2017年4月9日 受難節第6主日・礼拝説教
  聖 書  マタイによる福音書27章32〜44節
  説教者  山岡 創牧師

27:32 兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。
27:33 そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、
27:34 苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。
27:35 彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、
27:36 そこに座って見張りをしていた。
27:37 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。
27:38 折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。
27:39 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、
27:40 言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
27:41 同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。
27:42 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。
27:43 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」
27:44 一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。

「 自分を後回しにする 」
 受難節レントの期間を歩んで来ましたが、今日から〈受難週〉と呼ばれる最後の1週間に入ります。本日、受難週の日曜日は〈棕櫚(しゅろ)の主日〉と呼ばれます。主イエスが、ユダヤ人の伝統である過越しの祭りを祝うためにエルサレムに上京し、ろばの子に乗って街に入られた日です。その時、人々は棕櫚(=なつめやし)の葉を手に手に持って、万歳(ホサナ)と叫びながら迎えたことから、この日は〈棕櫚の主日〉と呼ばれます。ちなみに、棕櫚の葉を振って、万歳と叫びながら人を迎えるのは、敵を打ち破り、凱旋(がいせん)する王を迎える作法でした。
 その人々の歓呼(かんこ)の中を、威風堂々(いふうどうどう)と馬に乗ってではなく、ろばの子に乗って、主イエスは街に入って来られたのです。想像してみてください。何ともアンバランスな、珍妙な光景ではないでしょうか?そこには、先週もお話したように、主イエスに対する誤った期待があります。自分たちを苦しめるローマ帝国の軍隊を打ち破り、王国を復興する英雄を待ち望む期待です。けれども、主イエスは、弟子たちに語られたように、「皆に仕える者」(マタイ20章26節)として来られたのです。「仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(同28節)のです。皆に仕える者として、“隣人ファースト”の道を貫くために来たのです。隣人ファーストという生き方の究極、それが十字架刑だと言ってよいでしょう。

 この日から5日目の金曜日に、主イエスは十字架に架けられて殺されます。万歳!という歓呼の声は、「十字架につけろ」(マタイ27章22節)という叫びに変わり、十字架に架けられた主イエスは、人々に侮辱され、ののしられながら死んでいくのです。
「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(40節)。
「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやろう。神に頼っているが、神の御心(みこころ)ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」(42〜43節)。
 ちなみに、主イエスがご自分のことを「神の子だ」と自称したことは一度もありません。ご自分を英雄と考えたこともありません。主イエスは、静かな心で、謙遜に、「神の御心」を見つめていました。「神の子」というのは、主イエスをねたみ、敵視する祭司長、律法学者、長老たちが、裁判の席で、主イエスを冒瀆罪(ぼうとくざい)で有罪とするためにでっち上げたことです。
 けれども、今、私は主イエスを「神の子」と信じます。今日の御言葉を黙想しながら思い巡らします。「神の子」とは何だろう?どんな方を「神の子」と言うのだろうか?この問いかけは、“神さま”とはどんな方なのか、ということとつながっています。
 祭司長、律法学者、長老をはじめとするユダヤ人にとっては、「神の子」とは、十字架から降りて、自分を救う人物のことのようです。自分を救えない、十字架から降りられない、その力のない人物など、神の子ではないと言うのです。
 つまり人々は、救い主メシアと呼ばれる「神の子」に、ある種の“力”を期待しているのです。ローマの軍隊を打ち破るような力を、十字架から降りられるような力を期待しているのです。その力を見せられない者は、神の子とは認めない。目に見える力とその結果を神の子に求める、神に求めるのが彼らの信仰です。
 では、もしも主イエスが本当に十字架から降りて来たら、彼らは、「信じてやろう」と言っているように、主イエスにひれ伏し、信じるでしょうか?そうは思えません。彼らは、主イエスを恐れて、逃げ散るでしょう。要するに、彼らの信仰は自分本位なのです。自分にとって都合が良ければ信じる。しかし、都合が悪ければ信じない、という信仰なのです。けれども、他人事ではなく、私たちの中にもどこかに、自分にとって都合の良い神を求める心があるかも知れません。神の御心を思わず、従わずに、自分の都合や願いを優先する心があるかも知れません。

