20 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。
4:21 神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。


「 神を愛する者は兄弟をも 」
今日の聖書の御(み)言葉を私たちが受け止めるために、キーワードとなる言葉が二つあります。その一つは“とどまる”という言葉であり、もう一つは“愛が全(まっと)うされる”という言葉です。「わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださる」(13節)という言葉が、13節、15節、16節と3回出て来ました。また、「愛が全うされている」(17節)は、17節と18節に2回出て来ます。

 わたしたちが神の内にとどまり、神がわたしたちの内にとどまる。これは、ヨハネの手紙の重要な信仰理解です。けれども、考えてみると、不思議な表現です。分かるようで分からない、分らないようで、でも分かる。そんな表現です。
 私は今まで、わたしたちが神の内にとどまり、神がわたしたちの内にとどまるということを、あまり突っ込んで考えませんでした。何となく分かる気がしていたからです。けれども、今回、この御言葉を黙想していて、気づいたこと、見えたことがあります。それは、4章11節に書かれている「神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」という言葉と関係づけて考えると見えて来ます。ちなみに、この言葉は、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ福音書13章34節、15章12節)という、イエス・キリストの教えを受け継いでいると言うことができます。
 私たちが神の内にとどまる、とは、私たちが“神の愛”にとどまることです。私たちを愛してくださる神の愛を信じて受け入れることです。とどまるということは、ある意味で場所の問題ですから、それは神の愛という名の“エリア”“場所”にとどまることだと言ってもよいでしょう。
 それで思い出したのが、ルカによる福音書15章にある主イエスのたとえ話です。15章のはじめに〈見失った羊〉のたとえがあります。百匹の羊を持っている人が、1匹の羊がいなくなった時、99匹を野原に残して、見失った1匹の羊を捜すというたとえ話です。どうして捜すのでしょうか?神の愛という名の“野原”に連れ戻すためです。野原から迷い出た1匹の羊を、神の愛を見失ってしまった一人の人間を、神の愛という“野原”の中に連れ戻し、そこにとどまらせ、安心させるためです。
 また、15章11節以下には〈放蕩(ほうとう)息子〉のたとえがあります。特にこのたとえ話の前半では、父親に財産を生前贈与させ、やりたい放題、放蕩の限りをつくした弟息子が、すべてを失い、我に返って、父の家に帰って来る姿が描かれています。父親は、自分を悔いて帰って来た弟息子を咎(とが)めず、そのまま受け入れて、今まで通り息子として遇(ぐう)します。そこには、信じられないほどの父(神)の愛があふれています。弟息子は、神の愛という名の“父の家”にとどまるために、帰って来たのです。
 このように、神の愛は、愛があふれる“場所”として語られています。だから、“とどまる”という表現になるのでしょう。そう考えると、私たちが、神の愛にとどまることができる場所はどこか?それは、教会ではないか、と思いました。教会において、私たちは神の愛を示されます。「神がまずわたしたちを愛してくださった」(19節)ことを示されます。見えない神が、ご自分の独り子キリストを、見える人間イエスとしてこの世に遣(つか)わしてくださった。イエス・キリストの命を十字架の上で「いけにえ」として、私たちの罪を償い、赦(ゆる)してくださった。そこに神の愛がある(4章10節)ことを示されます。私たちが自ら償い、良い行いをして、立派な人間になったから、神に愛され、認められるのではなく、罪と傷を抱えた一人の人間のままで受け入れられ、愛される愛が示されるのです。その神の愛が示される場所が教会です。聖書を通し、礼拝により、また互いの交わりによって、神の愛が感じられる場所が教会です。そして、神の愛を信じて、受け入れる時、私たちは神の内にとどまっている、と言うことができるのです。

 そして、神さまに愛されていることを信じて受け入れると、私たちの心には神の愛がとどまります。宿ります。これが、神が私たちの内にとどまる、ということです。
そして、神の愛は私たちの内にとどまるだけではなく、“愛の泉”となって私たちの心からあふれ出ます。私たちが、神さまの愛の広さ、深さ、すばらしさを知れば知るほど、私たちの内に感動と感謝が湧(わ)き上がり、神の愛に応えようとする私たちの愛があふれて来ます。私たちは、自分が本当にお世話になったと感じている人には、何かお返しをしたい、感謝を表したいと心から思うのではないでしょうか。神さまに対しても同じことです。私たちは、神にさまに本当にお世話になっている、こんなにも愛されていると感じたら、その感謝を何らかの形でお返ししたいと思うのではないでしょうか。その思いが、神さまへの愛の泉となって、心からあふれ出ます。そしてそれが、人を愛する原動力、互いに愛し合うための原動力となるのです。
このように、神が私たちの内にとどまるということは、神の愛が私たちの心にとどまることであり、それによって私たちが互いに愛し合うようになる、ということなのです。
そして、もう一つのキーワードである“愛が全うされている”ということは、このことにほかなりません。つまり、私たちが神の内にとどまり、神も私たちの内にとどまってくださるということ、私たちが神の愛を信じて受け入れ、神の愛が私たちの心に宿り、私たちが互いに愛し合えるようになること。これが、私たちの内に「愛が全うされている」ということです。愛が完全なものになっている、ということなのです。

