2017年4月23日 礼拝説教
  聖 書  ヨハネによる福音書20章19〜29節
  説教者  山岡 創牧師

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
◆イエスとトマス
20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

「 ただ一人のために 」
今日の聖書の御(み)言葉が朗読されるのを聞いて、ほとんどの方が気づいたと思います。〈派遣と祝福〉で最初に宣言されるのと同じ言葉がここにある、と。そうです。私は、派遣の最初の宣言を、21節の主イエスの言葉で語っています。
「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣(つか)わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(21節)。
 実際には、少し色を加えています。あなたがたに“愛”と平和があるように、と。でも、主イエスの言葉をなぞっているつもりです。
 派遣と祝福において“父がわたしをお遣わしになったように、わたしも‥”と宣言する時、皆さんは、“わたし”をだれだと思って聞いていますか?“山岡創”だと思って、聞いていませんか?そうではないのです。私(山岡創)は、復活した主イエスの“口”に過ぎません。主イエスがここにおられ、私の口を通して語り、私たち一人ひとりに、愛と平和を持たせて遣わしてくださる。一人ひとりの家庭へ、職場へ、学校へ、生活の場所へ遣わしてくださる。その恵みを信じ、感じてほしい。復活した主イエスは、弟子たちを遣わしたように、現代において、私たちをも遣わしておられるのです。

 「あなたがたに平和があるように」。復活した主イエスは、1度ではなく、2度繰り返して言われました。それほどに、弟子たちの内には「平和」がなかったからでしょう。
 平和がない、と言っても、弟子たちが互いにいがみ合っていた、ということではありません。19節に、「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」と書かれています。弟子たちはユダヤ人を恐れていました。主イエスを十字架につけて処刑した祭司長、律法学者、長老たちを恐れていました。それは、主イエスに関わりある者として、自分たちも罰され、処刑されることを恐れていたのです。そういう意味で、彼らの心の内には平和がなかったのです。
 そのような弟子たちのもとに、復活した主イエスは来てくださいました。「週の初めの日」(19節)というのは、日曜日のことです。ヨハネは、教会の信徒たちを意識しながら、日曜日に、礼拝において、キリストの復活は再現されることを語りかけています。
 おいでになった主イエスは、恐れる弟子たちに、「あなたがたに平和があるように」と言われました。恐れと不安がある。でも、その真ん中にわたしが立っている。恐れと不安の真ん中に、神が立ち、共にいてくださる。そういう“心の平和”を祈り、宣言してくださったのです。
 それだけではありません。弟子たちには、もう一つの恐れがあったと思います。それは、復活した主イエスに対する“恐れ”です。彼らは、マグダラのマリアから、主イエスが復活したことを告げられました。半信半疑だったでしょう。けれども、もし本当に復活したとしたら‥‥‥弟子たちは喜びよりも恐れを感じたに違いありません。なぜなら、主イエスを裏切り、見捨てて逃げたからです。主イエスが捕らえられ、裁かれ、十字架につけられた時、彼らは主イエスを見捨てました。だから、主イエスが復活して自分たちのところに来たら、報復として、どんな呪いを受けるか、どんな罰を与えられるか、それを恐れたはずです。
 ところが、主イエスは、呪いもせず、罰を与えもしませんでした。かえって「平和」を祈ってくださいました。それは、主イエスが弟子たちを赦(ゆる)しておられる、ということにほかなりません。裏切り、見捨てたにもかかわらず、主イエスは変わることなく弟子たちを愛していてくださったのです。いや、裏切り、見捨てることを予想して、主イエスは、ゲッセマネの園で、十字架の上で、弟子たちが立ち直れるように祈っていてくださいました。「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22章32節)と、最後の晩餐の席上で、ペトロに言われた通り、祈っていてくださったのです。
 私たちの失敗や挫折(ざせつ)は、神さまにとって、私たちを見放す何の材料にも、何の理由にもなりはしません。神さまは、私たちがどうであろうと、変わることなく私たちを愛してくださっている。放蕩息子(ほうとうむすこ)を抱きしめて迎えた父親のように、私たちを、ご自分の愛する子として遇(ぐう)してくださっている。その恵みに、私たちの平和の根源があります。

