2017年1月22日 埼玉地区講壇交換礼拝説教(大宮教会)
  聖 書  ルカによる福音書15章1〜7節節
  説教者  山岡 創牧師

15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。
15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。
15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。
15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、
15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
15:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

「 大きな喜び 」
  昨年のクリスマス、私が牧会しております坂戸いずみ教会では、二人の受洗者が与えられました。今日の礼拝に伴ったO.Tさんもその一人です。(大宮教会でもクリスマスには受洗者があったことと思います。)
坂戸いずみ教会で受洗者が与えられたのは、実に3年ぶりのことでした。ご本人にとっても喜びの出来事だったでしょうが、祈って来た教会において、教会員たちにとって、本当に大きな喜びでした。けれども、このことは私たち人間にとってよりも遙かに、神さまにとって大きな喜びであったに違いありません。
 今日の聖書の箇所で、主イエスはこう語っています。
「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(7節)
 二人の人が悔い改めて神さまに立ち帰った受洗の出来事を、私たちは共に喜び祝い、愛餐会(あいさんかい)を催しました。けれども、それ以上に天においては、神さまと天使たちと、そこにいる人々の間で、大喜びの大宴会が開かれていたに違いありません。

 「大きな喜びが天にある」。大きな喜びは、一人の罪人が悔い改めた時に起こります。それは、言い換えると、見失われた羊が持ち主によって見つけ出された時に起こります。この譬(たと)え話に表わされているように、見失われた人間を神さまが見つけ出した時に起こります。無くしていた大切なものを見つけ出す。それは、大きな喜びです。
 話は変わりますが、坂戸いずみ教会の真ん前を県道バイパスが走っています。その道を西に向かって高麗川(こまがわ)を渡り、関越自動車道を越えて1キロぐらい行くと、入西(にっさい)ニュータウンという新興住宅地がありまして、そこにあるマミーマートに買い物に行った時のことです。マミーマートに着いて、私は、貴重品を入れたバッグがないことに気づきました。車の中を捜してもどこにもない。真っ青になりました。財布だけでなく、銀行のキャッシュカード、通帳、免許証、また教会から預かっているお金など、ありとあらゆる貴重品がバッグに入っていたからです。すぐに銀行と交番に連絡しました。
その日の夕方、交番から電話がありました。バッグが届いている、と言うのです。受け取りに行くと、無くなっているものは一つもありませんでした。警官の方に聞いたら、届けてくれた人は高麗川の橋の上で拾ったという話です。何でそんな場所に落ちていたのだろう?どうやら私は、車の屋根の上にヒョイっとバッグを置いて、そのまま車で走り出してしまったようです。そして、走っている途中、橋の上で、バッグが落っこちたのでしょう。見つかって大喜びの、大感謝でした。
 見失った人が見つかった時、神さまもこんなふうに、いや、これとは比べられないほどの大きな喜びと安堵感(あんどかん)を感じるのではないか。そんなことを、ふと想像しました。

 「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」。主イエスは、この天の喜びを、見失われた1匹の羊を見つけ出す譬え話によってお語りになりました。百匹の羊を持っている人がいる。野原で放牧をしていたら、気づかぬうちに1匹がいなくなっていた。気づいたのはもう夕方だったでしょう。谷底に落ちていないか、野獣に食われていないか、羊飼いは気が気ではない。そこで、九十九匹を野原に残して、その1匹を探しに行く。たぶん見つかるまで捜す覚悟だったに違いありません。そして、見つけたら肩に担いで帰り、近所の人まで呼び集めて、大喜びをする、という話です。
 皆さんも時々、街中で迷子犬、迷子猫の張り紙を目にすることがあるでしょう。あるいは自分自身が、そんな張り紙をしたことがあるかも知れません。大切なペットがいなくなってしまったら、飼い主としては気が気ではありません。
 我が家でも、以前に十姉妹(じゅうしまつ)を飼っていました。玄関の靴箱の上に鳥かごを置いていたのですが、ある時、世話をしていたら、2匹のうちの1匹が鳥かごから出てしまいました。その時、水を捨てるために開けた窓が開いたままで、外へ飛び出して逃げてしまったことがありました。アッ!、私は瞬間、青くなりまして、急いで飛び出しました。でも、焦って追わずに、まず飛んで行った方向を見極めようと、階段の上から見ていました。幸い、籠の中で飼っているため、飛ぶ力が弱くなっていて、あまり遠くまでは飛ばず、道路の向こうのアパートの茂みに飛び込むのが見えました。私は階段を降りて行って、飛び込んだ茂みの周りを探し回りました。そして、うずくまっている十姉妹を見つけ、連れ帰って事無きを得ました。いなくならないで良かったとホッとしました。今でもその時のことをよく覚えています。
 どうして私たちは、逃げ出したペットを捜すのでしょうか。言うまでもありませんが、親しい関係を持っているからです。自分にとって大切な存在だからです。
では、私の場合、もし十姉妹を10匹飼っていたらどうだったでしょう?9匹残っているから1匹ぐらいいいや、と思って、捜さなかったでしょうか。そんなことはない。やっぱり捜し回ったでしょう。これが、20匹でも、50匹でも、100匹でも同じことだと思います。そんなふうに考えてみると、かの羊飼いが99匹を野原に残しても、1匹の羊を探し回る気持が想像できます。羊飼いにとっては、どの1匹も、親しい関係を持った、大切な存在なのです。そしてそれが、私たち一人ひとりに対する神さまのお気持なのです。
では、なぜそんなに大切なのでしょうか?それは、神さまが人間を、私たち一人ひとりを、この“私”を、心を込めて、愛を込めてお造りになったからです。
皆さんの中にも、何かモノを作るのが趣味の方もおられると思います。私も子供の頃、“工作少年”の一面がありました。今でもその延長か、“日曜大工牧師”という趣味があります。作るの大好きです。子どもの頃、ボール紙とはさみとセロハンテープで、ロボットや戦艦や戦闘機をつくり、油性のカラーペンで色を塗りました。学校から帰ってから5時間も6時間もかけて、ご飯も食べずにつくる。何十日もかけて1mぐらいの宇宙戦艦ヤマトを作ったこともありました。丹精込めてつくった作品は、大切な宝物なんですね。大事にしました。ある時、友達から作った作品をバカにされて、ものすごく腹が立って、取っ組み合いの大げんかをしたこともありました。
 思いを込めて作った作品は、大切な宝物です。でも、壊れやすいんですね。ちょっと動かして遊んでいると、取れたりする。テープがはがれたりする。でも、捨てたりしない。一生懸命修理します。それは、自分が愛情を込めてつくった宝物だからです。何とか直したいと思う。大切だからです。
 神さまもそういう気持なんだと思います。いや、もっともっと、ご自分が愛情を込めて、一生懸命お造りになった私たちだから、大切なのです。宝物なのです。愛する子どもなのです。何とか直したいと思う。無くしたら見つけ出したいと必死になる。神さまの目から見たら、私たちは一人ひとり、それほどに価値ある存在なのです。

