2017年1月1日 礼拝説教
  聖 書  マタイによる福音書2章1〜12節
  説教者  山岡 創牧師

2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
2:3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
2:4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
2:5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
2:7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
2:8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
2:9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
2:10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。


「 別の道を通って行こう 」
 坂戸市の隣にある城下町・川越市。私は、この川越市にしばしば出かけることがあります。まず、川越は私の生まれ育った町です。両親は初雁教会の牧師を隠退しましたが、今も川越市内に住んでいるので、時々顔を見に訪ねます。次に、妻の勤める幼稚園が川越市にあり、何らかの理由で寄ることがあります。第三に、私は埼玉県の教誨師(きょうかいし)を務めていますので、川越少年刑務所に月に1回、刑を受けている少年・青年の教育のために伺います。その関係で、管区の教誨師連盟の会計という役目も引き受けることになり、連盟のメイン・バンクがこの辺では川越にしかないものですから、大きなお金を動かす時には川越まで行かねばならず、先週もその業務で川越まで行って来ました。
 少年刑務所は南大塚にあるので、ちょっと道筋が違いますが、川越に行くには大きく分けて二つの道があります。一つは、この教会の前の道(県道)をずっとまっすぐに行って、若葉駅、鶴ヶ島駅のそばを抜けて行く道。もう一つは、東坂戸団地の方からキングスガーデンの近くを通って行く道です。行く先によっても違いますが、市街地に入るには距離、時間ともほぼ同じぐらいなので、気分によって道を選ぶ感じです。また帰りがけに寄る場所によっては、帰りの道を変えることもあります。(帰りに石井のベルクに寄るなら東坂戸の道、坂戸駅近くのベルクに寄るなら若葉の道になります)

 さて、2千年前のクリスマス、占星術の学者たちも、帰りの道を変えました。彼らは、ユダヤから見て東方に住む異邦人でしたが、ユダヤの王が生まれたことを示す星を発見し、その王を拝むために、遙々(はるばる)ユダヤまで旅をして来たのです。学者たちは、ベツレヘムでユダヤ人の王とまみえ、礼拝し、宝をささげます。そして、帰途に着くのですが、その際、「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」(12節)と記されています。一度通った道を帰る方が簡単だったはずです。どうして来た道とは別の道を通って帰ったのでしょう? それは、「『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあった」(12節)からです。
 ヘロデは、3節に「ヘロデ王」と記されているように、当時のユダヤの王でした。とは言え、純粋なユダヤ人の血筋ではなく、またローマ帝国に支配されたユダヤに、ローマの権力によって容認され、立てられた王だったので、いつ王の地位を失うか絶えず不安だったようです。そんなヘロデ王のひざ元で、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(2節)などと尋ね回る学者たちが現れたものですから、ヘロデ王は自分の地位が脅かされると思い、かなり動揺したに違いありません。そこで王は、ユダヤ人の祭司長、律法学者たちを呼び出して、聖書に記されている預言を確かめます。そして、なぜか自分の部下たちを遣(つか)わさずに、学者たちを王宮に呼んで、ベツレヘムに生まれるという預言の言葉を教え、彼らを遣わします。その際、ヘロデ王は、情報提供の代わりに、見つかったら知らせるように、自分も拝みに行くから、と学者たちを欺(あざむ)きます。本当は、将来自分のライバルになるかも知れない、生まれたばかりの王を殺すためです。その後、学者たちが自分のところに寄らずに帰ったことを知ったヘロデ王は激怒し、ベツレヘムとその付近にいる2歳以下の幼児を残らず殺害するという暴挙を行いました。
 そのような王であることを神は知っておられたので、夢で「ヘロデのところへ帰るな」、幼子のことを知らせるな、と学者たちに告げたのでしょう。そこで学者たちは、「別の道を通って」帰って行ったのです。

