2017年2月12日礼拝説教
  聖 書  ヨハネの手紙(一)5章18〜21節
  説教者  山岡 創牧師

5:18 わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。
5:19 わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。
5:20 わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。
5:21 子たちよ、偶像を避けなさい。


「 偶像を避けなさい 」
 「子たちよ、偶像を避けなさい」(21節)。
ヨハネは、自分の教会の信徒たちに、「子たちよ」と親しく呼びかけます。そして、「偶像を避けなさい」という言葉で、この手紙を終えています。他の手紙と比べると、何だか唐突に終わる感じがします。他の手紙の結びの部分は、大概、だれだれが“よろしく”と言っていると紹介したり、キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の交わりがあるように、と礼拝の終わりにも語られる祝福の祈り等が記(しる)されています。けれども、この手紙は違います。「偶像を避けなさい」と注意して終るのです。
 もしかしたら、この手紙には、この後に結びの部分があったのかも知れません。けれども、何らかの理由で破損して、無くなってしまったのかも知れません。
 この手紙に別の結びの部分があったかどうかは分かりませんが、しかし、「偶像を避けなさい」という言葉で終わるというのも、それなりに味のあることだと感じます。と言うのは、私たちの信仰生活において、偶像を避けるということ、言い換えれば、偶像崇拝をしないということは、最も基本的な、最も大事なことではないかと思うからです。

 「偶像」とは何でしょうか? それは、「真実の神」と対極にあるものです。今日の聖書箇所の20節に、「真実な方」と2回出て来ました。そして、「この方こそ、真実の神、永遠の命です」と言われています。だから、偶像とは、真実の神と対極にあるもの、崇拝の対象にはなっても、真実ならざるもの、ということでしょう。
 偶像とは、「真実」とは真逆のものを指すようです。ちなみに、辞書を調べてみると、?木や石、金属等で作った信仰の対象となる像、という意味と、?あこがれや崇拝の対象となる人や物事、とありました。
 それで思い出したのですが、現代日本は、アイドル全盛時代だと言ってよいでしょう。AKB48やモーニング娘らを筆頭に、アイドル・グループが後から後から出て来て、私など、テレビを見るたびに、これはだれ?あれはだれ?といった感じで、いったい今の日本にはどれだけアイドル・グループがあるのか想像もつきません。
 ところで、アイドルという言葉の意味をご存じでしょうか?それは元来、“偶像”という意味なのです。あこがれや崇拝の対象となる人、ということでしょう。
 我が家の子どもたちは、アイドルが大好きですけれども、先日そのうちの一人が、あるアイドル・グループの握手会に行って来ました。けっこう苦労してチケットを購入するのに骨を折っていました。ところが、握手会から帰って来た後で、“おれ、アイドル、もう止めるわ”と言い出したのです。えっ!あんなに好きで、熱狂していたのに?とびっくりしました。どうやら、あこがれのアイドルと直接握手するという距離感が近すぎたようなのです。そのアイドルに近づきすぎて、かえって“これは真実なるものではない”と虚(むな)しさのようなものを感じてしまったようです。アイドルとは、その真実を知り過ぎると、アイドルではなくなってしまう。適度な距離をとって、妄想したり、想像したりしている方がいいようです。

