2016年12月4日 待降節第2主日・礼拝説教
  聖 書  ルカによる福音書1章26〜38節
  説教者  山岡 創

1:26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
1:27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
1:28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
1:30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
1:31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
1:32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。
1:33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
1:34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
1:35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
1:37 神にできないことは何一つない。」
1:38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

「 神から恵みをいただいた 」
 おめでとう。すてきな言葉です。最近、私も「おめでとう」という言葉を口にしました。それは、ある方から、近々結婚されるというお話を聞いたからです。少し早いのですが、おめでとうございます、と祝福の言葉を贈りました。愛する人との結婚、それは神さまを信じる者にとって、神さまからいただいた「恵み」と受け止めることができるでしょう。
 天使ガブリエルも、「おめでとう」(28節)と祝福の言葉を、おとめマリアに告げます。
「おめでとう。恵まれた方。主があなたと共におられる」(28節)。
マリアは、「ダビデ家のヨセフという人のいいなずけ」(27節)でした。ガブリエルは、私と同じように、近々ヨセフと結婚しようとしているマリアに、「おめでとう」と告げたのでしょうか?どうやらそうではないようです。
 言われた当のマリアも戸惑い、「いったいこの挨拶(あいさつ)は何のことか」(29節)と考え込んでしまったようです。確かに自分はヨセフと数カ月後には結婚する予定である。天使はそのことを「おめでとう」と言ったのだろうか?「恵まれた方」と言うけれど、いったい何が恵みなのだろう?主なる神が共におられるって、何のことだろう?マリアには戸惑うことばかりでした。
 けれども、私たちもマリアの立場に置かれたら、やはり戸惑い、考え込むのではないでしょうか。いや、聖書の言葉を聞いて、神さまを信じている私たちも、ある意味で既に、マリアと同じ立場に置かれていると言うことができます。聖書はしばしば「恵み」という言葉を語ります。あなたにも神の恵みがもたらされる、と語ります。それを聞いて、では私(たち)にとって「恵み」とは何だろうか?今日のマリアの物語を読みながら、マリアの人生を思いながら、「恵み」って何だろう?と考えさせられました。それはどうやら、単純に「おめでとう」と言えるようなことではないようです。

 天使は、「おめでとう。恵まれた方」と言い、「あなたは神から恵みをいただいた」と言いました。その恵みの内容は、「あなたは身ごもって男の子を産む」(31節)ということでした。その子はやがて「聖なる者、神の子」(35節)と呼ばれ、ヤコブの家(イスラエル)を治めるようになる、と言うのです。
 けれども、それはマリアにとって予想外の出来事でした。“青天の霹靂(へきれき)”とも言うべき、考えられない出来事でした。いや、ヨセフと結婚してから男の子を産むということなら分かります。それなら神さまからの祝福であり、まさに「恵み」でありましょう。けれども、そういうことではないのです。天使が言っているのは、ヨセフと結婚する前に、男女の関係を持つ前に、男の子を身ごもるということでした。
 マリアはパニックでした。天使が告げる神の言葉を受け入れることができないのです。
「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(34節)。それはあり得ないことであり、また自分が望んだことでもなかったのです。それはマリアにとって、不都合な、起こったら困る出来事でした。実際、そんなことが起こったらマリアの人生は破綻(はたん)すると言っても過言ではありません。いいなずけのヨセフに何と言えばいいのか。実際ヨセフは、自分が与(あずか)り知らないところでマリアが妊娠していることを知った時、不倫(ふりん)を疑ったようで、秘かに離縁しようと決心したとマタイによる福音書1章に記されています。また、周りの人たちからも、どんな目で見られ、どんな陰口を言われるか分からない。だから、マリアにとって、それは望まない妊娠であり、出産でした。小さくてもヨセフとの幸せな結婚と家庭を望み、平凡な人生を考えていたであろうマリアにとって、あまりにも過酷な試練でした。「どうして」!と叫ばざるを得ない出来事でした。

 望まない出来事が起こる。それはマリアにだけ起こることではありません。私たちの人生にも起こり得ることです。現に今、望まない、不都合な出来事の中に置かれていると感じている方もおられるかも知れません。それなのに、天使は、「恵まれた方」と言います。「恵み」だと言います。受け入れられません。怒りさえ感じてもおかしくありません。本当に聖書は、訳の分からないことを言います。なぜ天使はそれを「恵み」だと言うのでしょうか?ダビデの王座に座り、イスラエルを治(おさ)める神の子を産むことは、この上ない名誉だと言うのでしょうか?そういうことではないと思うのです。
 「どうして‥‥」。不条理を訴える言葉です。どうしてこんなことが?どうしで私に起きるのか?納得のできない苦しさを訴える言葉です。人はこの叫びに答えることができません。ただ神だけが、語りかける言葉を持っておられます。
「聖霊(せいれい)があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」(35節)。
 「どうして」と叫ぶマリアに、天使を通して神が語りかけます。聖霊があなたを包む、と。私は、この言葉を黙想している時、「求めなさい。そうすれば、与えられる」(ルカ11章9節)とお教えになった主イエスの言葉を思い起こしました。自分の子どもが魚を求めているのに蛇(へび)を与える父親はいない。子を愛する父親なら、自分の子どもに「良い物」(13節)を与えたいと考える。まして天の父は、“我が子”として愛している人間に「良い物をくださるに違いない」(同13節)という教えです。そして、神さまが私たちにくださる「良い物」は「聖霊」(13節)だと言い換えられています。
 「聖霊」とは「良い物」なのです。良いことを引き起こす神の力です。マリアにも、聖霊が与えられると言います。それは、求める者に「良い物」をもたらす力です。与えられたものは、自分が望んだものとは違うかも知れない。けれども、神さまは「良い物」をくださるのです。もし、望まない出来事を「恵み」だと思い直すことができるとしたら、それは、聖霊に包まれて「良い物」が与えられたと信じることができた時です。
 聖霊に包まれる。私はもう一つ、松任谷由美さんの曲〈やさしさに包まれたなら〉を思い起こしました。小さい頃は神さまがいて‥‥と始まるこの曲のサビの部分では
カーテンを開いて しずかなほほえみの やさしさに包まれたなら きっと
目に映る すべてのことは メッセージ
と歌われます。聖霊に包まれるとは、神の愛、神のやさしさに包まれる、ということでしょう。その時、すべてのことは神さまからのメッセージと受け止めることができる。望まない、不都合な出来事も、「良いもの」と、「恵み」として受け入れることができるようになるかも知れない。聖霊とは、そのような転換を促(うなが)す神の愛の力です。

