2017年2月5日 聖餐式礼拝説教
  聖 書  ヨハネの手紙(一)5章16〜17節
  説教者  山岡 創牧師

5:16 死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。
5:17 不義はすべて罪です。しかし、死に至らない罪もあります。

「 死に至る罪に陥らないために 」
 今日の聖書の御(み)言葉を読んで、グイっと引きつけられた言葉、意識を鷲づかみにされたかのように、逃れられない言葉があります。それは、「死に至る罪」(16節)という言葉です。皆さんもそう感じたのではないでしょうか。
 今日の御言葉によれば、罪は大きく分けて2種類あることになります。「死に至らない罪」(16節)と「死に至る罪」です。そして、「死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります」(16節)と記されています。その兄弟、すなわち信仰の仲間は、周りの人の祈りによって罪を赦(ゆる)され、死を免れ、命を得るというのです。けれども、「死に至る罪」があると言います。しかも、「これについては、神に願うようにとは言いません」(16節)と書かれています。死に至る罪を犯している兄弟については、もはや祈らなくて良い、死に至る歩みを止めることはできない、とさえ言われているのです。そんな罪が本当にあるのだろうか?と考えさせられます。「死に至る罪」とは何でしょうか?

 まず、罪とは何かということを確認してみましょう。17節に「不義はすべて罪です」とありました。「不義」、すなわち“正しくないこと”です。では、正しいか正しくないかをどんな基準で定めるのでしょ?人の作った法律ではありません。だから、自分は法律を破るような犯罪は犯していないから罪はない、ということではありません。聖書が語る「罪」とは、そんなに単純な、表面的なことではないのです。罪の基準は、“神の御(み)心”です。罪とは、神の御心に背くこと”を指します。
 今、今月末の礼拝で洗礼をお受けになるM.Kさんと洗礼準備会を進めています。その第1回目に、洗礼の意味についてお話するのですが、その意味の一つとして、生き方を方向転換するしるしである、ということをお話します。罪という言葉の本来の意味は、“的外れ”ということです。的を外して生きている、当てるべき的に心を向けて生きていない、ということです。その心を向けるべき的というのが、神の御心のことです。神の御心という的を外した生き方、神に御心に背いた生き方から、神の御心を射抜き、御心に心を向け、従う生き方へと方向転換することが“悔い改め”であり、そのしるしが洗礼だとお話するのです。
 ですから、罪とは、神の御心に背いた、的外れな生き方ということになります。そういう生き方が具体的な形になって現われるとどうなるか?例えば、ガラテヤの信徒への手紙5章19節以下で、次のように語っています。
「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。‥‥‥このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません」
 殺人、盗み、詐欺といった犯罪はもちろん、こういった心の問題、人の道を踏み外すようなことも聖書は罪と見ています。そして、「神の国を受け継ぐことはできません」ということが、今日の聖書の箇所で言われている「死」ということでしょう。「死」とは、いわゆる“死ぬこと”を言っているのではありません。単に、この世での生物としての命が失われることを言っているのではありません。この世の命を失った後、来るべき世界、新しい世界‥‥聖書は「神の国」と言いますが、そこにおいて「命」を与えていただくことができずに、魂が滅ぶ、その人そのものが滅ぶ、ということを「死」と言っているのです。
 さて、しかし、今挙げたガラテヤの信徒への手紙5章の罪のリストの中に、「死に至る罪」はあるのでしょうか?「死に至らない罪」と「死に至る罪」を分けることができるのでしょうか?どれが「死に至る罪」でしょうか?‥‥‥どうもピンッと来ない。どれも「死に至らない罪」ではないか?悔い改め可能な罪ではないか?そんな気がするのです。
 そのように考えると、「死に至る罪」とは、神さまに対して“悔い改め不可能な罪”ではないか、と思えて来ます。そして、悔い改め不可能な罪とは、“悔い改めることを拒否すること”ではないか?悔い改めを拒否して、永遠に神さまから離れようとすることではないか‥‥そんなことを考えさせられます。

