2016年11月27日 待降節第1主日・礼拝説教(大人と子ども)
  聖 書  ルカによる福音書1章5〜25節
  説教者  山岡 創

1:5 ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。
1:6 二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。
1:7 しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。
1:8 さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、
1:9 祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。
1:10 香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。
1:11 すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。
1:12 ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。
1:13 天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。
1:14 その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。
1:15 彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、
1:16 イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。
1:17 彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」
1:18 そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」
1:19 天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。
1:20 あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」
1:21 民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。
1:22 ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。
1:23 やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。
1:24 その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。
1:25 「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」

「 クリスマスの準備 」
  今日、皆さんが教会においでになって、いつもと雰囲気が違うことに、すぐ気づかれたことと思います。玄関のところに大きなリースが飾られています。また、中に入ると、クリスマス・ツリーやクリブの置物、礼拝堂には5本のローソクを灯すためのクランツがオルガンの上に置かれています。そうです、今日からイエス・キリストの誕生祭・クリスマスを待ち望むアドヴェントが始まりました。
 アドヴェントは、ラテン語という言葉で、元々“来る”という意味を持っています。救い主イエス・キリストが、この世界に来る、ということです。天から降り、この世においでになる、お生まれになるイエス様。その誕生の時を待ち望む期間がアドヴェントです。今年は12月25日がちょうど日曜日、その日に私たちはクリスマス礼拝を守り、イエス様の誕生を祝います。
 ところで、お母さんのおなかに赤ちゃんが授けられた時、現代では予定日が分かります。赤ちゃんがある程度まで大きくなると、男の子か女の子かも、ほぼ正確に分かります。赤ちゃんが生まれる時を待ち望んで、お母さんと家族は準備をします。おなかの赤ちゃんに話しかけます。赤ちゃんをどのように育てるか勉強します。また、哺乳瓶と粉ミルク、おむつや赤ちゃんの着る服、ベッド等を用意します。楽しい時間だと思います。
 それと同じように、私たちも、12月25日を待ち望んで、お生まれになるイエス様をお迎えする準備をします。クリスマス・ツリーやクリブ、クランツやリースを飾ることも準備の一つです。アドヴェント・カレンダーというものもあります。クリスマスに向かってカウント・ダウンをするかのように、その日その日の窓を開けていきます。窓を開けると、クリスマスにちなんだかわいらしい絵が描かれています。一つ一つの窓の中にチョコレートが入っているものもあります。そのように、私たちは楽しみながらクリスマスに向かっていくことができます。
 けれども、そういったこととは違う準備があります。それは、“心の準備”です。赤ちゃんイエス様を迎えることは、本当の赤ちゃんを迎えることとは、ちょっと違います。イエス様は目には見えません。目には見えないイエス様をお迎えするということは、私たちの心の中にお迎えするということです。だから、私たちは心を整えていくことが必要です。そのために、聖書から神さまの言葉を聞き、お祈りしながら、心を整え、イエス様を迎える準備をします。

 今日読んだ聖書の箇所では、洗礼者ヨハネの誕生が天使によって告げられました。このヨハネは、成長して大人になった時、「準備のできた民を主のために用意する」(17節)人になると言われています。「主」というのは、救い主イエス・キリストのことです。後からお生まれになり、おいでになるイエス・キリストのために、まずヨハネが準備をする。イエス様がお話する言葉を受け入れ、イエス様を信じて従って行く“信仰の心”を持った人々を用意するのです。そのためにヨハネは、悔い改めることを宣(の)べ伝え、悔い改めたしるしとして、ヨルダン川で人々に洗礼を授けるようになります(3章)。イエス様も、ご自分で神の恵みを宣べ伝える前に、まず、このヨハネから洗礼をお受けになりました。
 やがてそのような人物となるヨハネの誕生が、祭司(さいし)であるザカリヤに告げられました。祭司というのは、神殿で神さまにお仕えする人です。礼拝をリードしたり、動物の献げ物をささげたり、祝福のお祈りをしたりします。言ってみれば、教会の牧師みたいなものです。そのような祭司の務めの一つに、「香をたく」(9節)ことがあります。神殿の奥にある「聖所」(9節)という部屋で、神さまに良い香りをおささげするのです。ザカリアは、くじでその当番に当たり、聖所で香をたいている時、天使の幻を見たのです。
 天使は、「ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を生む。その子をヨハネと名付けなさい」(13節)と告げました。更に天使は、生まれる子は神さまの霊に満たされていて、後からお生まれになる救い主イエス・キリストのために準備をする人になる、と語りました。
 けれども、ザカリアは、そのお告げを信じることができません。自分たち夫婦に赤ちゃんを授けてくださいと祈り求めながら、願い続けながら、いざ天使から、赤ちゃんを授けられると言われると、「わたしは老人ですし、妻も年をとっています」(18節)から、そんなことがあり得るでしょうか、と信じられないのです。
 そこでザカリアは、赤ちゃんが授けられる証拠をください、と天使に求めました。でも、証拠があるから信じる、とはどういうことでしょう?証拠があるなら、それはもはや“信じる”ことではありません。証拠がなくても、神さまの言葉を受け入れ、従って生きていくことが、信じるとういことです。
 先日の聖書と祈りの会の分かち合いの時、宝くじの話題が出ました。今、年末ジャンボ宝くじが売り出されています。坂戸入西(にっさい)のJマートの売り場が、よく当たると言われています。宝くじ、当たる保証なんて何もありません。いや、むしろ当たらないでしょう。でも、信じて買う。夢を見て、期待して、楽しみながら、抽選の時を待ちます。信仰はちょっと、宝くじに似ています。当たる保証も証拠もない。でも、自分の人生をかけて買います。信じて、待ち望みます。配当は宝くじよりも大きい。天国ですから。行ってみないと、死んでみないと、嘘か本当か分かりません。けれども、宝くじと違うのは、信じて生きた人には、みんなにジャンボ以上の喜びが当たるところだ、それが信仰だと私は信じているのです。その喜びは、買わなければ当たらない。信じなければ当たらないのです。

 ザカリアは信じることができませんでした。そのために、彼は「口が利けなくなり、この事が起こる日まで話すことができなくなる」(20節)という不自由を、天使から与えられることになりました。
 ザカリアは祭司です。その務めの一つは、人々に、祝福の言葉を告げることでした。牧師である私が、礼拝の最後に、“あなたがたに愛と平和があるように。‥‥願わくは、主イエス・キリストの恵みと、父なる神の愛と、聖霊(せいれい)の交わりが、あなたがたと共にあらんことを”と告げる、あの務めです。その務めができなくなって、ザカリアは、自分は祭司として役に立たないと思い、自分は不信仰で、値打ちのない、存在価値のない人間だと落ち込んだかも知れません。それまでは、自分の力で“自分は価値のある人間だ”と誇って生きいたかもしれません。でも、そういう自分を見つめ直す時が与えられました。罪深い、弱い自分が、神さまの恵みによって赦(ゆる)されて、愛されて生きていることを感謝して生きるようになること、神の愛という宝物を心のうちに持って生きるようになることが、ザカリアの準備でした。
 クリスマスを待ち望むアドヴェントの期間、私たちも改めて、自分の心、神さまを信じる信仰を見つめ直してみましょう。目に見える証拠を当てにし、この世常識や自分の力に頼る生き方になっていないか、を見つめ直してみましょう。自分の力で生きるのではなく、おいでになる主イエス・キリストがもたらす愛と平和に支えられて生きる思いがあるか、見つめ直してみましょう。それが、イエス様をお迎えするための、私たちの“心の準備”です。




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