 真実を知ると、かえって虚しくなる。それが偶像というものでしょう。けれども、知れば知るほど、喜びが湧いて来る。感謝が湧いて来る。愛が湧いて来る。それが「真実な方」「真実の神」なのではないでしょうか。
 今日の聖書箇所に、「わたしたちは知っています」という言葉が3回、繰り返し出て来ました。知っている、ということを強調しています。近づきすぎるほどに知っているのです。何を知っているのか?「真実の神」を知っているのです。
それまで、神は、近づくことなどできない、遠い存在でした。だから、神の真実が何なのか、神の御(み)心が何なのか、よく分からなかったのです。けれども、神の子イエス・キリストが、真実の神とはこういう方だよ、と知らせてくださいました。イエス・キリストを通して、神に近づいて、神さまをよく知ることができるようにされたのです。もっと端的に言えば、イエス・キリストを見れば、神が分かる、神の真実が分かる。そういう方として、イエス・キリストは私たちのもとに来てくださったのです。
 神の真実とは何でしょうか?「神は愛です」と4章16節にあります。一言で言うなら、これこそが神の真実、「真実の神」の本質です。「神は愛です」ということについて、4章10節にはこう書かれていました。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償(つぐな)ういけにえとして、御子(イエス・キリスト)をお遣わしになりました。ここに愛があります」。
 神さまに近づくことができない時は、神の真実がよく分かりません。だから、“わたしたちが神さまを愛さないとだめだ、そうしなければ救ってもらえない”と考えていたのです。だから、神の律法を守る。律法を守って、善い行いをする。それが、神を愛することだ。そうすることで、神に愛してもらうことができ、救われるのだと、神の救いを条件付きのように考えていたのです。
 ところが、イエス・キリストがやって来て、そうではないということを知らせてくださいました。私たちが善い行いをしているか、いないかに関わらず、神は私たちを愛してくださっているという神の真実を知らせてくださったのです。そして当時、律法を行うことができないため神さまに愛されないと目されていた徴税人(ちょうぜいにん)、遊女(ゆうじょ)、罪人といった人々に、律法を行えない人々に近づき、癒(いや)し、語り、赦(ゆる)し、食事を共にして、愛されたのです。それどころか、イエス・キリストは、「わたしたちの罪を償ういけにえ」となってくださいました。彼らの、私たちの、全世界の罪を、私たちに代わって背負い、十字架の上で犠牲となって、償ってくださったのです。私たちが、自分の力ではどうしようもなく、途方に暮れるしかない自分自身の真実を、いや不真実と言うほかない私たちの真実の姿を、神はご存知の上で受け止め、愛してくださっている。その真実を、独り子イエス・キリストが十字架に架かり、その命を捨てて証明してくださったのです。
 この神の真実を、「神は愛です」ということを、私たちは神に愛されているということを、私たちは知っているのです。イエス・キリストによって知らされ、信じているのです。イエス・キリストを通して神の真実、神の愛を信じる者、それが「神から生まれた者」(18節)です。5章1節にも、「イエスがメシア(=キリスト、救い主)であると信じる人はみな、神から生まれた者です」とあるとおりです。イエスが、私たちに神の愛を知らせ、身を持って、命を懸けてその愛を示してくださった救い主キリストであると信じる。それが、私たちの信仰にとって、根本的な、いちばん大切な、信仰の内容です。
 今、M.Kさんと受洗準備会を進めています。今日午後の役員会で受洗承認の時間を持ちます。その際、お話したいのは、キリスト教信仰において、いちばん大切な点は、イエスを救い主キリストと信じる、ということだということです。イエス・キリストが、命を懸けて神の愛を“私に”届けてくださった、と信じる。信仰はこのことに尽きます。これは、求道中の方も、既に洗礼を受けている人も、改めて心に刻んでほしいことです。

