2017年3月19日 受難節第3主日・礼拝説教
  聖 書 マタイによる福音書16章21〜28節
  説教者  山岡 創牧師

16:21 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。
16:22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」
16:23 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
16:24 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
16:25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。
16:26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
16:27 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。
16:28 はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

「 自分の十字架を背負って 」
 “サタン・シリーズだなぁ”。受難節(じゅなんせつ)レントの3回の礼拝、その御(み)言葉に、ふと、そう思いました。荒れ野で主イエスを誘惑する悪魔。神の霊によって人の内から追い出される悪霊。そして今日も、サタンが出て来ます。
主イエスは、「サタン、引き下がれ」(23節)と叱りつけています。このように叱りつけられたサタンとは、実物ではありません。叱られたのは何と、主イエスの弟子のペトロでした。サタンはペトロなのです。
悪魔、悪霊、サタン‥‥これらは皆、同じです。悪の働きをします。人を神さまから引き離す働きをします。様々な出来事を通して、また人を通して働きます。今日読んだ聖書箇所で言えば、サタンはペトロを通して、主イエスを神さまから引き離そうとしているのです。ついでに言えば、ペトロを通してペトロ自身を、自分自身の引き離そうとしています。しかも、自分がサタンになっているということにペトロは気づいていない。それが、サタンという働きのたちの悪いところです。
ペトロだけではありません。ペトロがサタンになるということは、他の弟子たちもサタンになり得るということです。そして、現代の弟子である私たちもまたサタンになり得るということです。知らず知らず、私たちの内にサタンが働いて、神さまから自分を引き離し、人を引き離しそうになっているかも知れません。そういう自分に、聖書の御言葉によって気づかせていただいて、「サタン、引き下がれ」と力強い主イエスの御言葉をかけていただきたいものです。

 どうしてペトロは、「サタン、引き下がれ」と叱られているのでしょうか?それは、ペトロが主イエスの邪魔をしたからです。「神のことを思わず、人間のことを思っている」(23節)からです。
 直接的に何をしたかと言えば、ペトロは「イエスを脇へお連れして、いさめ始めた」(22節)とあります。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(22節)と、ペトロは主イエスをいさめました。
 その「とんでもないこと」とは、「御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」(21節)ことでした。21節の冒頭に、「このときから」とあります。それは、直前の箇所にあるように、ペトロが主イエスのことを、「あなたはメシア、生ける神の子です」(16節)と言い表した時からでした。
 メシアというのは、神さまによって選ばれ、この世に遣わされた救世主という意味です。メシアは旧約聖書の原語・ヘブライ語ですが、それを新約聖書の原語であるギリシア語に直すと、私たちにも馴染みのある“キリスト”という呼び名になります。
 ペトロや弟子たちに限らず、当時のユダヤ人は、救世主メシアが現れることを待ち望んでいました。と言うのは、およそ2千年前当時のユダヤ人はローマ帝国に支配されていたからです。国を奪われ、苦しめられていたからです。救世主メシアを待ち望む。その空気の中で、ペトロたちは、イエスこそメシアであると期待しました。ローマ帝国を打ち破り、ユダヤ人の独立国家・神の国イスラエルを復興するメシアを期待しました。それが、「人間のことを思っている」ということです。人間的な期待であり、価値観です。
 ところが、その時から主イエスは、御自分は必ず‥‥多くの苦しみを受けて殺される、と弟子たちに語り始めたのです。これからエルサレムに乗り込んで、ローマの軍隊を打ち破り、ユダヤ人の国を復興されると期待して、その主イエスについて行こうと考えていたペトロにしてみれば、それはまさに「とんでもないこと」でした。そんなことを言われたら、弟子たちみんなのモチベーションがなえてしまう。だれもついて行かなくなってしまう。弟子団は崩壊してしまう‥‥そう感じてペトロは主イエスをいさめたのです。わきへお連れしたのですから、ペトロとしては、みんなの前で注意して主イエスの権威を落とさないように気を使ったつもりでした。ところが、「サタン、引き下がれ」という、思ってもみなかった、きついお叱りを主イエスから頂戴することになったのです。

