2017年6月18日 礼拝説教
  聖 書 ヨハネによる福音書1章29〜34節
  説教者  山岡 創牧師

1:29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
1:30 『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。
1:31 わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」
1:32 そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。
1:33 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。
1:34 わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」


「 わたしは見た 」
 「荒れ野で叫ぶ声」(23節)。洗礼者ヨハネは、そのような“声”でありたかったのだ、と先週の礼拝説教でお話しました。神殿の祭司たちは、神殿を利用して自分たちの利益や権益を貪り、私腹を肥やしている。ファリサイ派の人々と律法学者は、律法を守ることに熱心なあまり、守れない人を裁き、神の救いから切り捨てている。病気や障がいを負った人々、また遊女など、社会で弱い立場にいる人々は置き去りにされている。そんな荒れ野のような社会に、怒りを感じ、痛みを感じ、悲しみを感じて、ヨハネは、「主の道をまっすぐにせよ」(23節)と叫ぶ声でありたかった。社会に、主なる神の正義と憐れみ(愛)を実現しよう、と叫ぶ声でありたかったのです。

 ところで、“声”にはもう一つの役割があります。それは、自分の「後から来られる方」(27節)がいる、この方こそ社会に正義と愛を実現する方である、人の心を救う方であると証言し、伝えることです。ヨハネは証ししました。「わたしの後から一人の方が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである」(30節)と。
自分より後から来るのに、自分より先におられた、というのは矛盾した言葉だと思うかも知れません。けれども、ヨハネは、世界が創造されるよりも前から、神と共にある神の言(ことば・ロゴス)が、人間と化してこの世界に来られる、と言っているのです。クリスマスに、と思って、まだ1章の前半はお話していませんが、神の言が人となって、この世に来る。言い換えれば、神の「恵みと真理」(1章17節)が、神の“愛”が人となって、この世に来られる。だから、人としては自分よりも後から来るけれど、神の言、神の愛と真理としては、自分よりも先におられた、と言っているのです。
 けれども、「わたしはこの方を知らなかった」(31節)とヨハネは語っています。最初から、それがだれなのか、知らなかったのです。イエスだとは知らなかったのです。
 では、いつ、どうして、イエスが「この方」だと分かったのでしょうか?イエスが、「聖霊(せいれい)によって洗礼を授(さず)ける方」(33節)だと分かったのでしょうか?それは、ヨハネが、「“霊”が鳩のように降って、この方の上にとどまるのを見た」(32節)からです。
 “霊”が鳩のように降ってとどまる。どこかで聞いたことのある話だなぁ、と思われた方もおられるでしょう。そうです。ヨハネ以外の、マタイ、マルコ、ルカ、3つの福音書(ふくいんしょ)には、主イエスがヨハネから洗礼をお受けになった時、聖霊が鳩のように降って主イエスにとどまったことが記されています。洗礼者ヨハネは、洗礼を授けた時、主イエスの上に、聖霊が鳩のように降り、とどまるのを見て、この方こそ、聖霊によって洗礼を授ける人、すなわち「神の子」(34節)だと分かったのです。

 けれども、今日の聖書箇所を黙想しながら、私はふと、ヨハネは本当に聖霊を見たのだろうか?と疑問を抱きました。ヨハネは肉眼で、聖霊が鳩のように降って主イエスにとどまるのを見たのだろうか?
 私たちにとって、聖霊というのは、聖書の中で最も分かりにくいものの一つではないでしょうか。キリスト教は、三位一体(さんみいったい)の神を信じる、と告白します。父なる神、子なるイエス・キリスト、そして聖霊です。その中で、イエス・キリストは福音書に色々書かれていて、最も身近で分かりやすい。また、父なる神というのも比較的分かる。でも、聖霊というのはもう一つピンと来ない、という方が、この中にも多いのではないでしょうか。(聖霊がよく分かる、という人がいたら、ごめんなさい)
 聖霊。霊です。神の聖なる霊です。と、口で言っても、私たちには見えません。今もこの礼拝の場に満ち満ちているのでしょうが、見えませんし、触れることもできせん。今、自分に聖霊が宿っていると何かエネルギーのようなものを体感できるわけでもありません。それなのに、洗礼者ヨハネには、聖霊が見えたのでしょうか?ヨハネが特別な人だからでしょうか?そうかも知れません。ヨハネは特別な人だから、主イエスに降る聖霊が見え、でも当時の他の人たちには、やはり見えなかったのかも知れません。
 けれども、聖霊はやはり見えないものだと、私は思っています。少なくとも私には見えません。私たちの中に“見える”という人はいるでしょうか?もし私たちに聖霊が見えないのだとしたら、そういう私たちの現実に引きつけて、聖霊を見るとはどういうことか、一歩踏み込んで考えてみたいのです。洗礼者ヨハネが何を見たのか、考えてみたいのです。

