2017年3月12日 受難節第2主日・礼拝説教
  聖 書 マタイによる福音書12章22〜32節
  説教者  山岡 創牧師

12:22 そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。
12:23 群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。
12:24 しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。
12:25 イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。
12:26 サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。
12:27 わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。
12:28 しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。
12:29 また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
12:30 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。
12:31 だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。
12:32 人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」

「 家主の交代 」
 先週の礼拝で、〈荒れ野の誘惑〉についてお話しました。主イエスが、荒れ野で悪魔に誘惑される。しかし、主イエスは御(み)言葉によって誘惑に打ち克つ、という内容でした。
 今日読んだ聖書箇所にも「悪霊」(22節、他)が出て来ます。悪霊と悪魔、同じものと考えてよいでしょう。悪霊、悪魔、これら悪の働きは、人を神さまから引き離そうとします。人の口を借りて誘惑し、引き離そうとします。苦しみや悲しみの出来事を通して、人を不信仰に陥らせます。
 今日の聖書箇所では、「悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人」(22節)が登場します。悪霊は人を障がいや病気にすると考えられていました。障がいや病気によって、人を神さまから引き離すのです。
 当時はこのように、悪霊というものの存在と働きがリアルに考えられていました。現代人である私たちは、理解できず、困惑する人も少なからずいるでしょう。あるいは、リアルに信じる人もいるかも知れません。他方、これは一つの人生の見方だ、この世の捉え方だと考える人もいるでしょう。
 また、悪霊とは対極にあるもの、悪霊を追い払うものとして、「神の霊」(28節)の働きが語られています。神の霊についても、リアルに信じる人もいれば、人生の見方、この世の捉え方と考える人もいるでしょう。存在を証明することはできないが、その働きは認める、という人もいるでしょう。いずれの信じ方であっても共通していることがあります。それは、私たち人間が自分の力だけで生きているのではないという人生観です。私たちの人生には、別の力が働いている。この世界には、神の意志と神の力が働いている。神の愛が満ちあふれている。そのように信じているのです。その信仰によって、私たちは、自分の人生を“生きているのではなく、生かされている”と捉えるのです。

 さて、主イエスは、悪霊に取りつかれ、目が見えず口の利けない人を癒(いや)しました。癒すということは、別の見方をすれば、その人に取りついている悪霊を追い出す、ということです。癒しの業を見た群衆は、「この人はダビデの子ではないだろうか」(23節)と驚きました。ダビデというのは、ユダヤ人の国イスラエルを繁栄させた古(いにしえ)の英雄王です。そのダビデのような者が再びイスラエルに現れてほしいと、人々は待望していました。簡単に言えば、“救い主”を待ち望んでいたわけで、群衆は主イエスを、救い主ではないかと思ったのです。
 けれども、ファリサイ派の人々は、主イエスが悪霊を追い出せるのは、「悪霊の頭(かしら)ベルゼブルの力」(24節)だと悪口を言いました。ファリサイ派の人たちは、主イエスを認めていませんでした。主イエスが、神の御前(みまえ)に“休みなさい”と定められている安息日の掟を破って、安息日にしてはならないことをするからです。主イエスがなさるのは、神の愛に基づいた“愛の行い”なのですが、神の掟を守り、特に安息日の掟を重んじている彼らにしてみれば、主イエスの行動は重大な掟破りであり、神に対する冒涜(ぼうとく)と映りました。だから、彼らは主イエスを排除しよう、殺そうとまで考えたと、直前の箇所に記されています。
 そんな彼らが、主イエスのことを“救い主”だなどと認められるわけがありません。けれども、癒しが行われ、悪霊を追い出されたのは紛れもない事実です。それは否定できない。だから、彼らはベルゼブルの力だと、苦し紛れの悪口を言ったのです。主イエスには、悪霊の親分が取りついている。その親分の力と権限で、手下の悪霊たちを人から追い出しているのだ、というのです。
 その悪口に対して、主イエスは二つの反論をなさいました。一つは、国でも町でも家でも、内輪で争えば立ち行かなくなる。同じように悪霊(サタン)が悪霊を人から追い出すようなことをすれば、彼らの人間支配も立ち行かなくなる、ということです。悪霊の国における内戦です。
 何カ月か前に、コロンビアにおける政府と反政府ゲリラの内戦に終止符が打たれたことをお話しました。50年続いた内戦に、“このままでは国がダメになってしまう”と悲鳴を上げたサントス大統領が、和平に乗り出し、今までのしがらみ、多くの恨みつらみを越えて、政府側とゲリラ側の人間が一緒に国造りをしようとしています。
 悪霊も内戦をしていたら、悪霊王国の目的は達成されない。だから、ベルゼブルが悪霊を人から追い出すことはあり得ず、従って主イエスの癒しもベルゼブルの力ではない、という反論です。
もう一つは、彼らファリサイ派の中にも悪霊を祓(はら)い、癒しの業を行う者がいました。彼らは何の力によって悪霊を追い出すのでしょうか?ベルゼブルの力で、でしょうか。主イエスの癒しをベルゼブルの力だと言うなら、彼らの仲間の癒しもベルゼブルの力だということになります。自分たちの仲間にそんなことを言ったら、彼らはひどく怒るでしょう。もし自分たちの仲間の癒しだけは神の力と認めて、主イエスの癒しだけはベルゼブルの力と言うのは矛盾ではないか、何ら説得力がないと主イエスは言われるのです。

