2017年7月9日 礼拝説教
  聖 書 ヨハネによる福音書1章43〜51節
  説教者  山岡 創牧師

:43 その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。
1:44 フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。
1:45 フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」
1:46 するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。
1:47 イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」
1:48 ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。
1:49 ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
1:50 イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」
1:51 更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。

「 この人には偽りがない 」
                    〜 まことのイスラエル人 〜
 1章の後半は、主イエスと弟子たちの出会いの物語が続きます。先週の聖書箇所(1章35〜42節)では、アンデレともう一人の弟子、そしてアンデレの兄弟であるシモン・ペトロと主イエスの出会いが描かれていました。そして、今日読んだ聖書箇所では、フィリポとナタナエルが主イエスと出会う話が記されています。
 アンデレとシモン・ペトロに出会った翌日、主イエスは、ユダヤ地方からガリラヤ地方へと下って行こうとします。その時、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」(43節)と言われました。フィリポという人は、「アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった」(44節)と書かれています。ベトサイダとは、ガリラヤ地方の町、ガリラヤ湖畔の町でした。一方、主イエスも「ナザレの人」(45節)と言われているように、ガリラヤ地方の出身でした。
 これは私の想像ですが、主イエスは、アンデレとペトロから、事前にフィリポのことを聞いていたかも知れません。そして、ガリラヤに帰るので、二人の知り合いで、同郷人(どうきょうじん)であるフィリポを、“一緒に帰らないか?”と旅の道連れに誘ったのではないか。「わたしに従いなさい」というのは、最初から、弟子となって従え、という決定的な意味を持った言葉だったのではなく、例えば、電車の駅で同じ方向に帰る人と、たまたま出会って、“一緒に帰ろう”ということになった。最初は、その程度の意味だったのかも知れないと思ったりします。
 ところが、一緒に帰る途中、色々と話をするうちに、相手がどんな人か分かって来た。何かハッとさせられるものも見えたかも知れません。心が燃えたかも知れません。相手の内に、好感の持てる何かを見いだすと、偶然は“出会い”へと変わります。フィリポは、ガリラヤへ帰る旅の途中で、主イエスの内に決定的な何かを見いだして、「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った」(45節)と感じたのでしょう。他方、主イエスも、一緒に旅をする途中で、フィリポに何かを感じて、「わたしに従いなさい」と改めて声をかけたのではないでしょうか。
 そのように考えてみると、主イエスもいきなりフィリポを弟子にしたのではなく、フィリポも初対面で、主イエスのことを特別な方と信じたのではない、ということで、私たちには納得がいきます。最初の出会いが、深い意味で人生の“出会い”となるには、人それぞれ、何らかのプロセス(経過)があるはずです。私たちにとっても、主イエスと出会うためには、求道生活、信仰生活のプロセスが必要でしょう。

 フィリポは主イエスと出会いました。旧約聖書が記し、預言している救世主と信じて、主イエスに従って行くことを決断したのです。けれども、フィリポはその出会いを、自分だけで終わらせません。彼は、ガリラヤに帰ると、友人であるナタナエルと出会って、「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」(45節)と証言します。先週もお話しましたが、おいしいラーメンと出会ったら、“あの店のラーメンはおいしかった”とだれかに話したくなる。人は、“よいもの”を見つけたら、だれかにそれを伝えたくなる傾向があります。フィリポは「良いもの」(46節)を見つけたのです。
 ナタナエルは、ガリラヤのカナという町の出身でした(21章2節参照)。以前からフィリポとは知り合いだったのでしょう。けれども、ナタナエルは、旧約聖書に預言されている救い主と出会った、“よいものを見つけた”と言うフィリポの言葉に対して、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(46節)と疑問を呈し、否定的な態度を取ります。彼には、自分が旧約聖書によって培った見識があったようです。
それに対してフィリポは、主イエスが救い主であることを論証し、ナタナエルの意見を論駁(ろんばく)し、説得しようとはしませんでした。百の言葉で説得するよりも、百聞は一見にしかず!「来て、見なさい」(46節)とフィリポはナタナエルに勧めました。その勧めに、ナタナエルも自分の聖書的見識だけで判断せず、実際に会ってみて、自分の目で確かめてみようという気になります。
私たちも、人に信仰の良さを、百の言葉で説明するのは大変です。それよりも、「来て、見なさい」と言えたら、よいのではないでしょうか。自分が、主イエスに、聖書に、教会に「良いもの」を見いだしているなら、“来てご覧よ”と言えるでしょう。説得するのでも、強制するのでもない。よかったら、自分の目で確かめてみてよ、と勧める。そこまでが、私たちにできる伝道です。後のことは、牧師の責任です。いや、イエス様の責任です。そのぐらいの気持でいればいい。でも、イエス様は聖霊となって、教会の中で、私たちの内側で働かれます。だから私たち自身、互いに愛し合う愛に生きることを忘れないようにしましょう。来た人が、その様子を見て、言葉ではない“何か”を感じ取ってくれるかも知れません。

