2016年12月11日 待降節第3主日・礼拝説教
  聖 書  ルカによる福音書1章39〜56節
  説教者  山岡 創

1:39 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。
1:40 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。
1:41 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、
1:42 声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。
1:43 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。
1:44 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。
1:45 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
◆マリアの賛歌
1:46 そこで、マリアは言った。
1:47 「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
1:48 身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、
1:49 力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、
1:50 その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。
1:51 主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、
1:52 権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、
1:53 飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。
1:54 その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、
1:55 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
1:56 マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

「 おどるほどの喜び 」
 マリアは山里への道を歩いていました。親類のエリサベトに会うためです。
数日前に、マリアは信仰によって幻を体験していました。それは、天使が現れて神のお告げを語る幻でした。「あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」(1章31節)、その子はいずれイスラエルを治め、救う人になる。天使はそのように告げます。けれども、余りに突然の出来事、そして突然のお告げにマリアは戸惑いました。結婚もしていない自分に、「どうしてそのようなことがありえましょうか」(34節)と、そのお告げを受け止めることができません。混乱するマリアに、天使は、「聖霊があなたに降り」(35節)、神の力があなたを包むのだと言います。その力で、あなたの親類のエリサベトも今、妊娠していると言います。それを聞いてマリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(38節)と応えました。その瞬間、マリアが見ていた幻は消え、いつもの部屋の中の光景が目に映りました。

 見慣れた壁やテーブルを見ながら、“今のは何だったのだろう?”と、マリアはしばらくポカンとしたに違いありません。“天使が言ったことは本当だろうか?”と思い返しながら、やっぱり夢幻だったのではないかと思ったかも知れません。“でも、もし本当だったら‥‥”。マリアは不安になりました。もしこれが本当だったら、そして現実になったら‥‥婚約者のヨセフに何と説明すればいいのか?彼は信じてくれるだろうか?周りの人はどう思うだろうか?マリアの不安は次第に大きくなりました。「お言葉どおり、この身になりますように」とは言ったものの、もしそれが現実になったら、とても受け止められそうにありません。思い返せば返すほど、マリアの不安は大きくなりました。
 その中でマリアは、天使が一つだけ、夢や幻想ではなく現実的なことを言ったのを思い出しました。それは、親類エリサベトの妊娠でした。“あの年老いたおばさんが本当に妊娠したのだろうか?”マリアは確かめずにはおられなくなりました。それが本当か嘘かということが、マリアの見た幻、そしてマリアの将来にも関わって来るからです。居ても立ってもいらなくなったマリアは、急いでエリサベトの住む山里へと向かいました。
 「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と応えたマリアの信仰を、私たちは、非の打ち所のない、立派な信仰だと思っていたかも知れません。そして、私はこのような信仰にはなれない、と思うかも知れません。けれども、それは勘違いです。マリアにも疑いがあります。不安があります。嘘か本当か、できれば確かめたくなるのです。それが“人間”の信仰でしょう。私たちと同じです。マリアはこの時、10代半ば、あるいはもっと幼かったかも知れません。先週の説教でもお話しましたが、マリアが心から納得して、「お言葉どおり、この身になりますように」と言えるようになるのは、“あなたのお言葉どおりの出来事を、確かに受け取りました”と受け入れられるようになるのは、もうしばらく先のこと、年月が経ってからのことだと思います。今のマリアは、信仰半分、不安半分の中で、これが「恵み」だと信じたいという思いを抱きながら、山里への道を、いや人生の道を歩いているのです。

 さて、ザカリアの家に着いたマリアは、中に入り、エリサベトに挨拶(あいさつ)します。年老いて、もはや子宝に恵まれることなどない、と思われていたエリサベトのお腹が大きくなっており、本当に妊娠していることをマリアは確かめたのです。妊娠しているエリサベトに、マリアは“おめでとう”と祝福の挨拶をしたのでしょう。そしてその後で、マリアは、自分が見た天使の幻とお告げをエリサベトに話したことでしょう。
 それを聞いたエリサベトは、「聖霊(せいれい)に満たされて」、「その胎内の子がおどった」(41節)と言います。彼女は、自分の孫のような年齢のマリアを、声高らかに祝福し、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう」(45節)と大いに喜んでくれました。その喜びの感情が胎内の子に伝わり、おどるように大きく動いたのです。
 エリサベトには、マリアの不安も心配も、よく分かったでしょう。その上で、若いマリアが、信じない、受け入れないと拒否するのではなく、「お言葉どおり、この身になりますように」と応え、信じて受け止めようとしたことを、自分のことのように喜んだに違いありません。
 エリサベト自身、苦しみと不安の道を歩き続けて来ました。子どもが生まれない。それは、神の祝福をいただいていない、神に見放されているということでした。周りの人々からどれだけ陰口を言われたか分かりません。そんな苦しみの中で、エリサベトは信じて、祈り続けて来たに違いありません。そして、年老いた今、子どもを授(さず)かったのです。でも、たとえ子どもを授からなかったとしても、エリサベトは神さまを信じ続けたに違いありません。神にのみ、信仰にのみ、人生の希望と慰めがあるからです。
 「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた‥‥」。“信じた”ということは過去形ではありません。その場で終わりではありません。信じてみよう。信じていこうと決心したということです。そして、そこから信じ続ける、ということです。信仰は常に過去形ではなく、現在進行形です。疑いがある。不安もある。迷いもある。あきらめて、信仰を棄てそうになることもある。それでも、信じ続けていくのです。神の恵みを、祝福を信じ続けていくのです。そして、いつの日か、“私は確かに、神さまから恵みをいただいた(30節)”と納得し、安心する時が来る。それが信仰だと思います。
 私も、そういう信仰を歩んで来たのよ。だから、あなたもだいじょうぶ。「お言葉どおり」と信じることは、とても幸いなこと。それは必ず恵みと祝福へと、あなたを導いてくれるわ。エリサベトはそう言って、マリアの信仰を認め、喜び、励ましたのではないでしょうか。
 その言葉を聞いて、マリアはとても勇気づけられたに違いありません。信仰半分、不安半分のような自分を、エリサベトは「信じた方」と認めてくれたのです。幸いだと言ってくれたのです。祝福されていると喜んでくれたのです。
マリアにとっては、望まない出来事、望まない不都合な妊娠でした。けれども、エリサベトの言葉と喜びに触れたとき、マリアは、自分はこれでいいのだ、と落ち着くことができたのではないでしょうか。神の恵みを信じていこうと勇気を持つことができたのではないでしょうか。それは、エリサベトという信仰の仲間、友、先輩がいたからです。その友の祈りと言葉があったからです。
信仰とは、確かに神さまと自分の関係です。けれども、自分独りで信仰の道を歩き続けられるわけではない。互いに祈り合い、励まし合い、愛し合う友があってこその信仰です。

