2017年2月19日 礼拝説教
  聖 書 ヨハネの手紙(二)4〜11節
  説教者  山岡 創牧師

1:4 あなたの子供たちの中に、わたしたちが御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変うれしく思いました。
1:5 さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです。
1:6 愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです。
1:7 このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです。
1:8 気をつけて、わたしたちが努力して得たものを失うことなく、豊かな報いを受けるようにしなさい。
1:9 だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません。その教えにとどまっている人にこそ、御父も御子もおられます。
1:10 この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません。
1:11 そのような者に挨拶する人は、その悪い行いに加わるのです。


「 人となった神 」
「わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです」(5節)。
 どこかで聞いた言葉だなぁ、とお思いになるのではないでしょうか。そうです、互いに愛し合うという掟は、ヨハネの手紙(一)で繰り返し聞かされた言葉です。そして、この掟は、主イエス・キリストが直接、弟子たちに語りかけられた掟でした。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)。
最後の晩餐(ばんさん)の席上で、主イエスは弟子たちに、このようにお語りになりました。この掟を、ヨハネの教会では大切に受け継いで来たのです。
坂戸いずみ教会でも、今年度初めに、〈キリストの愛とともに歩もう〉という教会の願いを定めました。この願いの基になったのが、主イエス・キリストの新しい掟です。その意味では、私たちの教会も、キリストの新しい掟を受け継ぐ教会であり、ヨハネの教会の流れを汲む教会だと言うことができるでしょう。

 互いに愛し合うということ。この掟の土台となるものは、私たちの道徳心や人間的な力ではありません。また、自分の道徳心や力で相手を愛し、互いに愛し合うことで、私たちは神さまに認められ、救われる。そうしなければ救われない、というような救いの条件でもありません。その点を誤解しないように注意する必要があります。私たちはつい、人を愛し、互いに愛し合うという善い行いをした者が、神さまに認められ、愛され、救われると考えてしまう傾向があります。けれども、そういう教えではないのです。
 互いに愛し合うことの土台となるものは、「わたしがあなたがたを愛したように」と言われた主イエス・キリストの愛です。この愛を信じる私たちの信仰です。私たちが善い行いをしたからキリストは愛してくださるという条件付きの愛ではなく、行いはなくても愛してくれる愛、罪人であっても、その罪人を愛してくれる愛です。
 主イエスは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1章15節)と言われ、神の国の恵みを宣べ伝える宣教活動を開始されました。そして、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招くためである」(マルコ2章17節)というスタンスに立って、罪人と見なされていた人々、そのために神に見捨てられ、神の国に入れないと目されていた人々と交わり、彼らも神に愛されているという恵みを、言葉で、行動で示されたのです。
 皆さん、4つの福音書の中に描かれている主イエスの教えや行動を、一緒に思い出してみてください。例えば、主イエスは、12年間、出血の病を患っていた女性を癒(いや)されました。彼女は群衆の中で主イエスに近づき、着ている服の裾をつかんだのですが、出血した状態で他の人に近づくこと自体が、律法という旧約聖書の掟に違反した罪でした。けれども、主イエスは、違反の罪を咎(とが)めることをせず、病を癒し、「安心して行きなさい」(マルコ6章34節)とその女性を送り出しました。
 あるいは、一人の遊女がいました。遊女の行為は姦淫(かんいん)の罪に当たるものでした。その遊女が食事の席にいた主イエスに近づき、泣きながら、旅に疲れた主イエスの足を涙でぬぐい、香油を塗りました。その食卓のホストであったファリサイ派の人は、心の中でその遊女を、罪深い女だと非難しました。けれども、主イエスは、その遊女の心を汲み取り、「あなたの罪は赦された」(ルカ7章48節)と宣言して、彼女を送り出しました。
 また、徴税人(ちょうぜいにん)ザアカイ。徴税によって自分の利益を増やす行為が、盗みの罪、貪欲(どんよく)の罪とみなされ、人々から相手にされませんでした。けれども、主イエスは、エリコの町においでになった際、いちじく桑の木の上から主イエスを見物していたザアカイに、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(ルカ19章5節)と声をお掛けになったのです。そして、彼の家に泊まり、食事を共にし、感激したザアカイから、自分の財産の半分を貧しい人々に施(ほどこ)す、また税金をだまし取っていたら4倍にして返す、という良心の宣言、愛の決意を引き出したのです。
他にも挙げれば、主イエスの愛の業には切りがありません。主イエスに愛され、救われた彼らは罪人と見なされていましたが、彼らに関わる主イエス自身、その行為は旧約聖書の掟に反する罪だと非難される行動でした。けれども、主イエスは、そういう非難に躊躇(ちゅうちょ)することなく、罪人に関わり、愛されたのです。罪人を神の国の恵みに、神の愛に招かれたのです。
 今、ザアカイのことをお話しました。ザアカイが、まず先に、徴税によって利益をむさぼるという罪の行為をやめる、という善い行いをしたわけではありません。善い行いをしたから、主イエスが声をかけ、お泊りになったのではありません。徴税人のままのザアカイ、罪人であるザアカイに声をかけ、泊まり、愛を尽したのです。その結果、主イエスに感激し、その愛に感動したザアカイは、自分の財産を施し、4倍にして返すと、自分も人を愛したいと決意したのです。善い行いをしたから主イエスに愛されたのではなく、行いもなく、罪人のままで主イエスに愛されたから、その無条件の愛に感動し、感謝して、自分も人を愛したい、見返りを求めずに愛したいという願いが心に湧き起こったのです。
つまり、それが「互いに愛し合う」という掟の土台です。互いに愛し合うとは、キリストに愛されて、その愛に感動し、感謝して、その思いから湧き上がる願い、神の愛に応える行為なのです。私たちクリスチャンの行いの本質は、すべてこれです。“ねばならない”ではりません。それをしなければ愛されないから、救われないから、する、という行為ではありません。キリストに、無償で、無条件で愛されているのです。だから、礼拝を守り、賛美する。キリストに愛されているから、献げる。キリストに愛されているから、奉仕する。キリストに愛されているから、隣人を愛する。キリストに愛されているから、互いに愛し合う。キリストに愛されているという信仰が、私たちの行動の根源、生き方の源泉となるのです。