 そんなふうに考えますと、聖書の中に思い当たる話があります。それは、福音書(ふくいんしょ)の中で〈ベルゼブル論争〉と見出しの付いている話です。例えば、マタイによる福音書12章22節に出て来ます。主イエスが、病人や障がいを負った人を癒(いや)している。それは、病気や障がいの原因である悪霊(当時はそう考えた)を、主イエスがその人の内側から追い出しているからだと考えられました。けれども、主イエスを非難し、敵対するファリサイ派の人々は、イエスに悪霊の親玉であるベルゼブルが取りついている。その親玉の力で下っ端の悪霊に命令するから悪霊を追い出すことができるのだ、と悪口を言いました。けれども、主イエスはファリサイ派の人々の悪口の矛盾(むじゅん)を論破した後で、最後にこう言うのです。
「人が犯す罪や冒涜(ぼうとく)は、どんなものでも赦されが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊(せいれい)に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」(マタイ12章31〜32節)。
 ここで言われている、聖霊に逆らう罪というのが、「死に至る罪」と重なるのではないかと思われます。では、聖霊に逆らう罪とは何でしょうか?
 この話の次のページに〈汚れた霊が戻って来る〉(12章43節)という話があります。汚れた霊とは悪霊のことです。主イエスによって、人の内側から悪霊が追い出されて、悪霊はウロウロするのですが、行くところがない。仕方がないので、もとの人のところに戻ってみると、何とそこは「空き家」になっていて、掃除もされ、きれいに整えられていた。それを見た悪霊は、喜んでその空き家に戻って来る。そして、自分一人で住んだらもったいない、と言って、悪霊の仲間たちも呼んで来て住み着いてしまう。すると、その人の状態は前よりも悪くなる、という話です。
 どうして「空き家」になっていたのでしょう?‥‥本当は空き家ではないのです。聖霊が住んでくださっているのです。イエス様が、聖霊の力によって(12章28節)、神さまに背かせる悪霊を追い出してくださったのですから、その後には聖霊が住んでいるのです。けれども、当の本人が聖霊を見失ってしまっているのです。自分の力ではなく、聖霊の力によって、すなわち神さまの愛と恵みによって救われたのに、その聖霊の力と神の愛に“よろしくお願いします”とゆだねる信仰を失いかけて、“自分の力で”何とかして、神さまに認められるように、ふさわしく、自分を整えようなどと再び考え始めているのです。そうすると、自分の力でできたと思い上がったり、自分の努力が足りないとがっくりしたりして、いつの間にか聖霊と神の愛を見失っているのです。そうなると、再び、“だめだ、だめだ、努力が足りないぞ!何とかしろ!”、“どうぜ神なんか信じても無駄だ。やめてしまえ!”と心の中で叫ぶ悪霊が戻って来て、一度信じてつまずいた分、その声は以前よりも大きくなってしまうかも知れないのです。そこからもう一度、“よろしく”とおゆだねする信仰に戻れれば良いのですが、疑いや迷いを通り越して、“信じても無駄だ。もう帰らない。悔い改めない”と信仰を捨ててしまうこと、それが「死に至る罪」なのかも知れないなぁ、と思ったりします。

 私たちの中にも、そういった信仰の誘惑が少なからず起こります。悪霊くんは、何とかして私たちを神さまから引き離してやろうと、常にチャンスを窺(うかが)っているのです。私は、高校1年の時に洗礼を受けましたが、1ヶ月も経たないうちに“しまったー!”と後悔しました。当時、私は3度の飯よりもサッカーが好きな、サッカー少年でした。洗礼を受けたら、日曜日の練習や試合に出られなくなる‥‥今考えると、そんな単純な、他愛もない理由で、私は、喜んで受けた洗礼を後悔し、神さまから離れたいと思いました。他にも、色んな誘惑がありますね。自分はまだ聖書のことも信仰のことも分かっていないのに、こんなことでいいのかと迷ったり、何かで失敗したり、努力や行いが足りないと感じると、こんな自分で神さまは認めてくださらないと思ったり、不都合な、好ましくないことが起こって、そのために祈るのですが、祈っても祈っても解決しない時、“神さまは聞いてくださらないんじゃないか。祈っても無駄ではないか”とネガティブになったり、教会の中に嫌な人がいて、あの人がいるから、私はもう教会はやめる、信仰はやめる、と考えたり、私たちを神さまから引き離す誘惑の理由は様々です。思いがけない災害や、不条理な災難に見舞われて、“神さま、どうして?!”と叫ばずにはいられないことも私たちの人生には起こり得ます。それが信仰を捨てるきっかけになることもあるのです。
 ヨハネの手紙が書かれた当時、ヨハネの教会では、イエスを神の子、救い主と信じる信仰、その信じ方において、対立が起こっていたようです。そして、教会を去った人が少なからずいたようです。そういう状況、そういう人々を見ながら、ヨハネは、口を酸っぱくして、主イエスを信じるとはこういうことだ、と手紙に書きながら、去って行った人々の中に「死に至る罪」、神さまから離れ去る罪を見ていたのでしょう。
 ただ、私は、「これについては、神に願うようにとは言いません」というのは、ちょっと言い過ぎではないかなぁ、と思っています。気持が分からないではありませんが、ちょっとヨハネさんの感情が出ちゃってるんじゃないかなぁ、と思っています。死に至るか、至らないか、と自分で判別するようなことはせずに、「罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい」というのが、私たちクリスチャンの祈りの姿勢ではないでしょうか。

 今日の直前の箇所14節に、「何事でも神の御心に適うことを私たちが願うなら、神は聞き入れてくださる」とあります。罪を犯している兄弟を見たら、信仰から離れそうになっている兄弟を見たら(いや多かれ少なかれ、それが私たち一人ひとりの姿でしょう)
その兄弟のために祈り願いなさい、その祈りは聞き入れられる、と言っているのです。
 では、「御心に適うこと」とは何でしょうか?マタイによる福音書18章15節以下に、〈兄弟の忠告〉という見出しで、兄弟の悔い改めのために祈り願いなさい、二人または三人が願うなら、神はその祈りをかなえてくださる、という主イエスの教えがあります。その直前に、〈迷い出た羊のたとえ〉という話があって、その最後に、「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(18章14節)と締めくくられています。と言うことは、つまり、私たち一人ひとり、すべての人が滅びずに、死に至らずに、救われることが、神の御心だということでしょう。
 だから、私たちは「兄弟」のために祈る。祈り続ける。教会の兄弟のために、家族・友人という兄弟のために、世界の兄弟のために祈り続ける。その愛を失わないことが、いちばん神の御心に適うことだと思うのです。