2017年3月26日 受難節第4主日・大人と子供の礼拝説教
  聖 書 マルコによる福音書14章66〜72節
  説教者  野澤幸宏神学生

14:66 ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、
14:67 ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」
14:68 しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。
14:69 女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。
14:70 ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」
14:71 すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。
14:72 するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。


「 そこから立ちあがる 」
 桜の花がちらほら咲き始め、3月も間もなく終わろうとしています。年度の変わり目、卒業や進級の時期ですね。この坂戸いずみ教会のこどもチャペルに集う仲間たちもそれぞれ、卒業・進級を迎えています。特に、たくさんの仲間たちがいる中学3年生たち、中学卒業と高校入学、おめでとう。高校3年生たちも、卒業と、進学、就職、それぞれの道へのスタート、おめでとうございます。坂戸いずみ教会の子どもチャペルは、中学卒業と同時に卒業ということになっています。でも、教会そのものに卒業はありません。これからもぜひ、日曜日になったら教会に来るという良い習慣を続けてください。スマホのゲームで、毎日ログインしているとログインボーナスがもらえるみたいに、教会に来続けていると、かならず良いことがあります。その「良いこと」がどういうものかは、長年教会に来ている大人の人たちには分かるんじゃないかと思います。いや、子どもたちも分かっているかな?その答えはここでは言いません。それを探しに、これからも教会に来てくださいね。
 さて、もうひとり進級する人がいます。誰でしょう?……わたしです。わたしは今、日本聖書神学校で牧師になるための学びをしていますが、このたび、なんと!無事に2年生に進級できることになりました!パチパチパチ。勉強するのが大嫌いなわたしが、この1年学びを続けられたのも、教会の皆さんの応援と神さまのおかげです。ありがとう。その感謝を表しなさい、ということで、この年度末の日曜日に、神さまのみ言葉を取り次ぐ機会を仰せつかりました。

