2016年12月18日 待降節第4主日・礼拝説教
  聖 書  ルカによる福音書2章1〜7節
  説教者  山岡 創牧師

2:1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
2:2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
2:3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
2:4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2:5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
2:6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。


「 「やすらげる場所」 」
 皆さんはラジオをお聞きになるでしょうか?映像に慣れた現代社会の中で、声だけの放送を聞くというのは新鮮です。私も決してラジオ・マニアというわけではないのですが、自動車で移動する時はよくFM79.5 ナック・ファイブと呼ばれる放送局の番組を聞いています。
 先日もナック・ファイブを聞いておりましたら、リスナーが自分の本籍地のことで送った投稿が紹介されていました。その人の本籍地は佐渡ヶ島なので本籍が必要になるたびに、役場で働いている友人に頼んで送ってもらっていたけれど、その友人も退職したので、今後は今住んでいる場所に本籍地を移そうか、というような内容でした。
 私も以前は、父の実家である長野県下諏訪町が本籍地でした。婚姻届を役所に届け出る際、本籍地の謄本(とうほん)が必要でした。今後も必要なことがあったら、長野県から取り寄せるのが面倒なので、川越市六軒町2丁目13番地4に本籍地を移しました。この住所がどこかと言えば、私の母教会である初雁教会の所在地です。皆さんも自分の本籍地を自分の住んでいる場所やその近くに移している方も少なくないのではないでしょうか。今では、どこにでも自分の本籍地を登録できるので、本籍地の意味がほとんどないのではないか、と思ったりします。(皇居や国会議事堂所在地も可能!)

 けれども、2千年前のユダヤ人は、本籍地というものを非常に大切に考えていたようです。ローマ帝国の皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、「登録をせよ」との勅令(ちょくれい)が出た時、彼らは本籍地で登録しようとしました。当時ユダヤ人は自分たちの国を持てず、ローマ帝国に支配されていました。住民登録は、帝国が人頭税という税金を課すための処置でした。ローマ帝国とすれば、ユダヤにどれだけの人間が住んでいるのか、その名前と数さえ分かればよいのですから、わざわざ本籍地に移動しなくてもよかったのです。
ところが、ユダヤ人は本籍地を目指しました。ユダヤ人はとても血筋を大切にする民族でした。必ずしも名門だからとか、貴族だから、というわけではありません。自分がどの部族のだれの家系に属しているかはっきりと分かる。それが、自分が神の救いを約束された民族(ユダヤ人)の一員であることの証明だったからです。そして、自分の属する部族とその家系には、いわゆる本籍地がありました。だから、勅令を受けたユダヤ人は、本籍地で住民登録をしようと旅立ったのです。ヨセフも、住んでいたナザレから、ダビデの町であるユダヤのベツレヘムに向かって出発しました。ユダ族のダビデの家系の末裔(まつえい)として登録をするためです。

 ところで、来週のクリスマス礼拝で、O.TさんとS.Mさんが洗礼をお受けになります。生涯、神さまを信じて生きていくと誓約し、神さまと救いの契約を交わして、神さまと共に歩む新しい人生を始めるのです。ある意味で神さまと結婚する、イエス様と結婚することだと言ったら分かりやすいかも知れません。結婚をすると、役所に婚姻届を出して、婚姻の登録をします。洗礼式とは一種の登録に譬(たと)えることができます。
 私は、今日の聖書箇所で、本籍とか住民登録といったことを黙想しながら、洗礼を受けるということは、一つの意味で本籍地登録をするようなものだと思いました。私たちは一人ひとり本籍地を持っています。けれども、クリスチャンは、言わばもう一つ別の本籍地を、“魂の本籍地”を持っているのです。その登録をすることが、言わば洗礼式だと言ってよいのです。
 では、どこに登録するのか?それは天国です。パウロという人は、フィリピの信徒への手紙の中で、「わたしたちの本国(国籍)は天にあります」(3章20節)と言いました。天国こそ、私の魂の本籍地、魂の故郷だと登録するのです。そして、天国の出張所である教会に住民登録し、天国に本籍地を持つ“教会住民”として歩み始める。神さまの愛の下、互いに愛し合い、神の栄光を表わす一員として歩み始める。そのスタートが洗礼式だと言うことができます。

