2017年8月13日 礼拝説教
  聖 書 ヨハネによる福音書2章13〜22節
  説教者  山岡 創牧師

2:13 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。
2:14 そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。
2:15 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、
2:16 鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
2:17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。
2:18 ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。
2:19 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」
2:20 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。
2:21 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。
2:22 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。



「 商売の家か、奉仕の家か 」
 夏というのはお祭りの時期です。私が子どもの頃、住んでいた川越市は古い城下町で、お祭りが盛んでした。先日も百万灯祭りといって、バス通りにたくさんの提灯(ちょうちん)を下げて行われる祭りがありました。また、坂戸市でも八坂神社の夏祭りが行われました。5つの山車(だし)が出て、御囃子(おはやし)を競い合います。教会に来ている高校生が子どもの頃、このお囃子会に入っていて、山車に乗って御囃子を奏でていました。私も川越育ちだと言いましたが、子どもの頃、六軒町の山車を引いて歩きました。そのせいか、お囃子を聞くと、何だか自然と体がリズムに乗って来て血が騒ぐところがあります。もし宗教抜きだったら、お囃子、やってみたいなと思ったりします。
 ところで、お祭と言えば、たくさんの屋台が立ち並びます。綿菓子、たこ焼き、金魚すくい、ヨーヨー釣り、射的等、子どもたちは何よりこれが楽しみでしょう。
 さて、そこに闖入者(ちんにゅうしゃ)が現れたとします。そして、いきなり“こんなのは祭りじゃない”と叫んで、屋台をたたき壊し、その道具や売り物をひっくり返して回ったとしたら、どうでしょう?
 周りの人から、唖然(あぜん)とされ、おかしい人と思われ、白い目で見られるでしょう。商売人の怒りを買うでしょう。止められるかも知れないし、間違いなく通報されるでしょう。そして、駆けつけた警官に取り押さえられる。そうなります。彼がどんなに“祭りとは本来、神さまを祭る礼拝だ。人が商売など、すべきではない”と叫んだとしても、秩序妨害として取り押さえられるでしょう。
 でも、よくよく考えてみれば、今日の聖書箇所において、主イエスがなさっていることは、そういうことなのです。つかまっても不思議ではない乱暴狼藉(ろうぜき)だったのです。
 一緒にいた弟子たちも唖然としたことでしょう。恥ずかしかったかも知れません。止めようとしたかも知れません。でも、あまりの「熱意」に、あまりの激しさに、止めようがなかったのではないでしょうか。でも、もし私たちもそこに居合わせたら、主イエスの心が分からず、弟子たちと同じように感じたに違いありません。
 でも、ここに一人だけ、主イエスの行為に拍車喝采を送っていた人がいます。それは、ほかならぬ父なる神さまです。父なる神だけが、この行為の背後にある心を理解しておられた。いや、主イエスの心は父なる神の御(み)心そのものだったと言ってよいでしょう。

 過越祭(すぎこしさい)でエルサレム神殿に詣(もう)でた主イエスは、「神殿の境内(けいだい)で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちをご覧になっ(て)」(14節)、「縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し」(15節)ました。なぜ主イエスは、そのような、暴挙とも言うべき行為を行ったのでしょうか?
「わたしの父の家を商売の家としてはならない」(16節)。この言葉に、暴挙の理由が、主イエスの気持が込められています。なぜそんなことをしたのか?それは、商売という行為によって、神さまと神殿が利用され、金儲けという人の利得(りとく)が図られている、と感じたからでしょう。それは、父なる神に対する侮辱であり、神殿を汚す行為だと主イエスには感じられたに違いありません。
だれだって、自分が大切にしている人を、大切にしているモノを侮辱されたら、行為に及ぶかどうかはともかくとしても怒りを感じるでしょう。私は子どもの頃、工作少年でした。熱意を込めて、何時間もかけて作ったものは自分にとって宝物でした。ある時、友だちから、その作品をバカにされたことがありました。気づいたら、その子の上に乗っかって殴っていました。もちろん、だからと言って、その暴力行為自体が許されるわけではないでしょう。けれども、人は、大切にしているものを侮辱されれば怒る。大切な場所に土足で踏み込まれたら、それを排除しようと実力行使に出るのです。
主イエスにとって、神殿で商売がなされているとは、そういうことなのです。

 それにしても、商売人たちや祭司ら神殿の当局者たちは、どうして自分たちの行為が、祭りにそぐわない、神さまを礼拝する信仰の心にそぐわないことに気づかなかったのでしょうか?それは、自分たちのしていることが、礼拝を補助し、その便宜を図るための行為だと考えていたからです。
 当時の礼拝の中心は、悔い改めの意味で動物の犠牲を献げることや、感謝の思いを込めて献金することでした。ところで、祭りには海外に住むユダヤ人がこぞって訪れました。エルサレムのユダヤ人の何倍もいたでしょう。彼らは普段、外国のお金を使って生活しています。しかし、そのお金をそのまま献金するわけにはいかない。なぜなら、ユダヤ人からすれば、外国人は汚れた存在であり、彼らが使うお金も汚れているからです。汚れたお金では神さまは喜ばない、というわけです。それで、献金のためにユダヤ人のお金に両替することが行われました。
 また、犠牲に献げる動物は、律法の基準で疵(きず)のないものと定められていました。疵のある動物を、神さまは喜ばないというわけです。けれども、海外から遠く旅をして連れて来た動物は疵がつくかも知れません。また、連れて来た動物が基準を満たしているかどうかを調べるためには、面倒な手続きがありました。それで、既に神殿当局で疵なしと折り紙の付いた動物を買って犠牲に献げる方が参拝者たちにとっては簡単なので、動物が売られていました。
 けれども、そのように礼拝を補助し、その便宜(べんぎ)を図る行為の裏側で商売人たちの金儲けが行われていたようです。また、神殿当局者たちも、商売の免許料のようなものを取っていたようです。神の名の下に、人間が自分の利益を図る行為が正当化され、平然と行われていたのです。その、神さまを利用した商売根性とも言うべき人の心に、主イエスはお怒りになったのです。