 このように、私たちの内に愛が全うされているならば、「裁きの日に確信を持つことができます」(17節)とヨハネは語ります。「裁き」とは、この世の終わりに実現すると聖書の中で預言されている神の裁きです。私たちが、使徒信条(しとしんじょう)において“そこから来られて、生きている者と死んでいる者を裁かれます”と信仰告白している、主イエス・キリストによる裁きです。
 裁きと言うと、私たちは、有罪とされ、罰を受けるというイメージを抱きがちになるのではないでしょうか。だから、神の裁きを恐れます。自分は罪人だ。立派な人間ではない。良い行いをほとんどしていない。だから、有罪とされ、罰を受ける‥‥そんな恐れを感じてしまうのです。
 そのような恐れを表わしているたとえ話があります。それが、マタイによる福音書25章にある〈タラントン〉のたとえです。主人が旅行に出かけるにあたり、僕たちに自分の財産を預けていく話です。一人には5タラントン、一人には2タラントン、もう一人には1タラントン預けていくのです。最初の二人は、その財産で商売をしてもうけを作ります。けれども、1タラントン預けられた人は、土の中に隠しておきました。やがて主人が帰って来ます。これは、キリストが天から地上に再び帰って来る「裁きの日」を表わしているのですが、最初の二人は、もうけたことを報告して主人から喜ばれます。ところが、1タラントンを土の中に隠しておいた人は、主人の前でこう言います。「あなたは蒔(ま)かないところから刈り取り、散らさないところからかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました」(25章24節)。彼は罰を恐れました。それは、主人の愛を、神の愛を信じられなかったからです。最初の二人は、主人を信頼し、その愛を信じていたので、失敗を恐れず商売することが、生き生きと、自分らしく生きることができたのです。
 誤解してはならないのは、この主人は、最初の二人がもうけたから喜んでおられるのではない、ということです。1タラントンを預けられた人も、主人を信じて商売をしていたら、たとえ1タラントンを失うことになったとしても、主人は、「忠実な良い僕だ。よくやった」と喜んでくださったに違いありません。彼を愛しているからです。
 神の裁きとは、愛によって行われる裁きです。有罪とするのではなく、無罪とし、神の国に入れるための裁きです。既に罪は償われています。イエス・キリストの命によって、十字架の死によって償われています。ここに神の愛があります。この愛を信じるだけで、私たちは罪人のままで赦され、愛されます。神の愛を信じたら、恐れは取り除かれるのです。恐れずに応えることができる。恐れずに人を愛することができるのです。

 神の愛を信じ、愛が全うされている人は、兄弟を愛します。人を愛します。ヨハネは最後に、私たちがドキッとする言葉を語りかけます。
「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです」(20〜21節)。
 話は変わりますが、昨日のNHK〈ニュース・週刊深読み〉で、コロンビアの政府と反政府ゲリラとの間で和平合意が結ばれたことに、ノーベル平和賞が贈られたことが取り上げられていました。50年続いた政府とゲリラとの内戦に、もう戦争はいやだ、国がダメになってしまうと、サントス大統領が和平を提案しました。けれども、そう簡単にはゲリラ側も武装を捨てることはできません。そこで大統領は、ゲリラ側の罪を処罰せず、家を建てる等の8年間のボランティア活動をすれば罪を償ったことにすること、職業訓練と仕事を提供すること、ゲリラの幹部が政治家として政治に参加できるようにすることを提案しました。普通では考えられないような条件です。ゲリラ側も、その意気に感じ、そこまでしてくれるならと武装を解除し、両者の間に和平合意が結ばれました。私は、これは「互いに愛し合う」という勇気ある一つの結晶だなぁ、と感動しました。
 このような話題の中で、かつてのノーベル平和賞が取り上げられ、マザーテレサのことが話題に上りました。マザーテレサは、カトリックのシスターとしてインドに遣わされ、そこで神の啓示を感じて、カルカッタのスラム街に行き、孤児やハンセン病患者といった人々のために尽くした人です。彼女は1979年にノーベル平和賞を受賞しました。その授賞式でのスピーチの中で、マザーテレサは、今日の聖書の御言葉を語っています。
  私たちが互いを愛すれば愛するほど、傷つくまで互いに対して自分自身を与えなければなりません。「私は神を愛するが隣人を愛さない」と言うことはできないのです。使徒ヨハネは、神を愛するが隣人を愛さないという人は嘘つきであると言います。もし目に見える隣人、あなたが知っている、毎日いっしょに暮らしている隣人を愛さないのであれば目に見えない神をどうやって愛することができるでしょうか。
 ところで、このスピーチの中で、マザーテレサが“もし、あなたがたが世界平和の燃える光となったなら、そのときノーベル平和賞は初めて、本当の意味でノルウェーの人々からの贈り物になるでしょう”と語ったということを、番組の解説者が取り上げました。マザーテレサからその言葉を聞いた新聞記者たちが、具体的にはどうすればいいのですか?と質問した時、彼女は、こう答えたそうです。
世界平和に貢献するためには、どうぞ今日は、うちに帰って、家族を大事にしてあげてください。
 世界平和に貢献するとは、何か大きなことをすることだけではないのです。家に帰って家族を愛することなのです。身近なところで、家族や友人、職場の同僚といった人を愛することだと思うのです。相手を思い、自分の主張を捨て、得になるものを捨て、有利を捨て、時間を捨て、忍耐を持って、相手を愛することだと思うのです。それが、兄弟を愛するということです。互いに愛し合うということです。
 簡単なことではありません。険しい道です。けれども、私たちの内にとどまってくださる神の霊を、私たちの内に宿る神の愛を信じて、愛を全うする道を進みましょう。





   ウィンドウを閉じる