 主イエスは、ペトロが告白した「あなたはメシア」という認識を否定してはいません。ご自分が神さまに遣わされたメシア、救い主であることを否定してはいません。けれども、メシアとは何か?そのお考えが、ペトロ等、弟子たちの思い、人の思いとは全く違うのです。
 ユダヤ人は、律法という神の掟、神の言葉を大事にしました。その掟の一つ一つを厳格に守ろうとしました。これもまた人間の思いです。けれども、掟を守ることにこだわるあまり、そこからはみ出してしまって、“落ちこぼれ”と軽蔑され、苦しむ人も出て来ました。自分の生きる価値を見失う人々が少なからずいました。
 けれども、主イエスは、掟の一つ一つにこだわりませんでした。律法を通して、主イエスは、“神は愛である”と確信されていました。その確信が、神を“父”と親しく呼ばれる主イエスの信仰に現れています。神は愛である。だから、ご自分は神に愛されている。人々も神に愛されている。だれもが皆、神に愛されて生きている。愛によって生かされている。その真理を、主イエスは伝えようとしました。神は愛、この愛に応える道は、神さまを愛し、人を愛することだと確信して、愛の御心(みこころ)に従い、人を愛することで神さまの愛を伝えようとしました。特に、“あいつは神さまに愛されていない”と差別され、自分でも落ち込んでいる人々に、徴税人(ちょうぜいにん)や、遊女や、罪人や、障がいや病を抱えている人々に、あなたも神に愛されていると、言葉で、行動でお伝えになりました。
 その言葉と行動が、時に律法の枠を超えます。律法の掟を破ります。主イエスにしてみれば、“神は愛”という律法の真髄を実現しているだけなのです。けれども、それは理解されず、長老、祭司長、律法学者といったユダヤ教の指導者たちから非難され、ついには違反者として殺意を抱かれるほどになりました。
 殺されそうな危険に晒されている。逃げても不思議ではありません。あるいは戦っても不思議ではありません。けれども、主イエスは、ご自分が確信している“神は愛である”から逃げるわけにはいかない。どんなリスクがあっても、“神は愛”を伝えずにはいられない。それをやめたら、自分が自分ではなくなってしまうのでしょう。
 “神は愛”を生きようとしたら、指導者たちに苦しめられ、陥れられ、殺されることは必然だったのです。それでも、“神は愛”を、この社会の中で、人間の思いによって疎外され、愛を信じられない人々に伝える。リスクを冒してでも、命を失うことになっても、愛を生きて、伝える。それが「神のことを思(う)」ということです。神の御心です。その生き様、“神は愛”を生きる生き方がたどり着く最後が、十字架刑だったのです。
 だから、主イエスの十字架とは、リスクを負っても、損をしても、命を失うことになっても、人を愛する生き方の象徴。その根源である“神は愛”を指し示す究極の象徴、シンボルです。十字架を見たら、“神は愛である”と思い起こしてください。

