2017年6月25日 大人と子供の礼拝説教
  聖 書 創世記11章1〜9節
  説教者  山岡 創牧師

11:1 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。
11:2 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
11:3 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。
11:4 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
11:5 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、
11:6 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
11:7 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
11:8 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。
11:9 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである

「 バベルの塔 」
  今年の3月末に、中学校を卒業した現・高校1年生たちと、教会に泊まって〈卒業祝い一泊レク(サムエルナイト)〉をしました。2日目に浅草観光に出かけましたが、その時に撮った写真の1枚が、これです(プロジェクター映像)。後に映っているものが何か、分かりますか?分かりますよね。
 東京スカイツリーです。浅草とスカイツリーは近いんですね。と言っても、さすがに歩いて行ける距離ではなく、スカイツリーをバックに、こんな写真を取りました。
 スカイツリーの高さが何mか、皆さん、ご存じですか?‥‥634mだそうです。これは2012年に開業した当時、世界一高い電波塔だったのだそうです。ちなみに、世界一高い建物は、アラブ首長国連邦にあるブルジュ・ハリファというビルで、828mだということです。
 ところで、私が今までに登った、いちばん高い建物は、大宮にあるソニックシティーの最上階にある展望スペースだったと思います。高いところから見下ろす夜景は、とてもすてきでした。
 でも、人間、いつも高いところに住んで、周りのものを見下ろしていると、何だか自分が偉くなったかのように思い上がってしまうことがあるかも知れません。高さは偉さ。バベルの塔を建てようとした人々も、そんなことを考えていたのかも知れません。

 シンアルの平野に住み着いた人々がいました。チグリス、ユーフラテス川流域の平野です。シンアルとは、別名バビロニアのことです。若い人たちは、世界史の授業で、バビロニア帝国という名前を聞いた覚えがありませんか?これは、旧約聖書の主人公である神の民イスラエルを滅ぼした国です。そして、イスラエルの主な人々を捕虜として、たくさんバビロニア帝国へ強制的に移住させました。バビロン捕囚と呼ばれます。
 その地で、イスラエルの人々は、バビロニアの人々が建てた高い塔を見ます。そして、バビロニアの人々が、自分たちは強い、賢い、まるで神々のようだ、と誇り高ぶっている姿を見ます。
 けれども、イスラエルの人々は、世界をお造りになった神さまを信じていました。人がどんなに強くなっても、どんなに賢くなっても、神さまには遠く及ばない。誇り高ぶらず、謙虚に生きよう!〈バベルの塔〉の物語には、そんな呼びかけのメッセージが込められているのです。
 さて、シンアルの平野に住む人々は、れんがとアスファルトという新しい建築材料を手に入れて、天まで届く高い塔を建てようとしました。(プロジェクター映像)これは、藤城清治さんという影絵作家の方がつくられたバベルの塔です。彼らは言いました。
「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」(4節)。
 天まで届く塔を建てる目的は、有名になることと、全地に散らされないようにすることでした。有名になるとは、自分たちは強い、賢いと誇り、名前を売り、優越感を感じることでしょう。全地に散らされないように、というのは、弱くなって、滅ぼされないように、ということでしょう。自分の力で、自分を誇って生きる生き方です。その生き方を一言で言い表すなら、“天まで届く”ということになります。
 天というのは、当時の人々にとって、神が住む場所でした。神の高さ、神の域に達したい。神のようになりたい。人の心には、あるいは無意識かも知れませんが、そんな願望が常にあるようです。そして、ある程度の結果を出すと、自分は天まで届いた、と錯覚し、もう自分よりも上はいない、と思い上がるのです。ともすれば、思い上がって周りの人々を見下します。もう自分よりも偉いものはいないと、人の道を外れて、してはならないことをしたりします。それは、自分が神さまによって造られた存在であり、自分の上には神さまがおられることを忘れた人間の姿です。
 そんなふうに考えると、天まで届く塔を建てる、というのは、色々な意味に考えることができます。政治でも、仕事でも、勉強でも、スポーツや芸術でも、人は自分が頂上に立ったと思えば、思い上がってしまうことがあります。神さまを見上げての謙遜な気持を忘れてしまうことがあります。私たちも、そんな思い上がりを胸に抱いたことが、少しはあったかも知れません。だとすれば、私たちもバベルの塔を建てようとした人々と同じではないでしょうか。

 神さまは、天から「降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見」(5節)ます。注意して御(み)言葉を考えてみましょう。主なる神は、降(くだ)って来たのです。人が、自分たちは天に届いた、神の域に達したと思い上がっている塔を見るために、神さまは天から降って来なければならなかったのです。聖書は、人が、天まで届いたと思って、どんなに誇っても、それは天には遠く届かないということを語りかけて来ます。だから、私たちは、思い上がってはならない。たとえ頂点を極めたと感じたとしても、まだ自分よりも遙かに高い方がおられることを思い、神さまを見上げて謙虚でなければならない。そうしなければ、人は、自分自身の思い上がりによって滅んでしまうでしょう。
 話は変わりますが、1969年に世界初の月面着陸に成功したアポロ11号の船長は、ニール・アームストロング氏という人でした。人類が月に、宇宙に到達した。それは、まさに天に届いたと思っても不思議ではない科学技術、文明の進歩であり、画期的な出来事だったと思います。けれども、アームストロング船長は、その時、次のような言葉を残しています。
 突然、あの小さな豆粒大のもの、美しく青いものが地球であることに気が付いた。私は親指を立てて片目をつぶった。すると私の親指が地球の惑星をすっかり覆い隠してしまった。自分のことを巨人には思えなかった。とてもとても小さな存在に感じた。
 彼は、自分が天に届いたとは、神のようになったとは思えませんでした。むしろ、自分が達した宇宙空間の広大さを思い、それをお造りになった神さまの偉大さを感じて、自分のことを、とてもとても“小さな存在”と謙虚に感じたのでしょう。
天には、私たちの上には、世界と私たち人間をお造りになった神さまがおられる。そのことを忘れずに、謙虚に、神さまが喜ばれることは何かを考えて生きていきたいものです。

 天に届こうとする人間の企てを破るために、神さまは降って来て、一つだった人の言葉をバラバラにして通じなくさせ、全地に散らされました。それは結果として、人と人とが対立し、争い合う不信の世界を生み出したかも知れません。
 そんな世界を一つにするために、神さまはもう一度、天から決定的に降って来ます。神のひとり子イエス・キリストを、天からこの地上に降らせてくださったのです。それは、もう一度、一つの言葉を届けるためではありません。けれども、人と人とがコミュニケーションし、信頼し合うために、もっと大切な一つのものです。それは“愛”です。人と人とが、互いに愛し合う気持です。
 この世界は、神の愛によって造られました。そして、神と人が信じ合い、人と人とが愛し合うように、神さまはお造りになったのです。そのはずの世界が、人の罪によって壊(こわ)れました。人は、神のようになろうと願い、神のようになれたと思い上がり、自分が世界の中心だと勘違いして、戦争まで起こすようになりました。愛が失われたのです。その世界に、イエス・キリストはもう一度、命がけで、愛を届けに降って来られました。この世界のバベルの塔の物語は、私たち一人ひとりの人生の歩みの中にあるバベルの物語は、主イエス・キリストの御言葉を聞き、信じて従うことによって、バッド・エンドではなく、私たちが愛を回復し、互いに愛し合い、愛の世界を取り戻すハッピー・エンドになることを祈り、目指しながら進みましょう。