2017年7月2日 礼拝説教
  聖 書 ヨハネによる福音書1章35〜42節
  説教者  山岡 創牧師

1:35 その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。
1:36 そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。
1:37 二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。
1:38 イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、
1:39 イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。
1:40 ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。
1:41 彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。
1:42 そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。

「 イエスのもとに泊まる 」
 「見よ、神の小羊だ」(36節)。洗礼者ヨハネは、「歩いておられるイエスを見つめて」(36節)、こう言いました。主イエスの姿に何を見て、「神の小羊だ」とヨハネは証言したのでしょうか?「神の小羊」とは、何をイメージしているのでしょうか?
 当時から千年以上も昔、ユダヤ人の先祖は、エジプトで奴隷として虐げられていました。重労働を強いられ、ピラミッドやスフィンクスのような石の建造物を造らされていたのです。余りの過酷さに、先祖たちは叫び、助けを求めた時、神さまは一人の人物・モーセを起こしてくださいました。このモーセに導かれて、彼らはエジプトを脱出するのですが、脱出の夜、大きな事件が起こります。エジプト中で、人間も、動物も、その長男(初子)が突然死するという奇怪な事件です。旧約聖書の出エジプト記は、それを、神がエジプト中を巡り、彼らを裁き、その長男を撃った出来事として記しています。
 けれども、ユダヤ人の先祖たちは、その災難から免れます。それは、自宅の入口の鴨居(かもい)と柱に、小羊の血を塗っておいたからです。その夜、彼らは、家族ごとに小羊をほふって食べ、その血を入口の鴨居と柱に塗っておくようにと、モーセから命じられていました。その血のしるしを見て、神は、彼らの家を通り過ぎ、神の裁きがその家に降ることはありませんでした。こうして、エジプト中が大混乱している中で、ユダヤ人の先祖たちは、エジプトを脱出し、奴隷の苦しみから救われたのです。
 後に、この出来事は救いの記念として、“神が通り過ぎる”祭として祝われるようになりました。過越しの祭と呼ばれ、民族の救いとルーツを記念するユダヤ人最大の祭となります。そして、家族ごとに小羊をほふって食し、家の鴨居と柱に小羊の血を塗ることが祭りのならわしとなりました。
 洗礼者ヨハネは、主イエスのことを、この小羊にたとえたのです。ユダヤ人最大の“救いのシンボル”にたとえたのです。自分の命をかけて人々を救いに導く救い主、ヨハネは主イエスの生き様に、その姿を見たのです。

 前回の説教でお話しましたが、主イエスはヨハネから洗礼をお受けになりました。そして、主イエスはヨハネのグループに身を投じ、荒れ野で共同の修養生活をしたと想像されます。その共同生活の中で、ヨハネは、主イエスの生きる姿を見、その内面の世界に触れます。祈りにおいて、主なる神を、親しく“父”と呼ぶ主イエスの姿。多くの誘惑に、聖書の御(み)言葉によって打ち克つ主イエスの姿。そして、裁かれ切り捨てられた仲間に、“神はあなたを愛している。決して見捨てない”と告げる主イエスの姿です。その姿に、ヨハネは主イエスの信仰の世界をのぞき、衝撃を覚えたに違いないと私は推測しています。その驚きから、ヨハネは、主イエスの内に神の聖霊(せいれい)が働いていると感じ取り、「神の小羊」、救い主と呼んだ、呼ばずにはいられなかったのだと思います。
 「見よ、神の小羊だ」。それは言わば、ヨハネの“魂の叫び”です。魂の証言です。他の福音書によれば、ヨハネはこの後、捕らえられ、幽閉されます。権力者であるヘロデ王の行いを非難したからです。やがてヨハネは処刑されるのですが、神の道、愛の道が曲げられている荒んだ社会に、「主の道をまっすぐにせよ」と「荒れ野で叫ぶ声」(1章23節)として現れたヨハネは、後のことを主イエスに、自分以上の存在として期待し、救い主と認めて、託したのでしょう。その言葉に動かされ、ヨハネの弟子の多くが、主イエスに従うようになったと思われます。その代表が、今日の聖書箇所に登場する二人の弟子なのです。
 二人のうちの一人は、アンデレでした。ヨハネによる福音書(ふくいんしょ)以外の、3つの福音書と比べてみると、出会いの物語が全く違うことに気づかされます。マタイ、マルコ、ルカの福音書では、ガリラヤ湖で漁師をしていたアンデレとその兄弟シモン(ペトロ)を、主イエスが、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコ1章18節)と言って、弟子としたエピソードが記されています。今日のヨハネによる福音書の話とは全く違います。どちらが事実なのか、事実に基づいた話なのか、もはや分かりません。私たちは、それを問題にしなくてもよいのでしょう。一つ言えることは、それぞれの福音書には、それぞれの視点があり、伝えたいことがある、ということです。私たちは、その違いを聖書の豊かさとして受け取り、それぞれのメッセージを味わって、大切な何かを見つけることができればよいのではないでしょうか。

