2017年1月15日 礼拝説教
  聖 書  ヨハネの手紙(一)5章13〜15節
  説教者  山岡 創牧師

5:13 神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。
5:14 何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。
5:15 わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。


「 願いはかなえられている 」
 昨日、そして今日、センター試験が行われています。私たちの教会の関係者も数名、この試験に臨んでいます。また、今年は高校受験生が非常に多く、子どもチャペルの中学3年生は10名ぐらいいます。今週から私立高校の受験が始まります。そして、3月初めには公立高校の試験が控えています。
 彼らは今、受験のプレッシャーに不安を抱えながら生活しています。メールで子どもチャペルの連絡をする際には、必ず“受験のために祈っています”と書き添えます。すると、“ありがとうございます。行けるときに行きます”と返信が返って来ます。“受験が終わるまでは行けません”という返信もあります。返信そのものが帰って来ない子もいて、相当なプレシャーを感じているのだろうなぁ、と想像します。どうぞ皆様も、受験生のためにお祈りください。
 この時期、教会はともかく、各地の名のある神社は合格祈願をする受験生たちであふれます。合格祈願の絵馬が、その神社の神さまに奉納されます。余談ですが、本来は馬を奉納して願い事をしていたのが、なかなか馬という高級で貴重なものは献げられないので、絵に描いた馬を奉納するようになったようです。何だか聖書の中に出て来るユダヤ教徒に似ていると思います。彼らも、牛や羊という献げ物をするのですが、それが経済的にできない者は、鳩をささげて代わりとしました。
 自分の願いがかなうように、多くの人が、藁(わら)にもすがる思いで神さまの助けを求めます。それが、私たち人間の人情でしょう。私も自分の経験からよく分かります。

 さて、今日読んだ聖書の中には、願いはかなう、という内容が出て来ました。
「何事でも神の御(み)心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります」(14〜15節)。
 「願い事は何でも聞き入れてくださる」。それは主イエスも弟子たちに言われました。「わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう」(ヨハネ14章13節)と主イエスは最後の晩餐(ばんさん)の席上で、弟子たちに約束されました。願いはかなえられる。もしそうであるならば、これほど嬉しいことはありません。
けれども、私は、そのように信じたことがありません。そんなに都合の良い神さま、いるはずがないと思っているのです。もしキリスト教の神さまが、願う事は何でも聞き入れてくださるならば、全世界のすべての人がキリスト教信者になるでしょう。けれども、そんな神さまは、キリスト教に限らず、どの宗教にもいないのです。
 それでも私たちは神さまにすがります。神さまに願います。それは、生きていく上で、自分の弱さ、力の足りなさ、至らなさを感じるからです。何かに向かって祈らずにはいられないからです。
 けれども、その思いが時には、私たちに信仰を失わせることもあります。その願いが必死であればある程、それは起こります。例えば、自分の家族のだれかが重い病気にかかり、神さま、癒(いや)してくださいと必死に祈る。けれども、その願いもむなしくその家族が亡くなってしまったという場合、こんなに祈り願ったのに、どうして神さまは聞き入れてくださらなかったのか?もう神なんて信じられない、と信仰を捨てるという話を読んだことがあります。その気持が分からないわけではありません。
 けれども、それは神さまに対する誤解か、それとも信頼感の不足なのかも知れません。あるいは、分かっている。分かってはいるけれども、その悲しみと怒りを何かにぶつけずにはいられない私たちの心がそうさせるのかも知れません。

