2016年11月20日 礼拝説教
  聖 書  ルカによる福音書10章38〜42節
  説教者  野澤幸宏神学生

10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
10:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

「 良い方を選ぶために 」
 わたしたちの坂戸いずみ教会では催(もよお)していませんが、米国などの教会では、11月の第四週目の木曜日をサンクスギビングデイ=収穫感謝祭としてお祝いします。その直前の今日の日曜日を、収穫感謝主日として礼拝を守る教会もあるようです。日本でも、そのようなお祝いの会を持ったり、礼拝を捧げている教会もあります。今日の子どもチャペルの礼拝では、山岡理恵さんが、収穫感謝についてのメッセージを語ってくださいました。また、国民の祝日としてほぼ同じ時期に勤労感謝の日がありますが、これも元々は秋の農作物(日本の場合は主に新米)の収穫に感謝するお祭りでした。国や風土、信じている宗教が違っても、秋の実り、大地の恵みに感謝する思いは同じなのだと思わされます。
 本日は、山岡創牧師が加須教会での礼拝説教と午後の講演会のご用のためにお留守です。代わりに本日の説教者として、現在日本聖書神学校で牧師になるための学びの途上にある私が立てられました。そこで、この収穫感謝の主日に、日本聖書神学校で7ヶ月半学んでの、現時点での恵みの実りについて、皆さまと分かち合いたいと思っています。

 ただいま読んで頂いた本日の聖書の箇所には、マルタとマリアという姉妹が登場します。ルカによる福音書には「ある村」としか記されていませんが、聖書の別の箇所によれば、彼女たちはエルサレムにほど近い、べタニアという村で暮らしていました。主イエスは、その福音伝道の旅において、この姉妹の家をべタニアでの常宿(じょうやど)としていたようです。当時のユダヤ人の社会においては、主イエスのような人々を教える指導的立場にある人物が、女性だけの世帯に入って教えを語り、もてなしを受けるという事は、極めて珍しい事でした。その異例の出来事に対する喜びのあまり、主イエスを家にお招きした当の本人である姉のマルタは、舞い上がってしまったのかも知れません。イエスさまに対し失礼のないように、間違えのないようにと、こころせわしくもてなしのために立ち働きます。マルタは、おそらく、真面目で、いろいろな事によく気がつく人物だったのでしょう。それ故に、なにか一つの事柄に囚われると、そのことだけにこだわってしまうところのある人だったのかもしれません。イエスさまのためにあれもしなきゃこれもしなきゃと、気を使っていっぱいいっぱいになっていたその時、見れば、妹のマリアは、もてなしの仕事をなーんにもやらずに、ただイエスさまの足もとに座り、そのお話を聴いてるのです。真面目なマルタはきっと頭にカチン、ときたでしょう。わたしだってイエスさまのお話をゆっくり聴かせてもらいたい、でもおもてなしの仕事を誰かがしなければならない、我慢してわたしは一生懸命頑張っているのに、マリアはなんでサボっているんだろう、ゆるせない!マリアだって、わたしと同じようにもてなしの仕事をやるべきだ!マルタは、主イエスに直接その想いをぶつけます。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」主イエスはお答えになります。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」主イエスは、決してマルタの行いをとがめている訳ではありません。彼女の行ったもてなしも尊いことです。しかし、マリアはより尊い方を選んでいたのです。
真面目に頑(かたく)なに物事に取り組んでいる時、私たちもマルタのようになりがちです。頑張っている自分の価値観を、他の人にも押し付けがちになります。マルタにはマルタの、マリアにはマリアの、それぞれの主イエスに対するもてなし方があるのです。主イエスがマルタに気付いて欲しかったのは、この点ではないかと思います。マリアなりのもてなし方を認めず、自分と同じようにもてなす事を強制しようとしたところに、マルタの問題があります。これが行き過ぎると、自分と同じ考えのものしか認めなくなったり、管理的な教育で人を統制したりする、人間を非人間化する関わりになっていきます。気の利くマルタのことですから主イエスのひと言で自分の過ちに気付き、そのようにならずに済んだのではないかと私は想像します。
他方、妹のマリアの方はどうでしょうか。この箇所の中で、マリアは一言も言葉を発しません。ただ、主イエスのみ言葉に耳を傾けているのみです。それが「ただ一つ」の「必要なこと」であると主イエスはおっしゃいます。マリアは、一見すると空気を読まず突拍子(とっぴょうし)もない行動をとる一方、勘の良い人物だったのではないかと想像します。主イエスがこれから十字架への道を歩まれる事を、彼女は知っていたのかもしれません。ヨハネによる福音書12章に、このマリアが主イエスにナルドの香油を注いだという話が出てきます。その箇所では、香油は主イエスの葬(ほおむ)りのために注がれたと、主イエスご自身が語っておられます。大好きなイエスさまに、もう会えなくなるかもしれない!その切迫感が、マリアに、もてなしの給仕をするより、主イエスのみ言葉を聴くことを選ばせたのでしょう。私たちに求められているのは、このマリアの姿です。主の言葉に聞き入る、という事です。
現代の私たちにとって、主の言葉に聴くという事はどういう事でしょうか。それは、聖書を読む事ではないかと思います。私は今、日本聖書神学校で学び、その寮で生活しています。その寮では毎朝、有志による朝の祈り会が持たれています。一日の働きを終え、講義を終えた後、疲れた身体で寮の食堂へ帰ると、そこでもまた、数人の有志が集まり、聖書の輪読会(りんどくかい)が行われます。私の場合は、職場においても、デイサービスの働きを始める前に、短く聖書を読み祈るひと時が持たれています。今、私は、実感を持って、聖書に聴くそれらの時間によって支えられていると感じています。ともすればマルタのように、忙しさの中で苛立ちと他者への押しつけがましさの罪に陥りそうになります。いや、なってしまっている時もあるでしょう。しかし、そこから立ち直らせられるのは、み言葉に聴き、祈る時間によってである事に他なりません。