 洗礼者ヨハネは何を見たのでしょうか?主イエスを見たのです。罪を悔い改める洗礼を授けている自分のもとにやって来た主イエスを見たのです。自分から洗礼を受ける主イエスを見たのです。けれども、この時点でヨハネは、聖霊が主イエスに降るのを見たのではない、と思います。
 洗礼を受けた主イエスは、その後どうされたのか?推測ですが、洗礼者ヨハネのグループに入ったと思われます。ヨハネは、荒れ野で共同生活をするエッセネ派と呼ばれるグループに属していたと言われています。荒れ野に修道院のような場所があって、主イエスもその共同生活に入られたのではないか。そして、そこで信仰生活、修養生活をする主イエスの姿を、ヨハネは見続けたのだと思います。その中で、ヨハネは、主イエスが「神の子」だと分かる、決定的な“何か”を見たのではないでしょうか。
 私の推測ですが、一つは、神を“父”と親しく呼ぶ主イエスの姿を見たのです。それまでのユダヤ人にとって、神さまとは超越的(ちょうえつてき)な、遠い存在であって、“父”などと親しく、身近に感じるような存在ではありませんでした。もちろんヨハネも、神を父と呼んだことはなかったでしょう。ところが、祈りにおいてでしょうか、主イエスが、神さまに向かって“父”と、“お父ちゃん”と呼びかけている。それは、ヨハネにとって衝撃的だったに違いありません。どうして親しく“父”と呼べるのだろうか?その姿に、ヨハネは、主イエスの内に神の聖なる霊が働いていると、理屈抜きに感じたのではないでしょうか。
 二つ目は、主イエスが、悪魔の誘惑を退(しりぞ)ける姿です。ヨハネによる福音書以外の3つの福音書には、主イエスがヨハネから洗礼を受けた後、荒れ野で悪魔から誘惑をお受けになる物語が記されています。私は、これはヨハネのグループの修道院内での内面的な出来事だったのではないかと想像しています。空腹の誘惑、“信仰が深い!”と言われる名誉への誘惑、この世の富、権力、国を手に入れる権勢への誘惑‥‥しかし、主イエスはこの3つとも退けます。しかも、聖書の御(み)言葉によって退けるのです。どこで、これほど深く聖書を学んだのか?これもまたヨハネには驚きだったに違いありません。その姿に、ヨハネは、主イエスの内に聖霊が働いていると感じたのではないでしょうか。
 そして三つ目は、人を愛する主イエスの姿です。洗礼者ヨハネの言動から察するに、エッセネ派は神の掟を守り、厳格な生活をすることに相当熱心なグループであったと思われます。それゆえ、熱心で厳格なあまり、ファリサイ派と同じように、人を裁くことが少なからずあったのではないでしょうか。“あの人は神の掟を守れていない”“神に喜ばれる行いができていない”と、だれかがだれかを非難し、否定することが共同生活の中であったのではないでしょうか。そのように裁かれ、否定され、傷つき、絶望し、悲しむ人々に対して、主イエスはやさしかったのではないか。“神さまは父のようなお方だ。あなたのことを愛している。決して見捨てない”。そんなふうに、主イエスは、傷つき悲しむ人に寄り添われたのではないでしょうか。その姿は、前の二つ以上に、ヨハネにとって驚きであり、衝撃だったと思われます。
 つまり、洗礼者ヨハネは、自分が想像もできなかった内面の世界を、主イエスのお姿に見たのではないでしょうか。そして、主イエスの内に聖霊が働いていると感じたのです。聖霊を肉眼で見たのではありません。でも、この人の内に聖霊が働いていると感じずにはおられなかったのです。だからこそ、「聖霊によって洗礼を授ける人」だと、聖霊を私たちに分け与え、父なる神さまの深い愛を分からせてくださる方だと証言したのでしょう。