 ナタナエルは、フィリポの誘いに、自分の目で確かめようと、主イエスのもとにやって来ます。主イエスは、そういうナタナエルを見て、「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」(47節)と言われました。
 「まことのイスラエル人」とは、どんな人のことでしょうか?「偽りがない」とは、どのような人格、態度を言うのでしょうか?
 偽りがない、とは単純には、嘘がない、という意味でしょう。嘘をつかない、嘘で人を欺かない、表裏のある態度で人を惑わさない‥‥そんなことが考えられます。けれども、今日の聖書が示す「偽りがない」という言葉には、もう少し違う意味が込められているように思います。
 ナタナエルについて、主イエスは、「あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」(48節)と言われました。いちじくは、イスラエル(パレスチナ)の地域によく生えている樹木です。神の掟である律法の教師はよく、いちじくの木陰で弟子たちを教えました。安息日に会堂で行われる礼拝とは別の、“私塾”のようなものだったかも知れません。だからナタナエルは、神の言葉を熱心に学び、真摯(しんし)に探究する人だったと思われます。あるいは、彼自身が律法の教師だったかも知れません。
 けれども、熱心に学び、探究する人の傾向として、自分が学んで得たものとは違うものを認めず、否定する場合があります。自分が学び得た知識を正当化しようとする、ともすれば真理として絶対化しようとするのです。ナタナエルも最初、その傾向が顔を出しました。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と、フィリポの考えを否定しようとしました。
 けれども、ナタナエルは自分の考えにこだわり、それが正しいと絶対化しようとはしませんでした。相手の言葉に耳を傾け、虚心になって、探してみよう、自分の目で確かめてみよう、という気持になりました。その姿勢を、真摯な、誠実な求道の態度と認めて、主イエスは、「この人には偽りがない」と言われたのではないでしょうか。
 フランスの小説家アンドレ・ジイドは、次のように語りました。
真実を探している者を信じよ。真実を見つけた者は疑え。
 真実とは、探し続けるもの、探求し続けるものなのでしょう。私たち人間が、“真実を見つけた。これが真実だ!”と固定化し、絶対化してはならないものでしょう。それは、神さまにしか分からない。私たちが見つける真実とは、暫定(ざんてい)的なもの、相対的なもの、私たちはただ、一人の人間として、謙遜に、真剣に、それを探し続けることしかできないのでしょう。そのような性質のものである真実を、“真実はこれだ!これだけだ!”とこだわり、絶対化することは、まさに真実を偽ることです。
 真実を探している者を信じよ。イスラエルとは、“神の民”という意味です。そして、神の民の本質とは、律法(聖書)の中に真実を探し続ける、真摯に、誠実に“神”を探し続けるところにあります。そういう姿勢で歩き続ける人こそ、「まことのイスラエル人」です。主イエスとはさまに、そういうお方でした。そして、ご自分と同じ姿勢を、主イエスはナタナエルに見出したのでしょう。偽りなき、まことのイスラエル人。真摯に神を探し求める人と見て取ったのでしょう。

 そういう意味で、信仰生活とは、私たちが、偽りなき「まことのイスラエル人」、神を探し続ける探究者(求道者)として歩み、自分を造り上げていく生活だと言ってよいでしょう。
 話は変わりますが、会報『流れのほとり』82号の巻頭言で、昨年度後半のNHKの連続テレビ小説《べっぴんさん》のことを書きました。子供服のファミリアの創設者の一人・坂野惇子さんの生涯を描くドラマでした。この中に麻田茂男という靴職人が登場します。坂野惇子役の主人公・坂東すみれ一家とも親しく、その家族の靴を作り続けて来ました。戦後、すみれたち四人の女性がファミリアの前身を立ち上げた時、自分の店を売り場に貸して面倒もみました。
 そんな麻田さんに、すみれは、自分の娘・さくらが小学校に入学する時、靴を作ってほしいと頼みます。麻田さんは一旦は引き受けますが、歳のせいで目もよく見えず、手も動かなくなってきて、その靴作りを辞退します。しかし、幼いさくらの懸命な懇願に負けて、再び靴を作り始めるのです。やがて靴が完成し、すみれにその靴を渡す時、麻田さんは言います。
わたしが作る最後の靴です。
本物を作る。想いを込めて作る。
  どんなことがあっても、それを貫き通す。ただそれだけです。
 それは、麻田さんがかつて、子供の時のすみれに教えたことでもありました。病弱で入院がちな母親に、すみれが初めて刺繍をプレゼントした時、父親から “何やそれは?”とバカにされて、すみれは刺繍を持って病室から走り去ります。その後、店を訪れたすみれから、その話を聞いた麻田さんは、彼女を慰めます。
  最初から上手にできる人はいません。
だれが、どんな想いを込めて作るかが大事なんです。
想いを込めたら、伝わるんです。
 麻田役を演じた市村正親は、靴職人としての麻田と、俳優としての自分を重ね合わせて、こう言います。やがて自分も歳をとり、足腰の利かなくなる時が来る。でも、ヘタでもいいから、自分の思いを込めて芝居を演じれば、きっと“べっぴん ”になる、と。

 「まことのイスラエル人」として生きる。それは、麻田さんの言葉を借りて言えば、本物をつくる、ということだと思います。“まこと”を探し求め、本物を目指して、想いを込めて作り続ける生き方でありましょう。完成品ではない。本物とは常に、途中経過です。暫定的です。ただし、想いが込められている。真摯で、誠実な祈りが込められているのです。
 そんな“信仰の職人”でありたい。真実を探し続ける、信仰と愛を造り続ける職人でありたい。私はそのように願います。そのように歩み続けたら、聖書の中に、イエスの中に、「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」(49節)、私の心を満たすお方です、と信じて告白し続けることができるのではないか。大切なものと出会い続けることができるのではないか。そう信じるのです。