 けれども、私たちは時々、それほどの価値を見失うことがあります。ファリサイ派の人々や律法学者たちがそうでした。「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」(2節)。徴税人(ちょうぜいにん)や罪人(つみびと)を受け入れる主イエスに対して、彼らはそのように不平をもらしました。どうしてでしょう?それは、彼らの目から見れば、徴税人や罪人たちは、悔い改めていない、ということなのだと思います。彼らは、神の掟である律法を行い、守ることを大事にしました。そうすることで、神さまに喜ばれ、認められ、選ばれて神の国に入ることができる人間になれると考えていました。それが彼らにとって、人として価値あることでした。
 ところが、徴税人や罪人たちは、律法を行い、守っていない。律法を通して示される神さまの御心に、心を向けていない。だから、悔い改めなどしていない。価値ある人間になっていない、と言うのです。
 彼らの主張は、もっとものように思われます。けれども、もし私たちが、その見方をもっともだと感じるとしたら、それは私たち自身が、人間は何かを行うから価値がある、行いの結果を出すから価値がある、という行動主義、結果主義の価値観に陥って、“存在の価値”に目を留めることを忘れているからです。
 悔い改めるとは、どういうことでしょうか?それは私たちの信仰においても、一つのキーワードです。けれども、誤解してはなりません。悔い改めるとは、私たちが、神さまに喜ばれると思われる善い行いをして、自分の内に、行いとその結果という値打ちを作りだすことではないのです。
 主イエスは、悔い改める一人の罪人と天の大きな喜びの話をされました。けれども、悔い改める罪人に譬えられている見失った羊が、いったい何をしたでしょうか?何もしていないのです。羊は、ただ見失われただけです。確かに、自分で迷い出たのかも知れませんが、それは、羊飼いが見失った、という表現で表わされているのです。そして、自分で帰ろうとしたとは書かれていない。羊を見失った羊飼いが、羊を探し回り、見つけ出して、喜んだということが書かれているのです。羊は何もしていない。ただ、飼い主に見失われ、見つけ出され、担がれて帰り、それで持ち主のもとに戻っただけです。けれども、それが「悔い改める」ということだと主イエスは語っているのです。
 悔い改めるとは、自ら善い行いをして、自力で価値を作り出すことではありません。そうしなくても、神さまは私たちのことを大切な宝物だと思ってくださっているのです。一人ひとりを、独り子イエス・キリストの命に代えてもよいと思うほどに大切な宝物だと思ってくださっているのです。それほどの自分の価値にハッと気づかされる。この世の中で見失っていた本来の自分の価値に、御言葉によって気づかされる。“私は、神さまに愛されている存在だ”という喜びに気づかされる。それが、悔い改める、ということなのです。

 悔い改める。それは、私たちが本来あるべき飼い主のもとに、神さまの愛の中に、自力ではなく、神さまの力で戻される、ということです。それは言い換えれば、羊のように神さまの肩に担がれて、人生を歩むということです。自分の力で生きるのではなく、神の力に生かされて生きるということです。もう一言言えば、神さまに愛され、生かされてある自分に気づき、自分を担いでくださる神さま、生かしてくださる神さまを信頼して、“よろしくお願いします”と自分をゆだねることでありましょう。
 先日、テレビで放映されていた〈ハッピー・フライト〉という邦画を見ました。羽田空港を出発し、ホノルルへと向かう旅客機が、その途中で機体の故障に気づき、羽田へと引き返して来ます。ところが、関東地方は台風に直撃されて、着陸のままならない状況でした。そういう中で、機長や副操縦士、キャビンアテンダントたちは、乗客を落ち着かせ、着陸を成功させます。
 私は、この映画を見ながら、ふと、“ゆだねる”というのはこういうことだなぁ、と感じました。まさに、自分の命を、運命を、機長にゆだねる以外にないのです。もちろん、機長の指示に従って、対衝撃姿勢を取るとか、自分のすべきことはあります。けれども、最終的には機長を信頼してゆだねるほかはない。
 私たちも、自分の人生を、生かしてくださる神さまを信頼して、おゆだねする。そうすれば、どんな台風の中でも、神さまが、着陸すべき“愛の空港”に導いてくださる。そこに、大きな喜びがあります。私たちの喜びと、それに勝る神の喜びとが重なり合った「大きな喜び」が生まれます。