2016年11月13日 礼拝説教
  聖 書  ヨハネの手紙(一)5章1〜5節
  説教者  山岡 創

5:1 イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。
5:2 このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。
5:3 神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。
5:4 神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。
5:5 だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。

「神は愛だからです」
 私たちは、この世に生れ、生きています。なぜ生まれたのか?だれに命を与えられたのか?それは決して偶然ではない、偶発的なものではないと、キリスト教信仰では考えます。人は、神の御(み)心によって、神の愛を受けて、この世に生まれる。神が命を造り、命を与えられて、人は生まれる。私たちは、そのように信じます。
 そして、キリスト教信仰のもう一つの特徴は、人は2度生まれると考えていることです。1度目は、今お話したように、この世に、命を与えられて生まれるということです。そして、2度目は、信仰によって生まれる、ということです。

 今日読んだ聖書箇所の最初に、こう記されていました。
「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です」(1節)。
これが、人の2度目の誕生です。
 イエスがメシアであると信じるとは、どのように信じることでしょうか?メシアとは、旧約聖書の原語・ヘブライ語で、神から遣わされた“救い主”という意味です。新約聖書の原語・ギリシア語では“キリスト”と言います。だから、私たちは何気なく“イエス・キリスト”と口にしますが、それは、苗字と名前の関係ではなく、「イエスはメシア(救い主)である」であると信じますと言い表していることになるのです。イエスは、私の救い主である。そう信じるとは、私たちをどのように救ってくださると信じることでしょうか?
イエスはこの世に人としてお生まれになりました。そして、神を父と呼び、神の御心を悟り、その御心を、この世に生きる私たちに伝えてくださいました。神は愛だ、ということ。私たちは神に愛されているということ。そして、神に愛されている者同士、互いに愛し合うべきことを伝えてくださいました。特に、私たちが神さまに愛されていることを、身をもって示してくださったのです。まるで神さまのように、分け隔てなく、人の悩み悲しみに寄り添い、命を懸けて、イエス様は人を愛されました。愛に命を燃やし尽くし、人を愛し抜き、最後には十字架の上でお果てになりました。
 このようにイエス様が十字架で死なれたことを、ヨハネの手紙(一)は、私たちに次のように伝えます。
「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりではなく、全世界の罪を償ういけにえです」(2章2節)。
更に3章16節で、このように伝えます。
「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました」(3章16節)
そして、4章10節では、
「神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償(つぐな)ういけにえとして、御子(みこ)をお遣わしになりました。ここに愛があります」(4章10節)
と語りかけます。
 イエスが十字架で死なれたのは、神さまに対して、私たちの罪を償うためだった。神さまからそっぽを向いて、自分中心に生き、その罪で自分を傷つけていた私たちに、イエスは命を捨てて神の愛を届けてくださった。罪と傷を持ったままで神さまに愛されていることを示してくださったのです。
 イエスをこのように信じることが、すなわち「イエスはメシア(救い主)であると信じる」ということです。
 そして、「イエスはメシアである」、救い主キリストであると信じる人は、「神から生まれた者」です。それは、信仰によって神の愛を信じる者に生まれ変わり、新しい人生(生き方)を始めたということです。
 今、私たちの教会では、二人の方が洗礼を受けることを志しています。OさんとSさんです。大変うれしく、神さまに感謝です。洗礼を受けるということは、神から生まれるということです。信仰によって新しく生まれる、新しい人生を始めるということのしるしです。今度のクリスマスは言わば、お二人にとって、“2度目の誕生日”ということになります。