 このように神のことを思っている主イエスが、弟子たちに求めます。現代の弟子である私たちにも語りかけます。人間のことではなく、神のことを思いなさい、と。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(24節)と語りかけます。
 主イエスは、ご自分の十字架を負われました。“神は愛”を生きて、人を愛するために、自分の命を捨てるという犠牲を負われました。私たちにとって、自分を捨てて背負う「自分の十字架」とは何でしょうか?
 人生における苦しみや悲しみ、それは確かに“重荷”、人生の重荷でありましょう。けれども、「自分の十字架」とは、少し違う気がします。もしそれが、だれかを愛するための苦しみであり痛みであるならば、それは「自分の十字架」になるでしょう。「自分の十字架」とは、自分がだれかを愛する時に背負う重荷であり、痛みであり、リスクであり、犠牲のことです。人を愛するとは、そういうことなのです。自分を捨てて、だれかを生かすことなのです。
 先日、三女の桜中学校卒業式に出席しました。その式において、中里校長先生が式辞をお話になりましたが、その中で、ある中学生の書いた〈私の母の顔〉という作文を紹介されました。その子のお母さんの顔は、右のほお一面がやけどのため大きくただれていました。どうしてやけどをしたのか聞くと、母親は、“ヤカンをひっくりかえしちゃってね”と言うだけでした。この子は、そういう母親のやけどのあとが大嫌いで、小学校に入った頃から、友だちに見られないようにと、母親に“学校には来ないでよ”と言い続けてきたそうです。中学生になったある日、彼女は、遅くまで頑張った家庭科の宿題を忘れたまま登校しました。気がついて、取りに帰ろうかと迷っていた矢先に、母親がその宿題を学校に持って来てくれました。けれども、彼女は、母親の気持を考える余裕もなく、“そんなお化けみたいな顔で、いつまでもいないでよ”と怒鳴り、教室に駆け込んだそうです。その日、夕飯の席で、父親が彼女に次のような話をしました。
 お前がまだ一歳の時の冬だった。お父さんは宿直で、その晩はお母さんとお前の二人だけだった。夜中、『火事だ』という近所の人の声で、お母さんが目を覚ますと、もう周りは真っ赤になっていた。隣りの家から火が出て、うちまで火が回ってしまったんだ。‥‥お母さんは夢中で逃げようとしたが、どこも火に包まれて逃げ場がない。とっさにお母さんは、毛布を持って火の海になっているお風呂場に行き、それをぬらしておまえをすっぽり包み、しっかり抱きしめたまま炎の中をくぐって、やっとのことで、表に逃げ出すことができたんだよ。めぐみ、お母さんの顔をよく見てごらん。そのヤケドはね、その時のヤケドのあとなんだよ‥‥
 今まで話さなかったのは、めぐみの心に負担をかけまいとするお母さんの気持なんだよと言って、父親は続けました。
 めぐみ、お前の顔が、そして肌がこんなにきれいなのは、お母さんが命がけでお前を守ってくれたからなんだよ。だからね、お父さんは、いつもお母さんの顔のヤケドを見ると、心の中で『ありがとう、ありがとう。めぐみを守ってくれて、ほんとうにありがとう』って、お礼を言っているんだよ。
 彼女の胸は、母親への感謝と後悔の思いでいっぱいになりました。彼女は今、こう思っているそうです。
 母の顔にあるヤケド。今では私の誇りです。私への愛のしるしなのです。だから、よそのどんなきれいな顔のお母さんよりも、私は、私の母の顔を美しいと思っています。
(『桜中便り13号』より)
 このお母さんは、娘を守るために、自分を捨てました。自分の安全を捨てました。自分を捨てる。それが“愛”なのです。そして、このような愛が、私たちの周りにあること、このような愛で私たちは常に生かされていることを指し示すしるしが、キリストの十字架なのです。聖書の御言葉によって、この“私”への愛を、神の愛を感じ、“キリストの十字架は私の誇りです。私への愛のしるしなのです”と思うことができたら、私たちの心は、喜びと感謝で満たされるでしょう。その喜びと感謝から、“神の愛”を生きる、人を愛する生き方が生まれます。

 もちろん、愛とは常に、このような大きな犠牲を伴うものではありません。けれども、人を愛する時、やはり自分を捨てるということが伴います。自分の時間を捨てる。都合を捨てる。好き嫌いを捨てる。こだわりを捨てる。価値観を捨てる。捨てて面倒を担う。不都合を担う。それを、カトリックのシスター・渡辺和子さんは“小さな死”、リトル・デスと呼びました。
 愛の秘訣は、“小さな死”です。私たちも、キリストの十字架を通して神に愛されていることを思い、“小さな死”という「自分の十字架」を背負って、神の愛を生きていきましょう。捨てる不都合が、担う面倒が、やがて喜びに変わることを祈りながら.