受難節レントに入って、四回目の日曜日を迎えました。礼拝堂正面の十字架に茨(いばら)の冠が取り付けられています。このわたしのために、神の子であるイエスさまが十字架にかかって下さった、茨の冠をかぶせられ、痛みにもだえ、嘲(あざけ)りに苦しんで、血と汗を流して下さった。その事をおぼえて、日々を過ごす季節です。今日は、マルコによる福音書14章のペトロさんの姿を通してそのことを改めて考えたいと思います。
イエスさまが捕まってしまう前の晩、いわゆる最後の晩餐(ばんさん)の席上で、ペトロさんは「たとえ御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マルコ14・31)と宣言をしました。そう力強く宣言した手前、まったく逃げてしまうことは出来ませんでした。しかし一方、その晩は熱く燃えてそう言ったものの、じっさい命の危機が迫ってしまうと、言葉どおりの行動は出来ず、イエスさまを見捨てて逃げてしまったのです。その相反する二つの心が、ペトロさんに、「遠く離れてイエスに従い」という、微妙な行動をとらせていました。わたしたちの現実の生活の中にも、このようなことはあると思います。イエスさまとペトロさんのように、命に関わるようなことは、まずないでしょう。しかし、こんなことはあるのではないでしょうか?クラスや部活の中で、いじめられている仲間がいる、弱い立場の仲間がいる、その時、その人をかわいそうだと思い、味方になってあげたいと思ってはいても、自分がその人と同じようにいじめの標的になってしまうことを恐れて、実際の行動には起こせない……それならありえるんじゃないでしょうか?想像してみてください。この時のペトロさんは、その気持ちに近いものを抱いていたのではないでしょうか。いや、もっとつらい、重い苦しい気持ちだったのでしょう。寒い夜だったようです。この出来事の起こったエルサレムは、高い山の上にあるので、夜はとても冷えたようです。イエスさまの裁判が行われようとしている大祭司の家の庭には、たくさんの人が集まっていました。冷えた身体を温めようと、たき火を起こし、皆でその火にあたっていました。信じて従ってきた大事な先生、イエスさまを裏切ってしまった、逃げてしまった…その重く苦しい気持ち、そして、そのイエスさまの弟子だってことが集まっている人々に知られたら、自分も捕まって処刑されてしまうかも知れない、という不安な気持ちにとらわれていたペトロさんの心は、夜の寒さのように冷え切っていました。明るく温かいたき火の火にあたりたくなるのも、当然でしょう。それに、集まっているたくさんの人の中に紛れ込んでしまえば、自分がイエスさまの弟子だってことがばれなくて済むんじゃないだろうか。そんな気持ちもあったかも知れません。
とにかく、この時のペトロさんの心は、平穏からは程遠い、乱れた、落ち込んだ心だったことでしょう。
 その時でした。大祭司の家の女中さんが、ペトロさんを見て、「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」と言うのです。女中さんというのは、今で言う家政婦さんかお手伝いさんの事ですが、当時はとても立場が低かったのです。ペトロさんにとっては、そんな人に指摘されたことは心外なことでした。まわりの人たちも、この女中さんの言葉など、信じないと思っていました。でも、たくさんの人に注目されてしまうのが嫌で、たき火を囲む人々の輪から離れ、出口の方に移動しました。たき火から離れる動き、それは同時に、イエスさまから遠ざかってしまう動きでもあったのです。女中さんは今度は、周りの人たちに向かって、「この人は、あの人たちの仲間です」と言い始めました。ペトロさんは、この言葉も打ち消しました。しかし、女中さんの言葉によって、ついに周りの人々がペトロさんに注目し始めました。「確かに、この人の服装はエルサレムでは見かけないなぁ、ガリラヤの田舎っぽい服装だよ」「しゃべり方も訛(なま)ってるし、やっぱりガリラヤの人なんじゃない」「イエスの仲間じゃないか」そう口々に言いわれ、ペトロさんは焦ります。このままでは、自分も捕まって、処刑されてしまうかもしれない、殺されてしまう!追い詰められたペトロさんは、自分はいま裁判を受けているイエスさまとは関係ない事を表すため、呪いの言葉さえ口にした、と聖書には書かれています。それは、イエス様自身を呪うような言葉だったのではないでしょうか。「あんな神さまの掟を守らない人と自分は関係ない」「あんなヤツ、処刑されて当然だ」そんな言葉さえ言ったかも知れません。最初は「遠く離れて」いたけれども「従って」いたペトロさんはこの時、本当に世の中の人々に紛れ込んでしまったのです。
その時、鶏(にわとり)が鳴きました。イエスさまが最後の晩餐の夜に「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」言われた事が思い出されました。ペトロさんはいてもたってもいられなくなり、いきなり泣き出した、と聖書には書かれています。自分の出来なさ、弱さ、ダメさ……そんな感情に押しつぶされるような気持ちだったのだと思います。
この同じ物語は、ルカによる福音書の22章にも描かれています。そこでは61節にこうあります。「主は振り向いてペトロを見つめられた」そのイエスさまの眼差しは、どのようなものだったのでしょうか?自分に従い尽くせないペトロさんを厳しく𠮟りつけるような目だったのでしょうか?そうではないと思います。ガリラヤ湖の漁師として生活し、それ以上でもそれ以下でもない、何者でもないただの人だった自分を、弟子として招いてくださった先生、神さまの事を伝えようとするイエスさまの言葉に、いつも見当はずれな事ばかりを返して、叱られてばかりいた自分、しかし、そんな自分に、いつも優しい眼差しを向けていてくださったイエスさま。きっと、この切羽詰まった状況の中でも、イエスさまの眼差しは、それらの時と同じように優しく愛に満ちたものだったと思います。そのイエスさまの眼差しを通して、ペトロさんは、神さまがどんな時でも自分に向けていて下さる愛の眼差しを知る事が出来たのではないでしょうか。人は、追い詰められてどうしようもなくなった切羽詰まった時にこそ、神さまに出会うのです。そして、そこから、その神さまの愛によって立ち上がらせられるのです。
ヨハネによる福音書21章15節〜19節に描かれている物語からも、それがわかります。ここで語られているのは、十字架で死んで、復活された後のイエスさまが、お弟子さんたちの前に現れる場面です。ここでイエスさまはペトロさんにこう3回尋ねます。「あなたはわたしを愛しているか」この3回というのがポイントです。ペトロさんは、イエスさまの事を3回、「そんな人は知らない」と言いました。今度は、イエスさまの方からペトロさんに、3回、「愛しているか」と訊いてくださったのです。それはイエスさまを裏切ってしまった後悔に苛(さいな)まれていたペトロさんの心を、どんなにか慰めた事でしょう。このペトロさんは後に、イエスさまの事を世界中の人に伝える伝道者となっていくのです。イエスさまは、神さまは、そのようにして神さまの事を信じ尽くすことの出来ない私たちを、慰め、導き、再び立ち上がらせて下さるのです。

最後に、もうひとつ、お話ししたい事があります。ペトロさんに向かって振り向いたイエスさまの眼差しには、このような思いも込められていたのではないかと想像します。自分はこれから処刑され、復活しても天の神さまの許に帰るので、この地上でもうあなたたちと一諸にはいられない、後の事は頼んだよ、と。今のわたしは、このイエスさまの気持ちがちょっぴりだけ分かるような気がします。わたしはこれから、実習のために、東京の池袋西教会に行き、この坂戸いずみ教会には、もういられません。愛する皆さん、この坂戸いずみ教会の後の事は、頼んだよ、という思いです。どうか皆さん、坂戸いずみ教会の事を、お願いします。