 ヨセフは、身重のマリアを連れてベツレヘムへ向いました。150キロ近くある道のりは、臨月(りんげつ)に入っているマリアにとって、楽な旅ではなかったはずです。約1週間、ろばの背に揺られて、ベツレヘムに着いた時には陣痛が起こっていたとしても不思議ではありません。ヨセフは焦りを覚えながら、泊まる家を探したことでしょう。
 当時ユダヤには、私たちが考えるような、業務としての「宿屋」(7節)はなかったようです。ユダヤ人には、お互いに同胞の旅人をもてなす、という慣習がありました。だから、ベツレヘムに居残っていた普通の住民が、登録のために旅をして来た人々に宿を貸したものと思われます。とは言え、登録のために一度に多くの人々がベツレヘムにやって来たわけですから、とてもとても泊まる場所は足りなかったに違いありません。そのために、ヨセフとマリアは宿を取ることができず、家畜小屋に泊まったものと思われます。生まれた赤ちゃんイエス様が「飼い葉桶」(7節)に寝かされたと書かれていることから、その場所は家畜小屋だったのではないかと推測されるのです。
 ただし、家畜小屋については諸説あります。当時の家畜小屋というのはやはり、私たちが思い浮かべるものとは違っています。今回、この聖書箇所について調べておりましたら、家畜小屋について私が知らなかった話と巡り合いました。当時の家畜小屋は、家の中にあったというのです。ユダヤの家は、大きな一間の家だったそうです。その一間を上段と土間に分けて、上段には人間が暮らし、カーテンのようなもので隔てた土間で家畜が飼われていた、ということです。
 だから、ヨセフとマリアは、家の中には入ることはできたのかも知れません。ただ、上段は他の旅人を泊めているためにいっぱいで、土間に泊まることになった。そして、そこで出産を迎えたのだと考えることもできます。そうだとすれば、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(7節)という御(み)言葉から私たちが想像するニュアンスと実際は、少し違っていたのかも知れません。
 けれども、ルカが、主イエス・キリストの出産の場面で、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」と記していることには、やはり大きなメッセージが込められていると思われます。それは、イエス・キリストには生涯、「泊まる場所がなかった」ということを象徴しているのではないでしょうか。
 同じルカによる福音書9章58節で、主イエスは、あなたに従って行くという人に対して、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と語りかける場面があります。町から村へ、村から町へと神の救いを宣教する主イエスに、いつも安心して眠れる場所はありませんでした。マルタとマリアのように主イエスの働きを支持してくれる人の家に泊まれることもあったでしょが、野宿することも少なからずあったと思われます。
 けれども、そのような空間的な意味での場所よりも、精神的な意味での場所、いわゆる“居場所”というものが、主イエスにはなかったのではないでしょうか。居場所とは、単に場所の有る無しの問題ではなく、その場所に自分が安心して居られる人間関係があるか、という問題です。
 家庭があってもそこに安らぎがなかったら、職場があってもそこで安心して働けなかったら、学校があってもそこで友だちからはじかれ、いじめられたら、そこに居場所はないのです。居場所の有る無しは、私たちの人生において、とても重要な、死活問題だと言っても言い過ぎではありません。
 主イエスの行動に対して家族は無理解でした。取り押さえに来たこともありました。弟子たちは、主イエスに従いながらも、主イエスが人々に伝えようとしている神の恵みの内容を誤解していました。そして、祭司長、律法学者、ファリサイ派といった人々は、主イエスの考えと行動を否定し、対立していました。だから、主イエスには、安心して居られる人間関係がありませんでした。
 その意味で、居場所を探して旅をしておられるのは主イエスご自身かも知れない。登録をしようと、だれよりも旅をしているのは主イエスご自身かも知れない。そして、私たちのところに立ち寄っては、“宿を取らせてください。登録させてください”と魂の扉を叩いている。ヨハネの黙示録(もくしろく)3章20節に、「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開けるものがあれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」とあります。主イエスが、私たちの心の戸をたたくのは、私たちの救いのため、幸せのためですが、同時に、主イエスご自身の“泊まりたい”という願いなのではないか。私は今回、そのように感じました。

 信仰とは、神さまの内に、イエス・キリストの内に、自分が安心して居られる居場所を見いだすことです。イエス・キリストを通して神さまに愛されている。ちっぽけな、罪深い、欠けの多い、愛の薄い自分が、そのままで愛されていることを知る。その愛の中で、赦(ゆる)しの喜びを感じ、自分らしく生きられる安心感を味わう。だから、私たちは、“ここが私の居場所です”と神さまの愛の中に住民登録をするのです。それが信仰だと言ってもよいでしょう。
 けれども、それは同時に、私たちの内なる場所に、主イエスに住民登録をしていただく、ということでもあります。主イエスに、“ここが私の居場所だ”と私たちの心の内に住んでいただくのです。それが、信仰という、神さまと私たちの相互関係です。
 そのために、私たちは、私たちの心の内に「場所」を用意します。イエス様に泊まっていただくための、イエス様に登録していただくための場所を用意します。その「場所」とは決して立派なものでなくて良い。皇帝アウグストゥスを迎えるような王宮と王座のような場所でなくて良い。「飼い葉桶」でよいのです。
 私たちは、この場所を用意するのに、しばしば誤解することがあります。主イエスのために善い行いをし、立派な信仰を持ち、すばらしい心の場所を用意しなければ、と考えることがあります。けれども、主イエスはそれを求めてはいません。みすぼらしい「飼い葉桶」に宿ることこそ、主イエスの望みです。それが神さまのご計画です。
 私たちが、自分の罪深さを、欠けの多さを、愛の無さを知っている。そういう心の貧しい人間だと感じている。けれども、そのみすぼらしい「飼い葉桶」のような私たちの中に、主イエスは喜んで泊まってくださるのです。主イエスから、「今日はぜひあなたの家に泊まりたい」(ルカ19章5節)と言われたのは徴税人ザアカイ、罪人のザアカイだったではありませんか。そして、その自覚から生まれる「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18章13節)と悔い改める心を、主イエス・キリストはご自分の「場所」として住んでくださるのです。

クリスマスとは、主イエス・キリストの誕生祭です。けれども、それは決して2千年前の、過去の出来事ではありません。イエスが私たちの内に、愛を届ける救い主キリストとして宿られる。それが私たちにとって、本当のクリスマス、救い主イエス・キリストの誕生なのです。




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