2017年5月28日 礼拝説教
  聖 書 使徒言行録1章12〜14/21〜26節
  説教者  山岡 創牧師

1:12 使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。
1:13 彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。
1:14 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。

1:21‐22 そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」
1:23 そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、
1:24 次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。
1:25 ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」
1:26 二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。


「 選ばれる 」
「オリーブ畑」(12節)と呼ばれる山が、エルサレムの近くにありました。きっとオリーブの木がいっぱい茂っていたのでしょう。この山は、イエス様が夜中に、よく祈っていた場所でした。十字架につけられる前の晩にも祈っていた場所でした。その晩、イエス様は、イエス様を妬(ねた)み、反対する人々につかまるのですが、その時、弟子たちはイエス様を見捨てて、散りじりに逃げました。弟子たちにとっては、そういう苦い思い出のある場所でした。そして、十字架で死んで、復活したイエス様は、弟子たちと再会した後、使徒言行録(しとげんこうろく)1章11節までに書かれているように、この山で弟子たちと別れ、天に上って行かれました。
 ですから、オリーブ畑は、弟子たちにとって“裏切りの山”でした。けれども、イエス様は、この山を敢(あ)えて、いや、裏切りの山だったからこそ、弟子たちの“再出発の場所”にお選びになったのではないでしょうか?
 弟子たちは、できれば行きたくはなかったでしょう。この山に登れば、自分たちがあの夜、イエス様を見捨てて逃げたことを思い出してしまう。自分たちの裏切りを思い出してしまう。失敗を思い出してしまう。だから、弟子たちにとって、行きたくない嫌な場所、嫌な思い出だったに違いありません。
 けれども、そこから逃げたら、前に進めない。そういう場所があります。そういう思い出があります。嫌だけど、つらいけど、向かい合わなければならない場所、思い出が私たちにもあります。それは思い出すためです。忘れないためです。自分の失敗を、自分に足りなかったものを、自分に愛が欠けていたことを忘れないためです。そういう意味で、自分が“罪人”だったことを忘れないためです。そうすることが、私たちを、“自分は強い人間だ”“自分は正しい人間だ”と思い込む思い上がりと自己正当化から守ってくれます。そして、“それでも自分は、イエス様に赦(ゆる)されて、愛されている人間なんだ”という感謝を思い出させてくれます。思い上がらず、謙遜であるべき自分を思い出させてくれます。そこから弟子たちは、そして私たちも、人間として、常に再出発するのです。だからこそ、イエス様はオリーブ畑という山を、別れの場所に、そして弟子たちの再出発の場所にお選びになったのでしょう。

 天に上って行かれたイエス様とお別れした弟子たちは、苦い思い出と、しかし赦され愛されている喜びを胸に、エルサレムに戻って来ました。気づいた人もいると思いますが、使徒言行録では、弟子たちはもはや“弟子”とは呼ばれていません。「使徒」と呼ばれています。イエス様の“お使い”です。弟子たちは、復活したイエス様にお会いして、イエス様の復活を宣(の)べ伝える「証人」(8節)として遣わされた時、「使徒」と呼ばれるようになったのです。
 けれども、大切な使徒の使命を授かった者が、臭い物には蓋(ふた)をして、自分の裏切り、自分の失敗、自分の足りなかったもの、つまり自分の罪に目をつぶってごまかして、復活の良いところばかりを表面的に伝えようとするのでは、何の意味もありません。自分は罪人だった。強くもなく、正しくもない人間だった。失敗した。挫折(ざせつ)した。でも、そんな自分がイエス様に赦され、神さまに愛されている恵みを知って、立ち直ることができた。再出発することができた。その喜びを伝える者こそが「使徒」なのです。
 使徒たちは、オリーブ畑からエルサレムに戻って来ると、祈り始めました。「婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」(14節)と書かれています。イエス様は、約束された聖霊(せいれい)を待て、と言われました。「‥聖霊が降ると、あなたがたは力を受け‥‥‥地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(8節)と言われました。だから、使徒たちは、“イエス様、聖霊をお与えください”と熱心に祈ったことでしょう。使徒に任命されたとは言え、自分たちにはその力がない。愛もない。だから、聖霊によって力と愛を授けてください、イエス様の復活を宣べ伝えていくための力と愛をお与えください、と祈り続けたことでしょう。
 そして、それと共に、これから自分たちがどうすればいいか、イエス様、お示しください、と祈っていたに違いありません。その祈りの中で、なすべきことが示されます。