 復活した主イエスは、弟子たちを赦されました。弟子たちを変わらずに愛されました。彼らを、恐れから平和へと復活させました。その恵みを示して、主イエスは弟子たちを、この世へと、生活の場所へと遣わします。平和を生み出すために、愛と赦しを持たせて遣わすのです。
「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪を赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(23節)。
 弟子たちに、そして私たちに対して、非常に大きな権限をお与えになったのです。ただし、これは、赦しても赦さなくても、どちらでもいいよ、ということではありません。赦しなさい、と言っておられるのです。わたしがあなたがたを赦したように、あなたがたも赦しなさい。互いに赦し合いなさい(コロサイ3章13節)と語りかけておられるのです。とてもじゃないが、できない、と思うでしょう。確かに人の力ではできない。主イエスもご存知です。だからこそ、聖霊(せいれい)の助けを祈り求めるのです。神の愛の模範と聖霊の助けによって、私たちは愛と赦しの生活を、葛藤(かっとう)し、失敗しながらも営(いとな)むのです。

 この愛と赦しを、再び主イエスが弟子たちにお示しになる場面が訪れます。トマスとの関係です。トマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ‥‥‥わたしは決して信じない」(25節)と、とんでもない暴言を吐きます。他の弟子たちに比べて、トマスが特別疑り深かったからだとは思えません。自分一人、その場に居合わせず、「わたしたちは主を見た」(25節)と喜ぶ他の弟子たちからは取り残され、疎外(そがい)されたような寂しさを感じて、依怙地(いこじ)になったのだと思います。どうしてわたしがいない時に‥‥と、主イエスを恨んだかも知れません。
 そんなトマスのもとに、「八日の後」(26節)、つまり次の日曜日に、主イエスは来てくださいました。「平和」を告げられ、そしてトマスに向かって、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。‥‥‥信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(27節)と語りかけてくださったのです。
 昨年の夏に行われた埼玉地区中学KKS青年キャンプのことは、先週もお話しました。十字架と復活のシーンを3つのグループで劇にして演じました。青年グループが主イエスの復活の場面を演じました。私たちの教会では、Oさんが復活した主イエスを演じ、Yくんが腰をさすりながら墓へと走るペトロを演じ、そして今日、礼拝司式をしているIくんがトマスを演じました。主イエスから、「信じる者になりなさい」と諭(さと)され、迫られた時、Iくんはどんなことを感じたのでしょうか?
 私の中に、記憶に焼き付いている一つの話があります。それは、ある教会のイースターで、主イエスの復活劇が演じられたという話です。それは喜劇でした。喜劇ですから、笑いを取る部分があるわけです。主イエスとトマスのシーンでも、主イエスが“この手の釘の跡に、あなたの指を入れてみなさい”と言うと、トマスは“はい、分かりました”と言って、あっさりと指を入れてしまうというシナリオが用意されていました。ところが、いざ本番になって、主イエスから“あなたの指を‥”と言われた時、トマス役を演じた人は躊躇(ちゅうちょ)して、すぐに指を入れられませんでした。イエス様役の人は“どうしたんだ?早く入れろ”と焦ったそうですが、トマス役の人は、最後までどうしても入れられなかったそうです。その人は求道者でした。そして、この劇の後で、この人は主イエスを信じて、洗礼を受けたそうです。きっと、劇を通して、圧倒的に自分に迫って来る主イエスの愛と赦しを感じたからに違いありません。
「わたしの主、わたしの神よ」(28節)。依怙地になり、暴言を吐き、主イエスを恨んだトマスは、そんな自分の気持と言い分を受け止めてくださった主イエスの愛と赦しに、“神”を感じたのです。自分一人のために、主はもう一度来て、語りかけてくださった!その思いが、「わたしの主、わたしの神よ」という信仰告白となってほとばしりました。
私は今回、この聖書箇所を黙想しながら、このように感じたのはトマス一人だけではなかったろうなぁ、と思いました。描かれているのは、トマスと主イエスのシーンだけですが、きっと他の弟子たちも一人ひとり、復活した主イエスの愛に“神”を感じるやり取りがあったに違いありません。
復活した主イエスは、私たち一人ひとりのもとにも来てくださいます。一人ひとり、生活の場があり、人間関係があり、重荷を負い、苦しみを抱え、疲れている“私”のもとに、御言葉を通して、聖霊となって来てくださいます。私たちを受け止め、愛してくださいます。その愛は、形として、結果として目に見えるものではないかも知れない。けれども、私たちも「見ないのに信じる人」(29節)にならせていただきたいのです。