 先日、久しぶりに銀座の教文館書店に行って来ました。そこで、『3本の木』(いのちのことば社)という絵本を買って来ました。その話は、親から子へ幾世代にもわたって、クリスマスやイースターに語り継がれた民話だそうです。とある山の上に3本の木が立っていました。3本の木には、それぞれ夢がありました。1本は、世界一美しい宝物の箱になることを、もう1本は世界中でいちばん強い帆船(はんせん)になることを望んでいました。最後の1本は、この山の上でいちばん高い木になり、みんなが自分の梢(こずえ)を見上げる時、天に目を向けて、神さまのことを考えてくれるような木になりたいと願いました。やがて3本の木はきこりによって切り倒され、それぞれ大工のもとに運ばれます。宝の箱になることを願っていた木は、家畜のえさを入れる木箱に、帆船になることを望んでいた木は、ありふれた漁船になりました。山を動かず、天を指し示す木になりたいと夢見ていた木は、ただの角材にされて、そのまま材料置き場に置かれたままでした。
長い年月が過ぎました。ある夜のこと、家畜のえさ箱に一人の赤ちゃんが置かれました。その時、黄金に輝く星の光がえさ箱の上に降り注ぎました。その時、その木は、自分が世界でいちばん美しい宝物を抱いていることを知りました。また、あの漁船は、一人の旅人とその仲間たちを乗せて、湖で嵐に遭いました。しかし、その旅人が“静まれ”と言って嵐を静める奇跡を目の当たりにします。その時、その木は、自分が、天と地を治める王を乗せていることに気づきます。そして、角材となった木は、ある金曜日に材料置き場から引き出され、人々の罵声(ばせい)の中を、一人の男に担(かつ)がれ、やがて丘の上で、その男が自分に釘づけられます。余りの惨(みじ)めさに、その木は打ちのめされそうになりました。しかし日曜日の朝、大地が復活の喜びに揺れ動いた時、その木は、神さまの愛がすべてのものを変えてしまったことを悟るのです。3本の木はそれぞれ、神の愛によって自分が美しくされたこと、強くされたこと、神さまの愛を指し示す木になれたこと、それがどんなにすばらしいことかを悟った‥‥というお話です。
 望んでいなことが起こる。夢も希望も失ったかのような、苦しく、つらい時間を過ごすことになるかも知れません。けれども、それがイエス・キリストによって、神の愛によって、「恵み」に変えられる時が来る。聖霊によって、「恵み」だったのだと気づき、信じられるようになる時が来る。天使の言葉に、マリアは、そのような恵みがきっと用意されていることを信じたのではないでしょうか。

 だから、マリアは天使に応えます。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(38節)。
それは、神さまが私の人生にお与えになることを受け入れます、との信仰です。そして、そのことが「恵み」であると信じます、との信仰です。
 私は、このマリアの言葉に、ふと星野富弘さんの詩の一節を連想しました。星野富弘さんは、高校の体育教員でしたが、24歳の時、跳び箱を使った宙返りでの着地に失敗し、首の骨を折り、首から上以外、体が全く動かなくなってしまいました。病院のベッドで寝たきりの生活が続き、二言目には“ちくしょう”を連発し、絶望と呪いに生きていた星野さんが、クリスチャンの看護師や牧師によって、聖書を真剣に読むようになり、神と出会います。そして、口に絵筆を加えて、花の絵と詩を描くようになります。そんな星野さんがある時、気づき、書いた詩がこれです。
何のために生きているのだろう。
  何を喜びとしたらよいのだろう。
  これからどうなるのだろう。
  その時、私の横に、あなたが一枝の花を置いてくれた。
  力をぬいて、重みのままに咲いている、美しい花だった。(『鈴の鳴る道』より)
 星野さんは“あなた”と呼べる方と出会った。それが、父なる神です。その神が、一枝の花を置いて、自分の力で生きるのではなく、生かされて在ることを示してくださった。置かれた場所(境遇)を受け入れて生きる美しさに気づかされた。その思いを表わしたのが、この詩だと思います。“力を抜いて、重みのままに”という思いが、マリアの「お言葉どおり、この身に」という言葉と重なり合う気がしました。

「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」。
マリアもまだ、不安と迷いの中にあったに違いありません。心の底から「恵み」を100%確信して、このように応えたわけではないと思います。けれども、不安の中で希望を信じて、こう応えたのです。マリアが、この出来事を「恵み」と感じられるようになるのは、もう少し時間のかかることでしょう。私たちもマリアとおなじです。受け入れられる時がきっと来る。感謝できる時がきっと来る。いや、そのように希望を信じていられること事態が、既に「恵み」だと言ってよいのかも知れません。希望を信じ、その時を信じて、私たちも信仰の道を歩んでいきましょう。





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