 ヨハネによる福音書における出会いの物語の特徴、それは、二人の弟子が主イエスのもとに泊まった、という点にあります。二人は、主イエスの泊まっている場所を知りたいと願い、ついて行き、そしてそこに一緒に泊まりました。その体験によって、二人は、「わたしたちはメシアに出会った」(41節)と信じるに至ったのです。
 “同じ釜の飯を食った仲”という言葉があります。人と人とが寝食を共にして親しく付き合うことを言います。私たちの教会でも、青年や中高生がサムエル・ナイトやキャンプを共にすることがありますが、そのように長い時間を親しく付き合う中で、一緒に過ごしている人のことが、より深く分かって来ます。相手の言葉を聞いて、相手の考えを知り、相手の立場に立ち、その気持を察し、時には共感して涙を流すこともある。そのようにしてお互いの信頼関係は深まっていきます。
 主イエスのもとに泊まる。それは、主イエスの語る言葉を親しく聞き、主イエスと共通の視点に立って、主イエスという人をより深く知る機会となったのではないでしょうか。
 話は変わりますが、14歳の藤井聡太四段の連勝記録により、今、将棋界が注目されています。その連勝記録の最初、デビュー戦の相手は、加藤一二三・九段でした。名人など、数々のタイトルを手にした、将棋界のレジェンドです。つい先日、加藤氏は引退を発表されました。引退会見では、藤井くんのことを、自分の後継者と言って喜んでおられました。
 加藤一二三・九段の将棋の特徴の一つに、“ひふみん・アイ”と呼ばれるものがあります。試合の途中休憩の時間に、相手の側に回って、相手の視点で将棋の盤面を見ることを言います。もちろん、自分の側からも同じ盤面が見えていますし、プロ棋士は頭の中で盤面を180度反転して考えることもできるそうです。けれども、加藤九段は敢えて、これをやります。実際に相手の側に立って、相手の視点で盤面を見ることで、相手の手順を推測したり、相手の気持を想像したり、何かに気づかされることがあるのでしょう。
 私は、二人の弟子が主イエスのもとに泊まったということを黙想しながら、ふと、この“ひふみん・アイ”を思い起こしました。二人の弟子も、泊まることによって、主イエスと共通の視点で、神さまを見上げ、社会を見つめ、人々にまなざしを注いで、何か大切なことが見えたのではないでしょうか。それによって二人は、イエスはメシア、救世主と信じたのでしょう。

 主イエスのもとに泊まる。主イエスがこの世にはおられない今日において、現代の弟子であらんとする私たちには不可能なことです。けれども、果たして本当に不可能だろうか?私はふと、そう思いました。私たちが主イエスのもとに泊まる。それは決して不可能なことではないのではないかと思うのです。
 もちろん、私たちは、主イエスと直接顔を合わせ、言葉を聞き、寝食を共にすることはできません。けれども、私たちが今、“イエス・アイ”に立つことができる方法がある。主イエスと共通の視点に立ち、共通の体験をすることで、主イエスの信仰に、主イエスの愛に、魂で深く触れる方法がある。それは、“聖書”の中に泊まることです。聖書という宿に泊まるかのように、聖書の世界に、主イエスとの関係に入り込むことです。
 聖書、特に福音書の言葉をよく読んで、黙想し、主イエスが、この世をどのように見ていたか、人々をどのように見ていたか、そしてご自分をどのように見ていたか、を考えてみる。そうする時に、主イエスが、人として苦しみ悩んでいるご自分を、神さまがまるで父のように、どんなに愛してくださっているかという恵みに気づかれたことが見えて来ます。そして、その神の愛のまなざしで、主イエスが、苦しみ、痛み、傷つき、悲しんでいる人を、どんなに愛しておられたか、寄り添おうとしておられたかが次第に見えて来ます。
 そして、視点を自分の側に戻して、主イエスと向かい合い、主イエスと相対している人物と自分を重ね合わせてみると、そのように主イエスが愛してくださる相手が、その一人が“私”なのだと気づかされます。その時、私たちは、神の愛に、主イエスの愛に圧倒されて、感激して、「わたしたちはメシアに出会った」と、“イエスは私の救い主、わたしの神です”と告白するに至るでしょう。

 主イエスの愛に触れ、救い主と信じる喜びを味わったとき、アンデレがそうであったように、私たちは、だれかに伝えずにはおられなくなります。
 2ヶ月ぐらい前でしたか、おいしいラーメン屋さんを見つけた、という話を説教でしました。気に入っていた近くのラーメン屋さんが閉店してしまって、私は、リピートしたくなるような、おいしいラーメン屋さんを探していました。そして、鶴ヶ島においしいお店を見つけました。自分が味わって、おいしいと実感したラーメンは、人にも、おいしいと伝えられます。いや、人は、自分がおいしいと、良いと思ったものは、なぜかだれかに伝えたくなります。
 信仰も同じです。「何を求めているのか」(38節)。私たちは、自分の人生に“おいしいもの”を求めています。食べ物のことではありません。幸せを求めています。救いを求めています。愛を求めています。人生の土台を求めています。うまくいくばかりではない、むしろ、傷つき、痛み、苦しみ、悲しむ人生において、それを生きる自分を慰め、支え、愛と勇気を与える大切なものを求めています。その大切な何かと出会いたい。そして、それと出会ったら、自分と同じように苦しみながら生きているだれかに、伝えずにはいられない。
 主イエスとの出会いとは、そういうものです。私たちは、聖書の内に泊まりましょう。何泊もしましょう。いや、私たちの魂の家を、生涯、聖書にしてしまいましょう。そうすればきっと、求めるものと出会えます。主イエスと出会えます。