 このクリスマス物語を読む度に、私は、神さまが「別の道」を行け、と私たちに語りかけておられるように感じます。そして、私にとって「別の道」とは何だろうか?と、いつも考えさせられるのです。
 学者たちが「別の道」を帰って行ったというのは、もちろん地理的な意味で、来た道とは別の道ということです。けれども、私は、それだけではない人生的な意味を感じています。それは、自分の人生をどのように生きるか、という生き方の意味を語りかけているのではないか。そして、生き方を変えよ、人生を歩む上で別の道を進め、と求めているのではないかと思うのです。
 ならば、別の道、別の生き方とは何でしょうか?「ヘロデのところへ帰るな」というのですから、ヘロデから離れる道、ヘロデの生き方とは違う、別の生き方です。ヘロデと対極の生き方だと言ってもよいでしょう。
 ヘロデの生き方は、お話したとおりです。権力欲という欲望、不安、憎しみ、ねたみ、偽り、欺き、殺意、怒り、残虐、殺人‥‥‥その中心にあるものは、極めて自分勝手な、自己中心さであり、自分を第一とする生き方でありましょう。そういった生き方とは別の、反対の道を行け、と神は言われるのです。
 ヘロデとは別の道、反対の生き方とは何でしょうか?それは、まさに新しい王としてお生まれになったイエス・キリストの道、自分を捨てた、神への愛と人への愛を第一とする生き方です。
私はふと、パウロが、「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」と語った言葉を思い起こしました。そう言ってパウロは、コリントの信徒への手紙(一)13章で、愛を語り始めます。その頂点は、4〜7節です。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真理を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。
そして、パウロは最後に命じます。「愛を追い求めなさい」(14章1節)と。
 自分を第一とし、人をないがしろにする自分中心を捨て、神の御(み)心を思い、人を愛する道を行く。愛の道、これこそがヘロデとは別の道、新しい王イエス・キリストの道、最高の道ではないでしょうか。
 占星術の学者たちは、イエス・キリストと出会い、この道を進み始めたと言ってもよいのです。彼らは、「宝の箱を開けて、黄金、乳香(にゅうこう)、没薬(もつやく)を贈り物として献げた」(11節)とあります。つまり自分の宝を献げた。ということは、自分が第一とするものを神に献げたということです。言い換えれば、自分が第一としてきたものを捨てて、“愛”を第一とし、愛を追い求める道を歩き始めたということではないでしょうか。

 私たちもまた、このクリスマスから「別の道」、新しい道、愛の道を歩き始めましょう。先週のクリスマス礼拝で、OさんとUさんが洗礼をお受けになりました。イエス・キリストを信じ、イエス・キリストを心に宿し、イエス・キリストと共に人生を歩き始める。それは、愛で満たされ、愛を追い求めて歩き始めるということです。まさに「別の道」「最高の道」を歩き始めたのです。
 けれども、洗礼を受けなければ必ずしも「別の道」を歩くことができない、というわけではありません。そのような形の上での変化がなければ、別の道、愛の道を歩めないわけではありません。既に洗礼を受けて信仰生活を続けている方々もおられます。そのような方々が、何か変化がなければ、「別の道」を歩けないわけではありません。私事で言えば、昨年は生活の形態が大きく変化した一年でした。けれども、生活や仕事が変化しなければ、「別の道」を歩けない、というわけでもないのです。
 信仰とは日々新たなものです。愛もまた日々新たなものです。私たちは、一年を振り返る時、いや昨日を振り返る時、“人を愛することができなかった”“自分には愛がない”と感じることがあるでしょう。相手のみを責め、自分には(愛の)非がないとしてきたこともあるでしょう。そういう自分の生き方を変えるのです。変えていただくのです。私たちの人生と生活の外側は変わらなくとも、内なる形、すなわち生き方は、日々新たに意識して、祈りつつ歩んで行くものだと思います。聖書の御言葉という「星」に導かれて歩んで行くものです。一人ひとりが遣わされ、置かれた場所で、この一年も、愛の道、愛する生き方を土台として、一日一日、愛を心がけて歩んでいきましょう。