 このように、私たちは、信仰によって神さまから生まれます。神さまによってもう一度、生んでいただきます。そして、ヨハネは、神から生まれた者の変化を次のように語ります。
「生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します」(1節)。
 この御言葉から私は、同じ親から生まれた兄弟を想像しました。同じ親から生まれ、同じ家庭の中で育っている兄弟や姉妹は、仲が良いものです。愛するということを特に意識しなくても、兄弟を気遣い、思いやりを持ちます。「生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します」ということは、そういうことかなと最初は思い浮かべました。
 けれども、もう一歩踏み込んで考えてみると、兄弟関係というものは決して、思っているほど仲睦(なかむつ)まじいものではない、ということに気づかされます。兄弟とは、人生最初の“競争相手”と言われることがあります。比べます。嫉妬(しっと)をします。憎み合い、争い合うこともあります。ともすれば、その争いは、兄弟を殺すという最悪の事態を迎えることさえあるのです。私たちが孕(はら)み得る、一つの罪の現実です。
 10月からフジテレビで、〈カインとアベル〉というドラマが始まりました。高田隆一と高田優という兄弟が主人公です。二人は、父親が社長を務める高田綜合地所株式会社という不動産業と土地開発業を営む会社の社員でした。兄・隆一は、父親に認められて副社長という立場にありますが、他方、一社員として働く優は、何かと兄と比較され、周りからも白い目で見られるような存在でした。そんな中で、兄は弟を気遣っていましたが、自分が仕事に失敗する一方で、弟は段々と頭角を現し始めて、兄弟関係が微妙なものに変わっていきます。この二人の兄弟が、父親に認められたいという願望で争い、また一人の女性をめぐって争い合う中で、ドラマは進んでいきます。さて、今後の展開はどうなるのやら‥‥。
 ところで、〈カインとアベル〉というタイトルは、聖書からとられたものです。旧約聖書・創世記4章に、この二人の物語が出て来ます。ヨハネの手紙(一)3章11節でも、「カインのようになってはなりません」と取り上げられています。どうしてそう言われるのでしょうか?カインが、弟アベルを殺したからです。
 カインとアベルは、天地創造において神さまに最初に造られた人・アダムとエヴァから生まれた兄弟でした。カインは土を耕す人となり、アベルは、羊を飼う人になります。ある時、カインは神さまを礼拝するために、畑の産物を持って来ます。アベルも肥えた小羊を持って来て、神さまに献げました。けれども、神さまは、アベルの献げ物を喜んでお受け取りになりましたが、カインの献げ物は喜ばれませんでした。その理由は、カインの礼拝の態度、献げる心が正しくないということでした。どういったところが正しくないのか、具体的なことは定かには書かれていませんが、献げ物を受け取ってもらえなかったカインは怒ります。その怒りを神さまに見抜かれ、コントロールしなさいと注意されますが、怒りに自分を省みることができないカインは、その怒りを弟アベルに向けます。彼は、野原に弟を呼び出し、そして殺してしまうのです。
 同じ親から生まれた兄弟、姉妹が、素のままで、必ずしも仲が良いわけではありません。必ずしも愛し合えるわけではありません。愛するためには、「生んでくださった方を愛する」という思いが、そして、「その方から生まれたものを(も)愛する」という意識が必要なのです。生んでくださった方を愛するということは、3節にあるように、「神の掟を守る」ことです。
神の掟とは何でしょうか?3章11節にあるように、「互いに愛し合うこと」です。4章7節では、「神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」と語られています。神が私たちを愛されたのです。イエス・キリストを通して、愛を示されたのです。だから、自分(私)は神に愛されている。しかし、同時に、自分以外の人も神さまに愛されている。私が苦手な、嫌いな、ぶつかってしまう“あの人”も神さまに愛されている。ならば、神さまに愛されている“その人”を、私も愛していこう‥‥。そういう意識が、愛するためには必要なのです。そういう意味では、愛するとは、私たちの素(す)のもの、感情的なものではなく、極めて理性的な、自分を抑制した一面を持っているのです。

 そう考えると、愛するということは、かなり難しいと思われます。ところが、ヨハネは、愛することは難しくない、と言うのです。「神の掟は難しいものではありません」(3節)と言うのです。ヨハネだけではありません。主イエスも同じように言われている箇所があります。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11章28〜30節)。
 「軛」とは、牛が2頭並んで犂(すき)を引き、畑を耕すときに、2頭の首に渡してつなぐ道具です。その軛は、「神の掟」を指しています。互いに愛し合うという神の掟、言わば“愛の軛”を負うということです。
愛するという軛が、どうして負いやすく、軽いと言えるのでしょうか?それは、牛が2頭並んで歩くように、イエス・キリストが、私たち一人ひとりと並んで歩き、愛の軛の片側を、共に負ってくださるからです。たとえ私たちがだれかを愛せない時でも、愛に疲れ、重荷を感じている“私”を、主イエスが赦し、休ませてくださるからです。そして、私が愛せない時でも、私に代わって、その人を愛してくださっているからです。そのように主イエスを信じる時、私たちは、“自分は愛することができないダメ人間だ”という気持から解放され、ホッと安心して生きることができます。
 確かに、愛するという行いをストレートに実践することは、難しい場合があります。けれども、今すぐに、愛するという行いができなかったからと言って、愛の失格者ではないと思うのです。
 私たちは、いつも、今すぐに愛せない時があります。人の話を聞けない時があります。認められない時があります。赦(ゆる)せない時があります。忍耐できない時があります。黙っていられない時があります。やさしくできない時があります。助けられない時があります。けれども、だからと言って、愛がないわけではありません。大切なことは、愛せない自分を正当化しないこと、愛せないのが当然、相手が悪いと一方的に思い込まないことです。それが、「世に打ち勝つ」(4節)ということです。愛さない自分を正当化するなら、私たちは世に負けています。この世の、人間的な、自分の感情に負けています。
 いつも、今すぐに、愛することができない私たちを、イエス・キリストは変わらずに愛してくださいます。その愛の下で、私たちは、疲れと重荷をおろしてホッとし、思い直して、また愛の道を歩みます。自分は神さまに愛されている。だから、自分と同じように神さまに愛されている隣人を愛していこう、という志を与えられます。その志こそ、「この世に打ち勝つ勝利」(4節)の信仰にほかなりません。愛の勝利を、自分の力(愛)ではなく、神の愛の力を信じて進みましょう。




   ウィンドウを閉じる