 自分が信じているものに、何を感じ、何を見ているか?とても大切なことだと思います。けれども、それがすぐに見えるとは限らない。気づいて、実感するのに、年月がかかることも少なからずあります。私たちは、神さまを信じて洗礼を受けます。けれども、ある意味で、“聖霊による洗礼”を心に受けるのはしばらく経ってから、なのかも知れません。私たちは、人生に苦しみ悩み、葛藤(かっとう)と祈りの信仰生活を積み重ねて行く中で、神さまを“父”と呼ぶほどに愛され、その愛に支えられている喜びを、聖霊によって分からせていただき、実感するのでしょう。信仰によって、私たちは、イエス・キリストに神の愛を見るのです。
 ところで、話は変わりますが、皆さん、“LGBT”って分かりますか?‥‥レズ、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーの頭文字です。自分が女性で、女性しか愛せない人、自分が男性で男性しか愛せない人、男性でも女性でも愛せる人、体と心の性別が一致しない人のことです。この問題で苦しんでいる人は、社会の中に相当多くいると思われます。13人に1人とさえ言われます。
 2週続けて朝日新聞のフロントランナー(6月17日)の話になりますが、トランスジェンダーで、薬師実芳(みか)さんという27歳の方が紹介されていました。女性の体で生まれ、男性として生きるトランスジェンダーです。大学2年生だった2009年に、ReBit(リビット)というNPO法人を立ち上げ、性の多様性、社会の多様性を伝え、考えるために、学校での出張授業を始めました。最初は門前払いの連続でしたが、今では、小中学校、高校、大学、自治体等で、年間200回を超える授業をなさっているそうです。
 そんな薬師さんの10代の時の思いが、次のように紹介されていました。
 学級委員で友だちも多い。中学では「優等生の女子」を装い、家では布団の中で毎晩泣いた。過呼吸に襲われ、線路に飛び降りそうになったこともある。高校2年の時、ついに友人に泣きながらカミングアウト。「薬師は薬師じゃん」という一言に救われた。あの頃、「あなたのままで大丈夫」と、だれかに教えてもらえたら。
 この下りに、読んでいて何だか泣けて来ます。その痛み悲しみが伝わって来ます。そして、「薬師は薬師じゃん」と言って受け入れた友だちは、まるでイエス様ではないか、と思うのです。それこそ、聖霊が降って働いている、と言っていいぐらいだ、とさえ思うのです。そして、友だちの一言に、薬師さんは、“あなたのままで大丈夫”という命の真理を探し当てたのでしょう。
 “あなたのままで大丈夫”。それは、主イエス・キリストの言葉の内に、行動の内に見出すことのできる愛の真理です。もしかしたら主イエスは、エッセネ派の修道所の中で、“〇〇は〇〇じゃん”“あなたのままで大丈夫”と言われていたかも知れません。
薬師実芳さんは、“あなたのままで大丈夫”という命の真理をつかみ、信念を持って活動されていることでしょう。私たちも、自分が信じている主イエス・キリストに、“あなたのままで大丈夫”という愛を見ながら(感じながら)生きています。それが、クリスチャンという存在です。“あなたのままで大丈夫”を信仰によって生きる存在です。
 “あなたのままで大丈夫”。この言葉を、この愛を必要としている人は、世の中に少なからずいると思います。いや、ある意味で、すべての人がこの愛を必要としていると言ってもよいでしょう。イエス・キリストのもとにあるこの愛を伝えていく“声”に、私たちもなりましょう。伝えていく教会になりましょう。