2017年5月14日 礼拝説教
  聖 書  ルカによる福音書24章13〜35節
  説教者  山岡 創牧師

24:13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、
24:14 この一切の出来事について話し合っていた。
24:15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。
24:16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
24:17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。
24:18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」
24:19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。
24:20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。
24:21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。
24:22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、
24:23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。
24:24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
24:25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
24:28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。
24:29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。
24:30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。
24:31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
24:32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
24:33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、
24:34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。
24:35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した.


「 心が燃える体験 」
 日曜日、二人の弟子が歩いていました。エルサレムからエマオに向かって、60スタディオンというのは、11キロちょっとの距離です。ここからちょうど川越市の市街地までの距離感です。3時間もあれば歩ける距離でしょう。二人はその村で宿を取ったようですから、そこは二人の郷里ではなかったようです。エマオを経て、更にその先にある故郷に帰ろうとしていたのでしょう。
 なぜ二人は、自分の故郷、自分の家に帰ろうとしていたのでしょうか。主イエスが殺されたからです。二日前の金曜日に、祭司長や議員たち(20節)の手にかかって、主イエスが十字架に架けられ、殺されてしまったからです。二人は「あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけて」(21節)いました。ローマ帝国に支配された当時のイスラエルを、その支配から解放し、独立国家を復興してくれる「力のある預言者」(19節)と信じて従って来ました。ところが、祭司長や議員たちイスラエルの指導者たちの手によって、主イエスは殺されてしまったのです。主イエスにかけていた彼らの夢と希望は潰(つい)えました。主イエスの死によって、彼らの人生は挫折しました。だから、彼らは「暗い顔をして」(17節)いたのです。
 希望を失い、挫折した二人は、もはやエルサレムにいても仕方がないと、エマオに向かって出発しました。そして、「歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた」(14節)と言います。主イエスが祭司長や議員たちによって十字架につけられ、死刑にされたこと。それから三日目の今日、婦人たちが主イエスの墓へ行くと、そこはもぬけの空だったこと。天使たちがいて、「イエスは生きておられる」(22節)と告げたこと。これら一切の出来事を、二人で話し合い論じ合いながら歩いていたのです。
 けれども、どんなに話し合い、論じ合っても、希望と勇気につながるような見方は生まれなかったに違いありません。十字架は、主イエスの敗北と挫折。墓は空っぽだったって、いったいだれが、何のために運び出したのか?天使がいたって言うけれど、空っぽの墓に動揺して幻でも見たのではないか?イエスは生きておられるなんて、とても信じられない‥‥‥そんな答えしか出て来なかったのではないでしょうか。そして、彼らの答えは、ともすれば私たちの答え、私たちの見方でもあるのではないでしょうか。

 そこへ、見知らぬ人が近づいて来ました。そして、一緒に歩き始めた、と言います。二人も、旅は道連れ、その人が同行することを許しました。二人は相変わらず、二日前の一切の出来事を論じ合っていました。その会話に耳を傾けていた見知らぬ同行者が、「その話は何のことですか」(17節)と尋ねて来ました。二人は暗い顔で、この一切の出来事を話して聞かせました。
 すると、その見知らぬ同行者は、人が変わったかのように二人に言いました。
「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」(25節)。
 こう言って、その人は「聖書全体にわたり、ご自分(メシア)について書かれていることを説明された」(27節)と言います。栄光を語り始めたのです。希望を語り始めたのです。
 同じ一切の出来事を見て、知っていても、一方は暗い顔で、絶望しか語ることができないのに、もう一方は、栄光を見出し、希望を語ることができる。この違いは、いったい何の違いでしょうか?
 それは、“見方”の違いです。見方が違うと、同じ出来事でも違って見える。そして、大切なことを見落とす場合もあります。
例えば、自動車を運転していて冷やっとすることがあります。特に、大きな道路の前で一時停止して、右折して出ていく時です。右からも左からも車は来ていないと思って出ていくと、急に、左から車やバイクが来ていることがあります。どうして見えなかったのか?それは、フロントガラスの左端の車体のフレームで、左から来る車やバイクが遮(さえぎ)られて見えないことがあるのです。私も冷やっとした経験が何度かあるので、必ず首を動かして、左フレームの陰を確認するようにしています。
二人の弟子も、その目が何かにさえぎられて、見知らぬ人が復活した主イエスだとは気付きませんでした。彼らの目を遮ったものは、彼らの“常識”という名のフレーム、見えないものは信じないという人生観だったのかも知れません。
 二人には、復活した主イエスが見えていませんでした。この三日間の一切の出来事の意味が見えていませんでした。それは、二人が、聖書全体から一切の出来事を見ていなかったからです。聖書全体から、主イエスを見ていなかったからです。聖書という視点で、神のご計画という文脈で、自分の人生を見ていなかったからです。
 聖書全体、当時は旧約聖書ですが、その聖書の視点で見れば、主イエスの死は、敗北と挫折ではなく、多くの人の、いや全世界の人々の罪を背負い、その罪を贖(あがな)う犠牲の死でした。人々を救うための死でした。そして、その死と苦しみを経て、救い主(ぬし)メシアは復活し、栄光を受け、人々に復活の希望を与えることが、聖書の内に示されていることを、主イエスは二人の弟子に熱くお語りになったのです。
 聖書の見方で、イエスという方を見る。そして、主イエスの語る言葉で、自分の人生を見る。見直して、捉(とら)え直す。それが、信仰というものです。
 ところで、今年度の坂戸ずみ教会の課題は信仰教育です。〈信徒の信仰成長のために〉というテーマを掲げて、聖書のディボーション(聖書黙想)に取り組もうとしています。これは、聖書をじっくり読んで、主イエス(神)が自分に何を語りかけ、求めておられるのかをよく考え、受け止める作業です。それはつまり、聖書の視点で自分を見直し、神のご計画という文脈で自分の人生を捉え直す作業です。常識では見えない恵みを、目に見えるものしか信じない人生観では捉えることのできない希望を受け取る作業です。そして、受け取った恵みと希望をお互いに語り合い、お互いの信仰を高め合おうというのが分かち合いの目的です。先週7日の礼拝後、第1回目を行いました。原則、毎月1回、礼拝後に行う予定です。皆さん、ぜひご参加ください。つまり、これは私たちが“クレオパともう一人の弟子”のようになる作業です。常識で考えて、暗い顔をして生きていた私たちが、聖書によって感動に心を燃やされ、恵みと希望を人生に見出す作業です。