 ところで、13節に、使徒のリストがあります。イエス様がかつて12名の弟子をお選びになった(ルカ6章12節〜)のと同じ名前が載っています。かつて選ばれた12弟子が、復活したイエス様によって、12使徒として改めて遣わされたのです。
 けれども、13節にある使徒たちの人数を数えてみてください。‥‥‥11人しかいませんね。そうです。それは、イスカリオテのユダが欠けているからです。
 聖書のこと、キリスト教のことを知らない人でも、イスカリオテのユダという名前は知っているかも知れません。イエス様を裏切り、売り渡した人です。イエス様を妬み、反対している人々のところへ行って、ユダは、銀貨30枚でイエス様を売り、つかまえられるように手引きする約束をしました。そして、ユダに手引きされてやって来た人々に、イエス様はオリーブ畑でつかまるのですが、後になってユダは後悔します。そして、自分の犯した罪の重さに耐え切れず、ユダは首をつって死んだと、マタイによる福音書27章に書かれています。使徒言行録1章15節以下では、ユダは、自分が銀貨30枚で買った土地に、真っ逆さまに落ちて死んだ、となっています。いずれにせよ、ユダは自分のしたことを強く後悔して、自分の命を絶ったようです。
 人生に“たら、れば”はありませんけれど、私は、ユダが生きていて、そして、自分を赦し、愛するイエス様の愛を知ったら、きっとだれよりも、イエス様の復活と愛を伝える使徒になったのではないか、と思います。“ユダによる福音書”なんていう書も書き残されたかも知れません。
 ともかく、イスカリオテのユダが死んで、12使徒が一人欠けました。そういう中で、使徒たちは熱心に祈りながら、ユダの代わりとなる使徒を選ぶことを、イエス様から示されたのではないでしょうか。
 そこで、使徒をはじめとする120人ほどの人々は、ヨセフとマティアの二人を候補者として立てます。そして、最後はくじ引きで、欠けていた使徒を選びます。当時、ユダヤ人の間では、くじ引きは、神さまがどちらを(何を)選んだかを示す伝統的な方法でした。
 私たちの教会でも、1年に1度、役員を選びます。どうするのがより良い方法か、あれこれ考えます。そういう中で、最後はくじ引きというのも、聖書的で、いいかも知れないと思ったりします。考えて絞って、でも最後は人の意志が入らない、という意味で、くじ引きは神さまの選びが示されるような気がするからです。
 さて、12使徒にはマティアが選ばれました。失敗もし、足りないところもあるけれど、イエス様に赦され、愛されている喜びを伝える者として選ばれました。大切な役割です。
 けれども、選ばれなかったけれど、ヨセフにも同じ、イエス様に赦され、愛されている喜びがあります。ならば、たとえ使徒でなくとも、イエス様を伝えることができます。
 使徒を選ぶとは、現代の教会においては、役員を選ぶことと似ているかも知れません。礼拝(れいはい)を守り、伝道する教会を造っていく上で、中心的な役割を担う重要なポジションであることは間違いありません。皆さん、役員の方たちのためにお祈りください。
 けれども、選ばれた役員の後ろには、信仰を同じくする、喜びを同じくする皆さん一人ひとりがいます。皆、イエス様に愛されるべく選ばれた人です。一人ひとりが、愛されている喜びを伝えていくべく選ばれたのです。そのことを覚えていてください。
 かつて私たちの教会の一員で、天に召されたI.Mさんが、しばしば“デモクリ”と言われました。“おまえ、それでもクリスチャンか?!”と人に思われることがある。その時、“わたしは、これでもクリスチャンです”と思い出す。威張って言うことではありません。謙遜な心で“デモクリ”だということに感謝するのです。失敗する。足りないところもある。そのために夜も眠れないこともある。それでも、こんな自分がイエス様に赦され、愛されている。神さまに生かされている。その喜びを、少しでも感じるなら、私たちはクリスチャンです。デモクリです。
 失敗人間。罪人。でも、神さまはそういう者をお選びになります。愛によって再生させます。復活させます。教会は、そんな人たち、そんな私たちの集まりです。だからこそ、赦しと愛がある、あたたかい交わりになり得るのです。