2016年10月30日 大人と子供の礼拝説教
  聖 書  出エジプト記20章15節
  説教者  山岡 創

20:15  盗んではならない


「 盗んではならない 」
 「盗んではならない」(出エジプト記20章15節)。
 今、子どもチャペルの礼拝では、モーセの十戒からお話を聞いています。エジプトで奴隷だった人々が、モーセさんに導かれて、エジプトを脱出しました。脱出した人々の中には色々な人がいたようです。色々な人が、これから一緒に生活をしていくためには、みんなで守れるルールが必要でした。そこで神さまは、モーセさんに10個のルールを授けてくださいました。それが十戒です。その中で、今日は「盗んではならない」という神さまのルールを考えてみましょう。

 「盗んではならない」。当たり前のことです。けれども、盗みは起こります。
 傘立てに置いておいた傘(かさ)を盗まれた。駐輪場に止めておいた自転車を盗まれた。そんな経験を、皆さんもしたことがあるかも知れません。私も一度、自転車を盗まれたことがあります。電車に乗って出かけて、戻って来たら、北坂戸の陸橋の下にある駐輪場に止めておいた自転車がない。すぐに北坂戸駅の交番に行って、盗難の届けを出しました。その後、数日して、その自転車は見つかりました。警察から電話があって、日高市だったか毛呂山町だったか隣りの町で見つかって、預かっているので取りに来てください、という連絡でした。何でそんなところに私の自転車があったのだろう?びっくりしながら受け取りに行って、でも、良かったと思いました。
 私たちの周りでも盗みが起こります。それでも、日本は比較的、失くしたものが盗まれずに戻って来る良い国だと聞いたことがあります。そういう経験を私もしたことがあります。高麗川(こまがわ)の橋を渡って、入西(にっさい)ニュータウンのマミーマートに買い物に行った時のことです。貴重品を入れたバッグがないことに気づきました。車の中を捜してもどこにもない。私は真っ青になりました。財布だけでなく、銀行のキャッシュカード、通帳、免許証、また教会から預かっているお金など、ありとあらゆる貴重品がバッグに入っていたからです。すぐに銀行と交番に連絡しました。その日の夕方、交番から電話がありました。バッグが届いている、と言うのです。受け取りに行くと、無くなっているものは一つもありませんでした。警官の方に聞いたら、届けてくれた人は高麗川の橋の上で拾ったという話でした。どうやら私は、車の屋根の上にヒョイっとバッグを置いて、そのまま走り出してしまい、走っている途中、橋の上で、バッグが落っこちたようです。でも、見つかってホッとしました。

 ちゃんと管理していても盗まれることがある。失くしたものが盗まれずに戻って来ることもある。盗む人と盗まない人がいる。この違いはいったい何でしょうか?それは、その人の心の中に、「盗んではならない」というルールが、しっかり入っているかどうかの違いだと思います。
 私たちの心の中には、価値観と呼ばれる考えがあります。どんなことを大切にして生きているか、ということです。例えば、私たちの中には、損得の価値観があります。自分にとってそうすることが損か得かで判断するのです。人のものを“いいなぁ、欲しいなぁ”という気持が湧いて来て、それを自分のものにすれば、気持が良い、楽しい、得だという考えが強ければ、人のものを盗んでしまいます。自分のことばかりを考えているのです。雨が降っている。濡れるのは嫌だ。人の傘を取って使ってしまえ。ばれなければいい‥‥という考えになるのです。
 けれども、そういうことをしない人がいます。それは、善悪の価値観を持っている人です。何が善いことか、何が悪いことか、それを考えて生きているのです。人の傘を盗んで差す。自転車を盗んで乗る。人のものを盗んだ方が得だとしても、決してそれをしない。盗むことは悪いことだ、盗んではならないという考えがしっかりと心の中にあるからです。そしてそういう人は、自分が損をしても善いことならばしようと考えられる人です。自分のことばかりでなく、人のために、だれかのために、と考えられる人です。人を愛せる人です。

 自分のものを何か盗まれたことのある人は、腹が立ったでしょう。悲しい気持になったでしょう。困ったでしょう。暗い気持になったでしょう。もしも自分が人のものを盗んだら、相手がそういう気持になることを想像することができる人は、愛のある人です。相手をそういう思いにさせまい、傷つけまい、と考えられる人は、愛のある人です。「盗んではならない」というルールを心の中で成り立たせているものは“愛”です。
 モーセの十戒をもう一度、思い出してみてください。10個の戒め、ルールの前に、神さまが大切なことを言われています。私は、あなたがたをエジプトから導き出した神だ。あなたがたを奴隷の苦しみから助けた神だ、と言われています。つまり、私はあなたがたを愛した神だ、愛する神だ、と神さまは言っているのです。だから、あなたがたは私を信じなさい。礼拝しなさい。また、親を、家族を大切にしなさい。人を殺してはならない。盗んではならない、と命じるのです。つまり、わたしに愛されたのだから、わたし(神)を愛しなさい、人を愛しなさい、と命じているのです。
 そう考えると、モーセの十戒は何かに似ていると思いませんか?‥‥そうです、イエス様が弟子たちに語った「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)という教えに似ているのです。
 ですから、盗まないということは、人を愛することです。愛されている喜びを知っている人が、自分も人を愛する行為です。

 自分が神さまに愛されている喜びを知って、盗みから立ち直った人が、聖書の中に出て来ます。それは、徴税人(ちょうぜいにん)ザアカイです(ルカ福音書19章)。ザアカイは税金を集める仕事をしていました。当時の税金集めは、集めれば集めるほど、自分ももうかる仕事でした。だから、ザアカイは相当悪いことをして、たくさんの税金を集めたようです。人からだまし取ったことも、随分とあったようです。
今、日本では“俺おれ詐欺”が色々な形で、手を替え、品を変えて行われています。そういう電話が自分にかかって来たことがある人もいるでしょう。お金をだまし取るのです。それは詐欺(さぎ)という名の“盗み”です。ザアカイもどうも、税金と言って手を替え、品を変えて、人からだまし取っていたようです。
 どうしてザアカイは、だまし取ってまで税金を集め、金持ちになろうとしたのでしょうか?心が満たされていなかったからです。“あいつは徴税人だ。罪人だ。人から金をだまし取って盗む悪い奴だ。あんな奴は神さまから見捨てられている”と、みんなから白い目で見られていました。嫌われていました。だれも自分を認めてはくれませんでした。愛してくれませんでした。だから、お金で心を満たそうとしたのでしょう。でも、どんなに税金を集めても、やっぱり心は満たされず、空っぽでした。
 そんなザアカイのことをイエス様が認めてくださいました。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(19章5節)と、だれからも言われたことがないことを言ってくれました。家に来て、食事を一緒にしてくれました。ザアカイは嬉しくて嬉しくて、たまりませんでした。その喜びから、ザアカイは、「主(イエス様)よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施(ほどこ)します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(19章8節)とイエス様と約束します。だれかから愛されるって、こんなにも嬉しい。だから、自分も人を愛して、人を喜ばせよう。もうだまし取るようなことはやめよう、と決心したのです。愛には人を大きく変える力があります。

 「盗んではならない」。当たり前のことです。でも、心に“愛”がなくなったら、それが守れなくなります。自分のことばかり考えるようになります。神さまとイエス様に愛されていることを信じて、お互いに愛し合って、心にたくさん愛を蓄(たくわ)えましょう。それが、人と一緒に、幸せに、平和に生きていくための秘訣です。





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