 では、何の力で主イエスは悪霊を追い出し、病を癒しているのでしょうか?その力は、「神の霊」だと主イエスは言われます。
「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(28節)
 悪の力、悪霊よりも強いもの、それは神の霊です。神の霊でなければ、本当の意味で人の内から悪霊を追い出すことはできない。人を健やかにすることはできない。人を幸せにすることはできない。健やかで、幸せな国、すなわち「神の国」をもたらすことはできないのです。
 そして、神の霊は聖書の御言葉を通して働きます。先週の礼拝で、〈荒れ野の誘惑〉の箇所を説教した時、主イエスが御言葉によって悪魔の誘惑に打ち克ったことをお話しました。聖書の御言葉を通して、神さまの御心を知る。神さまの愛を知る。神さまのご支配を知る。そのようにして御言葉を信じて心に受け入れる。神さまを信じていこうと志す。その時、神の霊が私たちの内に働くのです。悪い思い、ネガティブな考えを追い出すのです。人生をポジティブに見て、ポジティブに生きようとする思いが与えられるのです。そこに「神の国」は来ています。
 神の霊は、悪霊の支配から私たちを強奪します。私たちという「家」(29節)の中には、悪霊という「強い人」(29節)が住んでいます。悪い思い、ネガティブな思い、人を非難する思い、人と争う思い等が住んでいます。そういう悪霊を、神の霊が縛り上げて、“今日からこの家には俺が住む”と家財道具一切、家を丸ごと略奪するのです。私たちを悪霊から乗っ取るのです。神さまを信じる時に、私たちの内に働く神の霊の力は、それほどに強力なのです。私たちを救おうとする神さまの強い“愛の思い”が霊に込められているのです。
 この神の霊の働きを信じないことが、「“霊”に対する冒涜」(31節)というものでしょう。「赦されない」(31節)とありますが、神さまが赦(ゆる)さない、と言うよりは、私たち自ら、どうにもならないような結果を招く、ということだと思われます。
 次のページに〈汚れた霊が戻って来る〉という話があります。悪霊です。悪霊は、人の内から追い出されてウロウロしますが、行くところがなく、仕方なく出て来た我が家に戻って来ます。でも、神の霊が住んでいれば中には入れず、ウロウロしているしかないのです。ところが、戻ってみたら空き家で、しかも掃除もされ、整えられていました。そこで悪霊は喜んでもう一度住み着きます。自分一人だけ住むのではもったいないと、自分よりも悪い悪霊を7つも連れて来て住み込み、シェア・ハウスします。すると、以前よりもその人の内側の状態は悪くなってしまいます。
 神の霊の働きを信じようとしなければ、悪霊は再び戻って来ます。神さまの愛と力にゆだねようとしなければ、よりいっそう悪い霊が、悪い思いが、ネガティブな思いが住みつきます。それが、自ら招く「赦されない」状況なのだと思います。

 聖書の御言葉によって、神の霊の働きを信じていきましょう。神の霊を信じる人のところには、「神の国」が来ているのです。「神の国」に住む。神の国建設こそ神さまの悲願であり、そこに住むことこそ私たちの信仰の目的だと言ってよいでしょう。
 では、神の国とはどんなものでしょうか?神の国は私たちの目には見えません。それは、神さまの愛による支配です。もっと簡単に言えば、神さまが私(たち)と共にいてくださる。共に生きてくださる、という喜びの生活そのもの、そこに、見えない神の国があります。
 愛する者と共にいられることは、私たちにとって大きな喜びであり、幸せです。愛を失う時、私たちは、石をパンに変えることができても、この世を支配する力を手に入れても、不健康であり、不幸せであり、そこに喜びと安らぎはないでしょう。
 先日7日に、N.YさんとY.Mさんが、この教会で結婚式をなさいました。神さまから、お互いに、ふさわしい助け手を与えられ、愛し合う者同士、これから共に生きていくのです。お二人の心は今、大きな喜びで満たされていることでしょう。
 お二人は事情があって、まだ一緒に暮らしているわけではありません。また、結婚したことによって、お金が儲かったとか、名誉を手にしたとか、病気が治ったとか、目に見える生活の変化が起こったわけでもありません。そういう意味では、今までと同じ、表面的には特に変わりはないと思います。
 でも、お二人は幸せを感じていることでしょう。それは、互いに愛し合って、共に生きる相手を、神さまから与えられているからです。人生の喜びと幸せの要因は、どこで、何を所有して生きるかではなく、“だれと生きるか”だと私は思っています。
 私たちの人生は、自分を愛してくれる人がいる、互いに愛し合える人がいる、ということが最も大切な土台ではないでしょうか。最近、マザー・テレサの『日々のことば』という本を読み始めました。その中で、3月10日の言葉として、こう記されていました。
  わたしはあのときのことを、絶対に忘れることはないでしょう。
  ある日、ロンドンの街を歩いていて、ひとりの男性がとても寂しそうに、
  ポツンと座っているのを見かけました。わたしは彼のところへ歩いていって、
彼の手を取り握手しました。彼は大声でこう叫んだのです。
  「ああ、人間のあたたかい手に触れるのは、ほんとうに何年ぶりなんだろ う!」
  彼の顔は喜びで輝いていました。彼は、ついさっきとは、まったく違った存在になっていました。自分のことを大切に思い、共にいたいと思ってくれるだれが、
この世にはいるのだということを、感じてくれたのでしょう。
わたしは、この経験をするまでは、このような小さな行為が、
これほどまでに喜びをもたらしてくれるなんて、全くわかっていなかったのです。
 自分のことを大切に思い、共にいたいと思ってくれる人がこの世にはいる、ということは、私たちにとって大きな喜びであり、幸せなのです。結婚だけに限りません。私たちは、そういう、互いに愛し、共に生きる人生を、だれかと始めましょう。教会の仲間と始めましょう。そして、何よりも神さまと、主イエス・キリストと始めましょう。そこに、神の国は来ています。神の国が始まります。