 私の小さな物語を証しさせてください。私は、高校を卒業するまで、ある意味、順調に、挫折もなく生きて来ました。けれども、高校を卒業して、自分が何を目標にして、どのように生きればよいのか分からなくなりました。目的の定まらないまま大学を受験し、その結果、二浪することになりました。受験勉強に手がつきませんでした。甘えていると言えばそうかも知れませんが、勉強することに意味を見いだすことができませんでした。そのうち、自分のことを、何もできない役立たずの“穀潰(ごくつぶ)し”、ダメ人間と思うようになりました。生きている意味のない、価値のない人間だと思うようになりました。神さまはこんな自分のことを認めてはくださらない。死んだ方がいいのでは、とさえ考えるようになりました。きっと暗い顔をしていたに違いありません。
 そんな苦しみ悩みの中で、ある日、“おまえは生きていていい。生きている価値がある”という主イエスの言葉が、私の心の中に、雷に打たれたかのように響いて来ました。それは、“行い”という、目に見える価値観で自分を見る見方から解放された瞬間でした。父なる神さまから無条件で、無償で愛されている、という主イエスの言葉を通して、 “存在”そのものに意味があるという聖書の見方で、自分を捉え直すことのできた瞬間でした。自分の生活そのものは決して変わってはいない。けれども、私の人生は変わってしまいました。人は、神さまから命を与えられ、生かされて、今ここにあることが尊いのです。その真理を受け取った時、ずっしりと肩に重荷を負っている感じだったのに、“生きてていいんだ。生きるって、こんなに軽やかなことだったのだ”と感動と喜びに心が満たされる体験、心が燃える体験を味わいました。聖書の言葉と神の愛によって、感動に心が燃やされる体験でした。その体験が、今、私の信仰の土台になっています。

 聖書の言葉によって、主イエスの見方が変わり、救い主と信じられるようになる体験、その主イエスとリンクする自分の人生が、恵みと希望にあふれていることを信じて悟る体験、二人の弟子は、そういう心が燃える信仰体験を味わったのです。それはまさに、彼らの人生の“復活体験”でした。
 クレオパという弟子の名前は初めて聞いた、という人もいるでしょう。実は、この箇所にしか出て来ません。シモン・ペトロたちのような、代表的な12弟子ではありません。けれども、クレオパやもう一人の名もない弟子であっても、主イエスの言葉によって復活の喜びを味わうことができたのです。「本当に主はシモン(ペトロ)に現れた」(34節)と書かれていますが、ペトロにはペトロ自身の復活体験があったように、クレオパともう一人の弟子には、彼ら自身の恵みと希望の体験があったのです。聖書に心を燃やされ、主イエスが生きておられることが見える体験があったのです。
そして、私たちも一人ひとり、主イエスの言葉によって、心が熱くなる体験をすることができるでしょう。御(み)言葉を聞き続け、蓄え続けていくとき、心の内に聖霊が働き、自分の人生のうちに恵みと希望を見出し、心が燃えるような体験をすることが、きっとできます。