 それならば「願い事は何でも聞き入れてくださる」という信仰とは、いったい何でしょうか?よく読むと、そこに“注意書き”のようなものがあります。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら」という一言です。神さまもそうしようと考えておられる。そのお考え(=御心)と、私たちの願いがピタッと一致するなら、神さまは聞き入れてくださる、ということです。それは、ごもっとも、と思います。
 けれども、そこに一つ、大きな問題が生じます。それは、神の御心が私たちには分からない、ということです。私たちの願うことが、果たして神の御心に適っているのか、分らないということです。私たちは聖書を読んで考えます。神さまが私に何を語りかけ、求めておられるのか聴こうとします。それでも、私たちは、神さまの御心はこれだ!と確信を持つことは、なかなかできないでしょう。だから、私たちには、自分の願いが神の御心に適っているか分からないのです。ならば、私たちは、御心に適う願いはできないのでしょうか?
 ふと、私は一つの祈りを思い浮かべます。それは、主イエス・キリストがオリーブ山のゲッセマネという場所で祈られた祈りです。主イエスはその時、ご自分に危機が迫っていることを感じていました。ユダヤ教の祭司長、長老、律法学者たちといった宗教指導者たちと、また主流派のファリサイ派と、主イエスは信仰の上で決定的に対立し、それは彼らに殺意を起こさせるほどでした。彼らは主イエスを捕らえ、宗教裁判にかけ、処刑しようとしていました。その危機感と恐れをひしひしと感じながら、主イエスはこう祈られました。
「父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」
(マルコ14章36節)。
 「この杯」とは、迫り来る逮捕と処刑、十字架刑のことです。主イエスは、十字架刑を取り除いてください、と祈っているのです。それが、主イエスの願いです。けれども、その願いが、果たして神の御心に適っているのか、主イエスご自身にも分からない。だから、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈っておられるのです。あるいは、主イエスには、神の御心は十字架刑だと分かっていたかも知れない。多くの人の罪を背負い、罪を贖うために命を捨てることだと分かっておられたかも知れない。それでも、十字架の苦しみを自分から取り除いてくださいと願わずにはいられない。それが主イエスの思いであり、私たち人間を代表する人の心の現れでしょう。
 この主イエスの祈りを思うとき、私たちには、「神の御心に適うこと」が何なのか、分らなくて良いと思うのです。主イエスでさえ分からないのですから、私たちに分かるはずがありません。私たちは、神の御心が分からなくて良い。ただ、“〜してください”と主イエスのように、素直に願えばよいのです。
 もちろん、あまりにも自分勝手な願いは論外でしょう。ヤコブの手紙4章3節には、「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」とあり、人との争いにつながるような欲望から出る願いは聞き入れられないことが記されています。
 しかし、そのような余りに我欲(がよく)に満ちた願いでもない限り、私たちは、御心かどうか分からなくとも、素直に願って良いのです。大切なことは、その願いの裏側に、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」という信仰を持っている、ということです。最初から、“御心に適うことが‥”と物分かりの良い、ともすれば半ば自分の願いをあきらめたかのような祈りをする必要はありません。そんな消極的な祈りをしていたら、かなうものも叶(かな)わない。主イエスは、「求めなさい。そうすれば与えられる」(ルカ11章9節)と教えておられるではありませんか。譬(たと)え話にあるように、執拗に、必死に願えば、神さまの方が御心をひるがえしてくださるかも知れないのです。神さまはそういう方だと聖書に記されています。
 だから、そのまま素直に願い求める。私たちの信仰が問われるのは、“その後”です。私たちが、その祈りの結果をもって、神の御心が行われたと信じて、受け止めるかどうかで、信仰は分かれます。
結果がすぐには判断できない場合もありますから、その場合はなお祈り続けることが必要でしょう。実際、信仰生活においては、50年に及ぶ、いやそれ以上の祈り願いということもあります。しかも、その人の生前にはその結果は分からず、その人が天に召されてから、願いがかなえられたなんていう場合もあるのです。例えば、ある人が、自分の子どもの信仰と救いを祈り続けて、自分が天に召されてから、子どもが教会に来るようになって、信仰を与えられた、というようなこともあるのです。
 けれども、比較的早く祈りの結果が判断できる場合もあります。その結果が、自分の願いのとおりであった時、私たちは感謝と共に、願いは聞き入れられるという確信を持つことができるでしょう。けれども、願いがそのまま聞き入れられなかった時、私たちは、神さまを信頼して、その結果を神さまの御心と受け入れる者でありたいのです。
 「求めなさい。そうすれば与えられる」との主イエスの教えを、先ほどお話しました。その言葉の後で、主イエスは、子どもが魚を欲しがるのに蛇を与える父親はいない。卵を求めるのに、さそりを与える父親はいない。与えるものは求められたものとは違うかも知れないけれど、与えるのは「良い物」だ。まして天の父なる神さまは、あなたがたに「良い物」をくださらないはずがない、と語っています。
 与えられた結果は、願ったものとは違うかも知れないけれど、それは神さまが“私”を愛して、“私”のことを考えて、与えてくだった「良い物」に違いないと信頼して受け止める。受け止めるのは難しいことかも知れないし、時間がかかることもあります。理由も意味も分からずに苦しむこともあるでしょう。けれども、「良い物」と信頼して受け止める姿勢こそが、神の御心に適う願いと信仰ではないでしょうか。

 年末に89歳で天に召されたカトリックのシスター・渡辺和子さんは、『愛することは許されること』という著書の中で、〈領収書の祈り〉という文章を書いています。
 私は「いただく」という言葉が好きで、日常会話の中でも、できるだけ使うようにしています。「くださるものをいただく、しかも、ありがたくいただく」、このような心で祈る時、その祈りは必ず、神に“届く”と思うのです。届いたということは、決して、そのことがそのままかなえられる結果になるということではなくて、神がその時、その人にとって一番“善いこと”をしてくださるということなのです。‥‥
 “請求書の宗教”ではなく、“領収書の宗教”を持って生きてゆきたいと思います。「ください、ください」と欲しいものをやみくもに願うことが真の祈りなのではなく、「確かにいただきました。ありがとうございました」と、神のくださるもの一つひとつを、しっかりいただいて感謝する。(その)“心”こそを、私たちは真に祈り求めるべきなのでしょう。
 領収書の祈りが、「願ったことは既にかなえられている」、神さまが最善にしてくださっているとの確信を生むのでしょう。まだまだその確信には至らない、とどかない私たちかも知れません。でも、この願いと祈りをもって生きる時、私たちは既に「永遠の命」(13節)を歩き始めているのです。