 話が変わりますが、アドヴェントに入って、『ハートフル・クリスマス・ストーリー』(いのちのことば社)というアメリカの実話をまとめた本を読み始めました。その中に〈愛のりんご〉というお話がありました。
 一人の未亡人の女性が50歳を前にして牧師となり、田舎の小さな教会に赴任(ふにん)します。秋も深まり、雪が降り始め、何となくわびしさを感じていた彼女の牧師室に、教会でピアニストをしているマリオンが訪ねて来ました。そしてポケットから見事なリンゴを一つ取り出して牧師に渡しました。最近、元気がなさそうだと思って、励ますために、このリンゴを持って来たと言うのです。彼女が帰った後で、スティーブという青年が牧師を訪ねてやって来ました。彼の妹のルーシーが妊娠しているが、体調が悪く、病院で流産するかも知れない、と心配しています。牧師は一緒に祈り、彼の帰り際に、あのりんごを渡します。このりんごを妹のルーシーに渡して、彼女がこれを見るたびに、スティーブが祈っていることと、神さまが守ってくださることを思い出せるように、と牧師は、りんごを渡しました。
 やがて夜になり、牧師は自宅に帰ろうと自動車に乗った時、雪の中を歩いているマリオンの姿が見えました。牧師は彼女を招き入れました。マリオンは、話したいことがあると言って、その日、病院に行ってピアノを弾く奉仕をしていた時に起こった出来事を話し始めました。彼女が一人の妊婦を訪ねて、その話を聞いている時、彼女のお兄さんが入って来て、彼女に、見事なリンゴを手渡した、と言うのです。そして、このりんごは特別なりんごで、神さまが彼女と一緒にいてくださることを思い出させてくれる、と話しました。それを聞いた彼女が笑ったとき、胎内の子が大きく動いた。その後で、彼女がそのりんごを自分にプレゼントしてくれたと言うのです。
  そのりんごったら、私が今朝あなたにあげたのより、ずっと立派なりんごなのよ。きっと主人がとても喜んでくれるわ。最近、主人の体調が良くなくてね。
  きっと、このりんごが元気づけてくれるはずだわ。
 そのりんごは、巡りめぐってもう一度、マリオンの手に戻って来ました。最初に自分があげたりんごなのに、どうしてずっと立派なりんごに見えたのでしょう?それはきっと、たくさんの人の愛が込められたりんごだったからだと思います。その愛のやさしさに触れた喜びから、ルーシーの胎内の子もおどるように大きく動いたのではないでしょうか。
 エリサベトの胎内の子が喜んでおどった。私は、この御(み)言葉を黙想している時、この物語を思い浮かべました。愛のやさしさに包まれる。愛されていることを感じる。その時、私たちは、おどるほどの喜びを、実際には踊らないかも知れませんが、大きな深い喜びを感じるのではないでしょうか。

 マリアは、エリサベトによって愛に包まれました。エリサベトを通して、神の愛に包まれました。その時、マリアは、「主があなたと共におられる」(28節)と天使が告げた言葉を思い出したのではないでしょうか。望まない、不都合な出来事の中にも、主なる神が共にいてくださり、愛のやさしさで包んでいてくださることを思ったのではないでしょうか。そして、神のやさしさに包まれたなら、すべてのことは「恵み」なのだと信じることができたのではないでしょうか。
 この恵みを知ったマリアは、喜び歌います。
「わたしの魂(たましい)は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(47節)。
〈主の祈り〉の最初にも、み名があがめられますように、とありますが、“あがめる”とは元々、大きくする、という意味です。マリアは大きな不安を抱えていました。けれども、エリサベトに出会い、エリサベトとの交わりを通して神の愛に触れた時、自分の不安よりも、神さまの愛はもっと大きい。神さまの恵みはもっと、もっと大きいと感じたに違いありません。「身分の低い、この主のはしため」(48節)である自分、こんなに小っぽけな自分にも目を留めてくださる神の愛は、とてつもなく大きい。その喜びを歌っているのが〈マリアの賛歌〉です。
 望まない出来事、不都合な苦しみ悲しみが、私たちの人生にも起こります。不安と恐れに包まれます。神さまへの疑いにさえ包まれるかも知れません。けれども、「主があなたと共におられる」と告げる神の言葉により、互いに愛し合う信仰の兄弟姉妹との交わりにより、私たちの不安や疑いよりも、もっと大きな神の愛で、私たちは包まれ、見守られ、導かれていることを信じる者とならせていただきたいと願います。




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