話は変わりますが、私は実はテレビ番組を観るよりも、ラジオを聴く方が好きです。テレビは観始めるとその番組が終わるまで他の行動がとれませんが、ラジオならば、車の運転をしながら、掃除をしながら、洗濯物を干しながら、など“ながら”で聴くことが出来るからです。ひと昔前のラジオは、聴きたい放送局を選ぶには選局つまみを回して周波数を調整し、ちょうどよいところで合わせないと聴くことが出来ませんでした。ザーザーガーガーと雑音だらけになってしまいます。余談ですが、今どきのラジオはテレビと同じくそのあたりもデジタルで、選局ボタンを押せば聴きたい局が選べるようになっています。便利だと思う反面、選局つまみを微調整して聴きたい局にぴったり合った時の「よし、うまくいったぞ」という喜びが味わえないのは寂しくもあります。
 私たちもそのラジオのアンテナと同じではないでしょうか。神さまという放送局から、聖霊という電波に乗って、愛の放送が送られてきています。私たちはそれをうまく受信する事が出来れば、「互いに愛し合いなさい」という主イエスの言葉のもと「キリストの愛とともに歩もう」という願いのままに生きられるのではないかと思います。しかし、その聖霊の電波は、この人間の世の中にある様々な思い煩(わずら)いによって上手く受信できなくなってしまっているのではないでしょうか。ちょうど、マルタが主イエスを自分の家に招き入れるという尊い志を持ちながら、しかしその真面目さのゆえに、心を乱してしまったように。その状況に陥らず、神さまに向かうアンテナの感度を保つには、マリアの姿勢が必要です。心乱されず、ただ主のみ言葉に聴く、聖書に聴く、という姿勢です。そしてまた、今日の箇所に続く、ルカによる福音書11章では、主イエスが弟子たちに祈りを教えるという物語が描かれます。そこで教えられる祈りが、先ほど礼拝の中で共に祈った「主の祈り」です。み言葉に真剣に聴く者は、そこから神さまへの応答として、祈りが与えられます。み言葉に聴く事と、与えられたみ言葉に応答して祈る事。これが私たちのアンテナを鋭くします。
そしてその感度の良いアンテナは、私たちが人生の中で何かに迷った時、この世の損得による判断ではなく、神さまからの愛によって物事を選ぶ、私たちの中にある霊性を必ず強めます。決断を迫られた時に「良い方を選ぶために」、日々み言葉に聴き、祈りましょう。




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