 そのように「真実の神」を知り、信じる者として、どのように生きればよいのか。「すべて神から生まれた者は罪を犯しません」(18節)とありますが、いやいや、ちょっと待ってくれ、罪を犯さずに生きるというのは無理でしょう?!と思います。直前の16節にだって、「死に至らない罪を犯している兄弟を見たら‥」とありますから、クリスチャンだって罪を犯す、ということが前提になっています。ただ、神の愛を否定して、神さまから離れ去るという罪を犯さないように、もし罪を犯しても、あなたを赦して愛する神の真実に立ち帰って来なさい、ということでしょう。
 改めて、そのような「真実の神」を知り、信じる者として、どう生きるのか?「偶像を避けなさい」とヨハネは言うのです。偶像なるものを信じるな、偶像崇拝をするな、と言うのです。では、偶像崇拝とは何でしょうか?
 ユダヤ教やイスラム教は、特に偶像崇拝に厳しい宗教です。インターネットで偶像崇拝について調べていましたら、おもしろい記事を見つけました。サウジアラビアで雪が降って、ある父親が、子どもと雪だるまを作ってよいか、とイスラム教の法学者に尋ねたら、禁止された、という話がありました。また、ヨルダンでは図画工作を学校で習ったことがない、という人がいるそうですし、世界的に有名なポケモンについては、サウジアラビアでは禁止、インドネシアではOKなのだそうです。いずれも、偶像崇拝に当たるかどうかという点で、そういったことを判断しているわけです。
 けれども、私は、偶像崇拝の本質的な問題点は、もう少し別なところにあるのではないかと考えています。像に当たるものはすべてだめとか、木や石で作った像を拝んだら偶像崇拝だ、ということではないと思うのです。
 教会の前の道を西へ向かうと、すぐに粟戸大橋という橋がありますが、そのたもとにお地蔵さんが安置されています。私は、そのお地蔵さんに手を合わせている人を見たことがあります。何か真剣そうに祈っていました。私は、その人の行為が単純に偶像崇拝だとは思いません。その人だって、その石の像そのものが神さまだとは思っていないでしょう。その石の像が指し示しているものに、その石の像の背後にある、目に見えない何か偉大なるものに手を合わせているのだと思うのです。だとしたら、それは偶像崇拝とは言えないのではないでしょうか。
 既に召された方ですが、藤木正三という牧師が、偶像崇拝とは、自分を変える苦痛を伴わない信仰のことだと語っています。
  ‥神を信じるとは、神に変革を迫られることでもありますから、痛苦をわが身に招くことでもあります。‥‥‥痛苦のない信仰、それを偶像崇拝と言います。偶像崇拝とは、単に像を拝むということではなく、痛苦を避けつつ信じようとする自己執着のことです。ですから、痛苦に身を浸している信仰は、たとえ木、石の像を拝もうとも、偶像崇拝と言うべきではありません。(『灰色の断想』21頁)
 木や石の像を拝むことが偶像崇拝ではないのです。自分が神によって変えられることを拒みながら、自分の信じたいように信じる自己本位な信仰を偶像崇拝と言うのです。今まで持っていた自分の価値観や考え方、生活スタイル‥‥‥そういったものを自分の内側で偶像にしてしまって、神さまに変革を求められても、それを拒み、変えようとしない。例えば、神の救いは自分の行いによって左右されるのではなく、神の愛による無条件の恵みだと言われても、因果応報の考え方、行い第一の価値観で生きてきたら、そういう自分をなかなか変えられません。あるいはまた、「責めるべきことがあっても、赦し合いなさい」(コロサイ3章13節)と聖書を通して語りかけられても、“相手の方に非があるのに、なんで赦す必要があるか!”と言って、自分を変えようとすら思わないということもあります。けれども、そのように自分にこだわり続けること、その執着こそ、偶像崇拝ではないか、ということです。

 聖書の原典を簡単に意訳したリビング・バイブルには、「偶像を避けなさい」という部分は、「心の中に、神様に取って代わる何かがあるなら、すぐ取り除きなさい」と訳されています。神さまをさて置いてでも、こだわりたくなる何か、神の真実な愛から自分を遠ざける何か、それが私たちにとって“内なる偶像”なのです。神の言葉を真剣に聴こうとする時、その内なる偶像との間に挟まれて、私たちは葛藤(かっとう)します。変えようとすれば、痛みが伴います。けれども、その葛藤と痛み、自分を変えたいと願う祈りによって、私たちの内に真実な信仰が培(やしな)われていくでしょう。そして、自分が変えられた時、真実な意味で、神の愛の内に生きる喜び、感謝、愛を感じるに違いありません。