 歴史は進んでも、人の心は変わりません。今年は、宗教改革500周年ということで、私たちの日本基督(キリスト)教団でも、それを記念する様々な行事が行われています。ところで、宗教改革は、マルチン・ルターという修道士が、当時のカトリック教会が免罪符(めんざいふ)というお札(ふだ)を売り出したことに対して間違っていると感じ、〈95カ条の意見書〉と呼ばれる異議申し立てをしたことから始まりました。免罪符というのは、それを買えば、その人の罪が帳消しにされる、あるいは、カトリックの信仰で、天国の一歩手前の待合室のような“煉獄(れんごく)”という場所があり、その煉獄にいる魂が、それを買えば天国に入ることができる、とされていました。当時のカトリック教会は財政的に厳しかったようで、その不足を補うために、免罪符が売り出されたようです。けれども、罪の赦しと天国とは、主イエス・キリストが特に十字架と復活によって示してくださった神の愛によって、無償で与えられる恵みです。人が何か善い行いをしなければ得られないものではなく、ましてお金で買うようなものではないわけです。にもかかわらず、当時の教会においても、免罪符という、神さまを利用して人間の便宜が図られる行為が行われました。主イエスが、神殿の現実にお怒りになったように、ルターも当時のカトリック教会の間違いに気づき、戦いました。そこから、後のプロテスタント教会が生まれ、今年で500年を経たということになります。

 ところで、私たち自身の信仰と信仰生活はどうでしょうか?主イエスが問題とされているのは、私たちの立場で言えば、教会を「商売の家」とすることです。教会を、自分の利益や便宜のために利用することです。あるいは、信仰を、神さまを自分の願いに従わせ、神さまと取引するような商売根性で営むことです。
 私たちは、神さまを利用し、教会を利用して、直接金儲けを営むようなことは、まずありません。けれども、それに安心して、自分は主イエスの心に適っていると安易に考えることはできないでしょう。
 例えば、私たちは、自分の考えや行為を、神さまもそう考えているはずだ、聖書にはこう書いてある、と言って正当化することがあります。それは、日常生活の中の行為かも知れませんし、信仰的な主張や意見かも知れません。宗教的テロなども、神の名を利用した自己正当化の一つです。
 あるクリスチャンが、自分が引っ越してきた家のそばに、すてきな教会があって、そこに通うことにした。けれども、通い始めていから、会堂建築の借金があることが分かった。彼は、その返済に献金協力するのが嫌で、その教会の牧師と相談し、教会員ではなく客員にしてもらった。それから2年ほど経って、彼は会計役員から、返済に少しでも協力してもらえまいか、と依頼された。“おかしいと思いませんか。私は教会員ではなく、客員ですよ。それなのに‥”と、彼は違う教会の牧師にまくし立てた、といいます。客員だからと理屈はそうなのですが、信仰の心が何かおかしい、自己中心なのです。自己中心な信仰、他人事にできないのではないでしょうか。
 もう一つ、今日の聖書を黙想しながら、私がハッと思ったことは、私たちの信仰の中に、何気なくギブ・アンド・テイクの考え方が持ち込まれていないか、条件付きの信仰になってはいないか、ということです。
 私は普段、礼拝に行けないので、神さまに見放されてしまう。奉仕をしていないので、神さまに認めてもらえない。献金をしていないから、愛してもらえない。そんなニュアンスの言葉を、冗談交じりで耳にすることがあります。でも、それは半分本心ではないか、と思うのです。そう考えてしまう気持が分からないわけではありません。
 けれども、それは、神さまとの関係を、いつの間にか取引にしてしまっていると思うのです。裏を返せば、これだけのことをしたから、こうしてもらえる。これだけ祈ったから、これだけ信じたから、願いはかなえてもらえる、と私たちの中には無意識のうちに、そういう思いが潜んでいるのかも知れません。それはまた、これだけやったのに、これだけ祈ったのに、どうして神さまは聞いてくださらないのか?という不満、間違った不満へとつながります。
 私たちが救われるのは、神さまの愛による恵み以外の何ものでもありません。救いを得るための条件など何一つありません。神の恵みを商売のように、取引のように考えてはならないのです。
 煎じ詰めれば、私たちの信仰が自己中心的であることこそ、最たる問題点なのでしょう。自分が神に従うのではなく、自分に神を従わせようとする。そういう自分に絶えず目を向けていること。気づくこと。悔い改めること。主イエスに赦しと助けを願うこと。それが、私たちの信仰を、神さまにゆだね、神さまに従う健やかな信仰へと変えていくのです。壊した神殿を三日で立て直す、と主イエスは言われましたが、それは、私たちに、自分の自己中心的な信仰に気づかせ、打ち壊して、すぐに立て直すことができるということです。自分に気づいて、主イエスの力と愛に依り頼む。私たちの信仰に必要なのは、それです。