 ところで、主イエスには、その“力”がないのでしょうか?十字架から降りる力がないのでしょうか?私は、あると思うのです。あると信じているのです。主イエスは、夜中にオリーブ山で祈っていて、敵対者たちに捕らえられた時、抵抗する弟子たちに、「剣をさやに納めなさい。剣(つるぎ)を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」(マタイ26章52〜54節)とお語りになりました。敵を打ち破る力を持っているのです。その気になれば、十字架から降りる力を持っているのです。
 けれども、敢えてその力を使わない。自分本位には使わない。それは、「聖書の言葉」を考えておられるからです。聖書の言葉によって示される「神の御心」に従おうとしているからです。
 主イエスが従おうとしている「神の御心」とは何でしょうか?今日の聖書の言葉を借りて言えば、他人を救うことです。自分を救わずに、他人を救うことです。自分を救うことを後回しにしても、他人を救うことを優先する。それが、父なる神さまが主イエスに求められた“神の優先順位”です。自分よりも他人を救う。それは、先週の説教の言葉で言えば、“隣人ファースト”、皆に仕える者になる、自分の命を身代金として献げる生き方です。一言で言えば“愛”です。そして、愛の究極は、自分の命を捨てる十字架です。自分よりも他人を救う神の御心を象徴するシンボル、それが十字架です。

 自分を後回しにして、他人を優先し、他人を救う。私はふと、『ごろはち大明神』という絵本を思い起こしました。ある村に“ごろはち”という、いたずら好きなタヌキがいました。村人をからかっていたずらをする。お寺の本堂でお坊さんがお経を挙げ、クワーンと木魚を叩くと、床下でごろはちもクワーンとやる。結婚式から酔って帰る人のお土産をくすねて行く。でも、時々いたずらをした人の家の前に、あけびややまぶどう等の木の実を置いて行く。そんな、憎めない、いたずらタヌキでした。
 ところで、村に線路が作られ、汽車が走ることになりました。そして、初めて汽車がやって来る日、人々は駅の近くに集まって来ました。しばらくすると、向こうからモクモクと煙をふいて汽車がやって来ます。汽車を見たことがない村人たちは、これはごろはちのいたずらで、自分たちをだまそうとしているのだと思い、ドヤドヤと線路上に出て来ます。駅長さんが“危ない!”と叫んでも、みんな聞こうとしません。“いたずらやない。本物だ!”とハラハラしながら見ていたごろはちは、遂に意を決して、線路上に飛び上り、汽車の前に立ちふさがります。そのお陰で汽車はブレーキをかけて止まり、村人たちは助かりますが、ごろはちは犠牲となって死んでしまいました。村人は、自分たちを救ったごろはちを、大明神さまとして祭った、というお話です。
 自分を犠牲にし、自分のことは後回しにして、他人を救ったと言えるのではないでしょうか。その内容が、イエス様っぽいなぁ、と感じるのです。
 主イエスが、侮辱され、ののしられ、十字架に架けられて殺される。主イエスの宣教活動の挫折であり、悲劇のように見えます。しかし、この出来事の裏には、自分のことを後回しにしても他人を救う神の愛が秘められています。そのことに、弟子たちは復活した主イエスと出会って気づき、神の愛を宣べ伝えるのです。そして、このような神の愛に包まれて生きている、生かされていることを信じる信仰が、私たちの人生に、喜びと感謝と愛の土台を培っていきます。愛を還元(かんげん)する生き方を培(やしな)います。

 愛を還元する。マザー・テレサは、『日々のことば』の中で、こう語っています。
 わたしは母のことを決して忘れません。彼女は一日中、たいへん忙しくしているのが常でした。でも、いつも夕方になると、大急ぎで父を迎える支度をするのです。あのころは、子供たちにはわかりませんでした。ですから、わたしたちは母をからかって、笑ったりしたものでした。けれど今思えば、母の父に対する愛は、なんとすばらしく、こまやかな愛だったことでしょう。何が起ころうと、母はほほえみながら、父を迎える準備をしていたのです。‥‥(上掲書120頁)
 自分のことを後回しにして、笑顔で、夫を迎える準備をする母親の愛を見て育ったからこそ、マザー・テレサは、インドで、自分を後回しにして他人を愛し、助けるシスターとなったのでしょうか。
 愛は、自分本位からは生まれません。自分を後回しにし、他人を救おうとする心から生まれます。そんな愛を、私たちは主イエスを通して、神さまから注がれています。目に見える力と結果は、すぐには起こらないかも知れませんが、本物の愛をいっぱい注がれています。いただいた愛を、人に還元しましょう。愛の実を結び、愛の花を咲かせましょう。毎日の生活の中で、神の愛を信じ、隣人を愛する心がけで歩みましょう。