2017年7月16日 礼拝説教
  聖 書 ヨハネによる福音書2章1〜12節
  説教者  山岡 創牧師

2:1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
2:2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。
2:3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
2:4 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
2:6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。
2:7 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。
2:8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。
2:9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、
2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
2:11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
2:12 この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。

「 なぜ水はぶどう酒に変わったか 」
 今年の3月、この教会で結婚式が行われました。N.Y神学生と、旧姓・Y.Mさんの結婚式です。今、N神学生は、違う教会で実習をするために池袋西教会に派遣されていて、この教会で普段、教会生活をしていませんが、8月最後の日曜日、久しぶりに帰って来て、私の代わりに礼拝説教の奉仕をしてくれることになっています。
 結婚式の時は、事情があって、この教会の皆さまを招くことができませんでした。ご親族と、当日、式のために奉仕する数名が参列するにとどまりました。けれども、その時の写真を見返すと、皆ニコニコしています。当然と言えば当然ですが、結婚式とは喜びの時だからです。
 時代や国が変わり、形式が違っていても、結婚式が喜びの時であることに変わりはないでしょう。今日の聖書箇所では、2千年前に、ガリラヤのカナで行われた婚礼が、話の舞台となっています。その席に、主イエスとその弟子たちも招かれていました。だれか親族の婚礼だったのでしょうか。「イエスの母」(1節)もそこにいた、ということですから、親族の婚礼だったのかも知れません。あるいは、直前の箇所で、主イエスがナタナエルを弟子とする話がありますが、このナタナエルがカナ出身であったため、花婿とナタナエルが親族同士か友人関係にあり、そのつながりで主イエスと弟子たちが招かれることになったのかも知れません。当時の婚礼は、友人の友人が呼ばれることがあり、村を挙げての盛大な婚礼になることもあったようです。

 ところが、喜びの時である婚礼に、ちょっと困ったことが起こりました。「ぶどう酒が足りなくなった」(3節)のです。婚礼は1週間も続くことがありました。その長さのためか、あるいは色んな人が招かれて来て、予想以上の人数になったためか、いずれにしても、ぶどう酒がなくなってしまったのです。
 婚礼の席で酒が切れる。それは、場の空気を白けさせてしまうような事態でした。世話役や召し使いたちは、どうしたらいいものかと困惑したに違いありません。その様子を、イエスの母が察します。彼女は、息子イエスに、「ぶどう酒がなくなりました」(3節)と告げました。“何とかならない?”という求めだったのでしょう。
 それに対して、主イエスの答えは、とても冷たいように思われます。「婦人よ、わたしとどんなかかありがあるのですか。わたしの時はまだ来ていません」(4節)。平たく言えば、“私には関係がない”“私の知ったことではない”と、冷淡に突き放すような態度です。客として招かれて来たのだから、確かにそうだとしても、もう少し言い方があるのではないか。その言葉と態度は、「あなたの父母を敬え」(出エジプト記20章12節)と命じられている十戒の教えに反しませんか?イエス様、反抗期の中2ですか?‥‥ふと、そんな半分冗談めいた疑問が思い浮かびます。
 けれども、もちろんそんなつまらない意味の言葉と態度ではありません。これは、イエスの母が願い求めているよりも、もっとすばらしいことを主イエスがなさろうとしているのだ、と榎本保郎という牧師は言われました。既に天に召された方ですが、この先生が、『旧約聖書一日一章』『新約聖書一日一章』という書を書かれました。読んだことのある方もおられると思いますが、その中で、今日の聖書箇所について榎本先生は次のように語っています。
 ‥‥熱心に祈っても神の御(み)心にかなわないものは聞かれない。神はわたしたちの求めるものよりも、さらにすばらしいものを用意しておられるときには、聞いてくださらないこともある。
この場合もそうだと思う。マリアがイエスに「ぶどう酒がなくなってしまいました」と言ったのは‥‥だれか知った人があれば借りてきてほしいという祈りだと思う。それに対して‥‥イエスは‥‥求めを拒否された‥。イエスは非常に冷たい方のように思えるが、実はもっとすばらしいことをもくろまれていたのである。だから、祈りが聞かれないことも大いに喜ぶべきである。私たちはどんなに祈っても、神は聞いてくださらないというので、あきらめてしまい、神は頼りにならないと言って金や人に頼ってみたりする。しかし、そのようなことをする必要はないのである。
そんなに簡単に祈りは聞かれないことがあり、またどんなにしても、祈りは聞かれないことがある。そして、今まで私が信仰してきたのは、いったいどういうことだろうかと思うことがある。しかし、どんなときにも、神の経綸(御心)の内にあり、神はすばらしい計画をしておられるということを信じるのがキリスト教である。
(『新約聖書一日一章』154〜155頁)
 “祈りが聞かれないことも大いに喜ぶべきである”というのは、すごい信仰だなぁ、と恐れ入ります。神が用意してくださっているご計画を信頼する深い信仰であり喜びです。そんなふうに信じたことが、私には今まで一度でもあっただろうか?なかったなぁ、と思うのです。祈りが聞かれない、願っていることが叶えられないことを“喜ぶ”というのは、なかなかできることではありません。けれども、それだから“神なんていないんだ!”“信じたって無駄だ!”と言うのはよしましょう。答えてくれない。そんなふうに冷たく見えて、でも神さまは“私”のために良いものを用意してくださっている。それを信じることによって、人生の希望と慰めは生まれて来ます。何の根拠も証拠もないかも知れません。けれども、神さまを信じ、主イエスの御言葉を信じる。その信仰が、母マリアの「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」(5節)という言葉に表れています。