 このような“神の愛”と呼ぶべき愛を、キリストは人となって表してくださいました。神のままで天の上におられたら、私たちは、遠すぎて、かけ離れ過ぎていて、その愛がよく分からなかったかも知れません。実際、主イエス・キリストがおいでになる以前の、ユダヤ人は、神さまが遠すぎて、神の愛が分からなかったのです。
 けれども、キリストは人となってこの世に来てくださいました。人となって人に接し、神の愛を示してくださったのです。神の国とは、罪人が愛される場所だと教え、それを、身をもって表してくださったのです。その最たる愛の出来事こそ、主イエス・キリストの十字架刑でした。
 主イエスは、ご自分の宣教活動を非難する人々に命を狙われました。その不安から、弟子たちの中で、主イエスの身柄を売り渡す者が現れ、あるいは見捨てて逃げ、主イエスとの関係を否定しました。主イエス・キリストは、そのようにご自分を非難し、陥れ、命を奪おうとする人々を赦(ゆる)しました。ご自分を売り、見捨て、否定する弟子たちを受け入れて、彼らを愛されました。その愛に揺るぎはありませんでした。主イエスは、彼らの罪をすべて背負って十字架にお架かりになったのです。それが、主イエス・キリストの十字架刑の真実です。無償の、無条件の神の愛を表わす究極の行為だったのです。
 ところが、ヨハネの教会の中に、キリストが人(人間イエス)となったことを否定する人々が現れました。キリストが十字架に架けられて苦しみ、すべての人の罪を贖(あがな)い、神の愛を表わされたことを否定する人々です。「このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです」(7節)と記されているとおりです。
 彼らは、神であるキリストが人となり、肉の姿になったのは仮の姿だと言うのです。イエスが洗礼を受けた時、天から霊が鳩のように降って来たと福音書にありますが、その時、キリストの霊が人間イエスの内に入った。そして、イエスが十字架に架けられる前に、キリストの霊は人間イエスから離れ去った、と言うのです。だから、人間イエスと神であるキリストは別物、キリストが人となったのは見かけ上のことで、だから、キリストが十字架の上で苦しみ、罪の赦しを達成された、神の愛を表わされたということはあり得ない、と主張したのです(仮現論)。
 けれども、その主張は、主イエスが、「わたしを見た者は、父(なる神)を見たのだ」(ヨハネ14章9節)と言われた言葉を否定するものです。神であるキリストが、私たちのもとに来てくださり、神の愛を伝え、十字架の上で私たちの罪を償(つぐな)い、究極的に神の愛を表わされたことを信じず、否定する考えに他なりません。その主張は、主イエス・キリストの真実と、それを受け継いで語られる聖書の福音とは違うのです。

 私たちの信仰は、イエス・キリストを信じる信仰です。そこが信仰の要です。この教会では多くの方が、聖書の教えを聞き、信仰を求める求道の歩みをなさっています。それら求道中の方々から、時々伺う話ですが、日本という宗教的な風土の中で、何ということはなしに“神さま”というものを信じては来た。自分を守り、助けてくださる神的な存在を感じては来た。けれども、その神さまは果たしてイエス・キリストなのだろうか?どうも結びつかない。納得がいかない‥‥‥というお話です。そのお気持はもっともだと思います。私のように、牧師の子供で、生まれた時から教会の中で育ってきたら、自然に、当たり前のこととして、イエスは救い主キリストであり、神であるという信仰が入っています。でも、もし私の生まれ育った環境が違っていたら、私はキリスト教信仰を、まず持つことはなかっただろうと思うのです。だから、日本の風土の中で生きて来た方の神信仰が、なかなかイエス・キリストと結びつかないのは無理もないことです。
 けれども、今こうして求道している方々は、どんなきっかけであれ、教会と出会った。そして、教会に来続けながら、聖書の御(み)言葉を聞き、人となられたイエス・キリストという“窓”を通して、自分を生かし、世界を導く神を、神の真実を、神の愛を模索している、と言うことができるでしょう。いつの日か、世界を導き、自分を愛する神は、イエス・キリストであり、その父なる神だと信じて、公に言い表すことができたら、私は牧師として嬉しく思います。教会の皆も喜ぶと思います。
 私たちの信仰の要(かなめ)は、イエス・キリストを信じる信仰です。イエスは救い主キリストであると信じる信仰、人となった神であると信じる信仰です。神であるキリストは、人間イエスとなってこの世に来られ、身をもって神の愛を伝え、十字架に架かり、私たちの罪を償い、無償の愛を表わしてくださった方だと信じる。それが私たちの信仰です。
 この信仰によっていただく神の愛に応えて、互いに愛し合うという願いが生まれます。愛が実践されます。キリストの愛とともに歩む教会が形造られていきます。

 余談ですが、私たちの愛の現れとして、教会から離れて行った人にも挨拶(あいさつ)はしたいと思うのです。カルテ的な宗教の教えには、離れていった人には挨拶しない、無視するといったものがあるようですが、私たちは道で会ったら、そういう人にも挨拶はしたい、言葉を交わしたい、と思うのです。ヨハネの時代には当時の事情があったのでしょうし、挨拶には支援の意味があったかも知れませんが、グローバルな時代に生きる私たちは、宗教的にも広い視野をもって、愛することを実践していきましょう。