2017年8月6日 平和聖日礼拝説教
  聖 書 コロサイの信徒への手紙3章12〜17節
  説教者  山岡 創牧師

3:12 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
3:13 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
3:14 これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。
3:15 また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。
3:16 キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。
3:17 そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。

「 平和 〜 この私から 」
本日は、日本基督(キリスト)教団の暦の上で〈平和聖日〉と呼ばれる日曜日を迎えました。8月第一日曜日が、この日に定められています。72年前に終った太平洋戦争の加害と被害の罪と痛みを忘れずに、平和の貴さを思い、祈り求める日です。今日はまた日本にとって、世界にとって、広島に世界初の原子爆弾が投下された日でもあります。(広島では、その出来事が振り返られ、平和を求める記念式典が行われました)
 本日の礼拝において、日本基督教団関東教区罪責告白を私たちは告白し、またS.M
さんに戦争体験の証しをしていただき、平和を祈り求める思いを持って、この礼拝を守っています。
 戦争には相手があり、お互いの思惑や感情があります。最近、ちょっと時間がある時に、山岡荘八氏の『小説・太平洋戦争』を少しずつ読んでいます。戦争中に従軍作家として過ごした山岡荘八氏にとって、戦争を振り返り、その荒筋を書き残しておくことは、ご自分の使命だと感じておられたようです。
 “連合軍側はすべて正しく、日本の散華者はみな犬死”(同書9頁、散華者とは戦死した者の意)。そんなあり得ない戦争が、日本民族によって一方的に強行されたのではない、と山岡氏は書いています。日露戦争、そして第一次世界大戦以後、世界の表舞台に急速に台頭してきた黄色人種である日本人をたたく。世界の主役は白色人種である。そんな傲慢(ごうまん)さと差別意識が、アメリカ側にはあり、戦わざるを得ない状況へと日本を追い込んで行った。そのような背景があったと言うのです。
 もちろん、だからと言って、日本が行った戦争の責任、またアジアの人々に対する虐待が消えるわけでも、軽くなるわけでもないと思います。けれども、私は少なからず、日本が自分勝手な思惑で仕掛けた戦争、という意識があったので、改めて、人と人との争いというのは一方的なものではなく、相手があり、お互いの思惑や感情が絡み合っているということを考えさせられました。お互いに、歩み寄ろう、和解しよう、という意識と気持がなければ、平和は生まれないと思います。そして、それを生み出そうとする勇気、勇気の“第一歩”が必要です。

 そのために必要なことは何でしょうか?本日与えられた聖書の御(み)言葉に耳を傾ける時、まず神さまとの和解が必要なのだ、ということを示されます。神との和解とは、「神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」(17節)ことを知ることです。主イエス・キリストによって赦(ゆる)されていることを知ることです。
 今、子どもチャペルの礼拝では、創世記のヤコブ物語を扱っています。ヤコブは、この罪の世界で祝福のモデルとなるように、と神さまに召しだされたアブラハムの孫に当たります。その祝福の使命と約束を、ヤコブは、双子の兄エサウをだまして奪い取ります。当然、エサウはカンカンに怒り、ヤコブを殺そうとします。身の危険を感じたヤコブは、家を飛び出し、母方の伯父(おじ)を頼って、そこに落ち着きます。叔父のもとで20年、ヤコブは叔父の娘とも結婚し、家畜の財産も増えて来ます。しかし、叔父の勢力を上回るようになり、居づらくなったヤコブは、故郷に帰る決心をします。けれども、兄エサウが自分のことをどう思っているか?20年の歳月が経っても、それはヤコブにとって大きな不安でした。ヤコブは悩み、迷い、葛藤(かっとう)します。行くべきか、行かざるべきか。それは言い換えれば、全面的に神さまを信頼するか、信頼しないか、という葛藤でもありました。その葛藤が、先週の大人と子どもの礼拝でもお話したように、ヤボク川の渡し場での天使との相撲(=葛藤)という描写となって描かれています。言うなれば、ヤコブはその葛藤を経て、自分が「神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されていること」、赦されていることを知ったのです。信頼したのです。そして、勇気を出して川を渡り、兄エサウとの再会、そして和解へと進んで行くのです。
 和解とは難しいものです。ヤコブとエサウの兄弟の和解ですら20年かかっています。お互いの意識と気持がすれ違ったら、和解できないまま終わることも、ままあります。平和を生み出すということは、それほどに難しい。ある意味で、自分の“意識の革命”が必要です。そのために、私たちには、自分は正しいと思い上がらずに、自分の罪を見つめ、しかし神さまに赦され、愛されているという精神的な和解が要るのです。

 その和解を、神の選びと赦しと愛を知る者として、あなたがたも、和解のために、平和のために、「愛を身に着けなさい」(14節)と聖書は語ります。「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を」(12節)、忍耐を、感謝を身に着けなさい、と語りかけます。「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」(13節)と、クリスチャンである私たちに赦し合うことを命じるのです。それが、平和への道だと言うのです。
 そして、最後に、「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」(17節)とあります。これは、人に対して何かを話すとき、何かを行うとき、“イエス様だったら何と言うか?”“イエス様だったら、どうするか?”を、祈って、考えながら、言葉にする。行動に移すということでしょう。そして、自分の言葉に、態度に、行動に、いつもイエス様の御心が、愛が宿っていることを感謝する、ということでしょう。この姿勢で生きることができたら、争いはかなり回避でき、私たちの周りに平和が生み出されていくでしょう。

 このような姿勢で、私たちはどこで、だれと生きればよいのでしょうか?やはり私は、ヤコブが兄エサウと和解したように、自分の生活の足もとで、最も身近な相手と、ということだと思います。
 以前にもお話しましたが、インドのカルカッタのスラム街で路上生活をする人々のために尽したカトリックのシスター・マザーテレサは、ノーベル平和賞を受賞しました。その授賞式で、新聞記者たちが、世界平和に貢献するためには具体的にはどうすればいいのですか?とマザーに質問した時、彼女は、こう答えたそうです。
世界平和に貢献するためには、どうぞ今日は、うちに帰って、家族を大事にしてあげてください。
 平和に貢献するとは、決して何か大きなことをすることではないのです。家に帰って家族を愛することなのです。身近なところで、家族や知人、職場の同僚、学校の友だちといった人を愛することだと思うのです。そういう小さな人間関係がいくつも積み重なって、平和が生み出されるのです。
 私たち一人ひとりの身近にも、愛すべき人が、和解すべき人がいるのではないでしょうか。簡単には愛せないかも知れない。なかなか和解できないかも知れない。それでも、愛するために、和解するために、祈りと愛の心を忘れてはならないのです。
 今日の礼拝で、〈地には平和、このわたしから〉というゴスペルを賛美しました。平和は、“このわたしから”、私の小さな祈りから、私の小さな愛から、私の小さな勇気から。その思いを信仰によって与えられ、改めて今日から歩み始めましょう。