 主イエスは、母マリアが願い求めている以上のことを考え、実行してくださいました。会場に石の水がめが6つ置いてありました。2ないし3メトレテス入りの水がめでした。ちなみに1メトレテスは39Lだそうです。どんだけでかい瓶(かめ)なのか!‥‥今、三女が部活の関係で時々、ものすごく大きいクーラー・ジャグを持ち帰って来ます。たぶん30Lぐらい、ポリバケツと同じぐらいあると思うのです。その倍以上の水がめです。
 その水がめに「水をいっぱいに入れなさい」(7節)と、そして「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」(8節)と、主イエスは召し使いたちに言われました。召し使いたちはそのとおりにした、と書かれています。何の疑問も感じなかったのでしょうか?自分の行動に少しも迷いを覚えなかったのでしょうか?たぶん、疑い、迷うところもあったと思います。当然でしょう。100%完璧な信仰の人なんていません。どこかに疑い、迷いを抱えているのがリアルな信仰です。それでも、自分の経験や常識を超えて、主イエスが言われることを聞いて、そのとおりにする。それが信仰による生き方です。
 今日もこの礼拝の後、聖書黙想の会を行います。聖書を読み、黙想し、主イエスが自分に何を語りかけているかを考え、分かち合う機会です。昼食のことややり方など、改善すべき点はあります。けれども、今年度“信徒の信仰成長のために”と掲げている目標課題を具体化した取り組みです。皆さん、できるだけ参加を心がけてください。自分で話せなかったら、他の人の話を聞いているだけでもかまいません。
 これは、主イエスの御言葉を聞く一つの方法です。そして、自分で聞いたことを、心の持ち方や生活の仕方、人間関係の言葉や態度に取り入れていく。それが、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と、主イエスの御言葉のとおりに生きるということです。疑いや迷いもあります。でも、自分の経験や常識を超えて信じてみる。主イエスの言葉に従って生きてみる。「しるし」(11節)とは、そこに起こるものでしょう。「栄光」(11節)とは、そこに現れるものでしょう。

 水がめの水は「良いぶどう酒」(10節)に変わっていました。私たちの常識や経験で考えれば、“どうしてそんなことが起こるのか?あり得ない!”としか言いようのないことです。神の力がそこに働いて、奇跡が起こったと信じる以外にない出来事です。
 けれども、水がぶどう酒に変わる。私たちは、その意味を、自分の人生に引きつけて、別の角度から、もう少し味わい深く考えてみたいと思うのです。水がぶどう酒に変わる。それは、私たち自身が変わることの象徴(シンボル)と考えてもよいのではないでしょうか。神さまなんて信じないで、自分の知恵、自分の力で、常識的に生きて来た。けれども、神さまを信じて生きていきたいと思った。神さまを信じることによって、喜びと感謝、希望と慰め、愛と平和に生きていきたいと願った。そのために、主イエスの御言葉を聞き、そのとおりに生きてみようと志した。決して劇的な変化が起こるわけではないかも知れません。けれども、私たちの内側に、小さな変化が起こり始める。自分では気づかないこともあるかも知れません。けれども、その変化は確かに起こっている。そして、ある時、自分が変わっていた、変えられていたことにハッと気づかされるのではないでしょうか。私たち自身が、信仰による「良いぶどう酒」に変わるのです。
 話は変わりますが、〈こころの友〉の今月号に、福島県の飯館電力株式会社・事務所所長として働く近藤恵(けい)さんという方が取り上げられていました。基督教独立学園から筑波大学を卒業後、福島県二本松に移住し、農業に従事します。やがて有機農業の専業農家として独立した矢先に、東日本大震災に遭い、福島原発による被害を受けます。小学生と幼稚園児の子どもを抱え、途方に暮れて、一時は宮城県に避難しますが、数カ月後には福島に戻り、地元の農協に就職します。そんな時、知人から声をかけられ、2014年に設立された飯館電力株式会社に転職されたのです。これは、村民の出資で設立された、小規模ソーラー19基によって成り立っている小さな会社でした。どうやって、どのように生きていくか、生活していくか、悩みと迷いは大きかったと思うのです。けれども、近藤さんは、尊敬する内村鑑三の言葉“読むべきは聖書、学ぶべきは天然、なすべきは労働”を引き合いに出して、“作るものが農作物からエネルギーに変わったのです”と答えています。きっと近藤さんの内側で、知人の誘いの言葉が、内村鑑三の言葉が、主イエスの御言葉と重なって響いたのではないでしょうか。そして、悩みや迷いの中で、その言葉を受け止めて生きていこうと決心された。信仰による「しるし」、「栄光」とは、そういう信仰生活に現れるものではないかと思うのです。

「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったところに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」(10節)。
世話役は花婿に訴えました。もちろん花婿は何のことやら知らないのですが、それは、常識から外れたことでした。けれども、世話役の言葉を私はこんなふうに感じました。神さまのなさることは、私たちの経験や常識から外れている。きっと超えている。神さまは私たちのために、もっと良いものを“後に”取っておかれるのだ、と。いつかきっと、その良いものが私たちの人生にも現われる。いつか気づかせていただくことができる。その「栄光」を信じて、私たちは信仰生活を歩み続けましょう。