2017年8月20日 礼拝説教
  聖 書 ヨハネによる福音書2章23〜25節
  説教者  山岡 創牧師

2:23 イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。
2:24 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、
2:25 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。

「 人の心の中にあるもの 」
 ユダヤ人のルーツを祝う過越(すぎこし)の祭の際に、ガリラヤからエルサレムに上京した主イエスは、エルサレム神殿において、怒りをあらわにされました。神殿を利用して金儲けが公然となされていたからです。それは、神への侮辱であり、神殿を汚す行為だと、主イエスの目には映りました。それで、主イエスは、縄で鞭を作って献げ物用の羊や牛を境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台をひっくり返して言われました。「わたしの父の家を商売の家としてはならない」(2章16節)と。
 その行動は、商売人や神殿の管理者たちにとっては暴挙でした。彼らは、主イエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」(18節)と詰め寄ります。すると、主イエスは、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(19節)と言われた、というのです。
 「しるし」とは、人の力を越えた奇跡的な出来事です。そこに、神の力が働いていると証明するような出来事です。そのような「しるし」を見せれば、あなたが神の人であることを認めて、今回のことは大目に見よう、と管理者たちは考えていたのです。
 それに対して、主イエスは、この神殿を三日で建て直す、とお答えになりました。管理者たちが呆れたように、確かに、神殿の建物が三日で建て直せるはずがありません。けれども、主イエスが言われたのは、建物のことではなく神殿に関わる“何か”です。ヨハネによる福音書は、それを主イエスご自身の体と受け取っています。つまり、主イエスの“復活”という意味に受け取っています。
聖書に異議ありと言うつもりはありませんが、私は、主イエスが三日で建て直すと言われた神殿とは、神殿で行われている礼拝のあり様と、その根底にある人の心を立て直す、と言われたのだと思っています。人の心の中にある、神さまを利用して自分が得をしようとする商売根性です。そして、その根本にあるものは、人の自己中心性という罪ではないでしょうか。主イエスは、そういう人の心を立て直す、と言われたのだと思います。

 そのような自己中心性が現れている人の姿がもう一つあります。それは、「しるし」を求める信仰です。本日の聖書箇所、23節に「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」とありますが、そのように、しるしを見て信じる信仰のことです。
 主イエスがエルサレムで、どんな「しるし」をなさったか、ここには書かれていません。けれども、病の癒(いや)しなど、そこに神の力が働いていると人々が信じるような奇跡の業を、主イエスはなさったのでしょう。それを見て、人々は、この人は神の人であり、自分たちを救う救世主だと信じたのです。
 けれども、主イエスは「彼らを信用されなかった」(24節)と記されています。彼らの信仰を信用しなかったのです。それは、「何が人間の心の中にあるかをよく知っておられた」(25節)からです。
 「しるし」を見て信じる信仰とは、逆に言えば、しるしを見せなければ信じない、ということです。ところで、「しるし」とは、人の力を越えた奇跡的な出来事であり、神の力が働いていると証明するような出来事だと申しました。もう一言加えるならば、人の力を越えた神の力によって、自分の願望を叶えてくれる出来事です。だから、自分の願いが叶えられるなら、救い主と信じる。神と信じる。しかし、叶えられないならば、神とは認めない、神とは信じない、という姿勢が、その心の中にあるのです。
 けれども、願ったことがすべて自分の思うように叶えられるはずがありません。そして、そのように信じることほど、人生にそぐわない信仰はありません。信仰がそんなに便利なものであるならば、まさにすべての人が信仰を持つでしょう。もちろん、人がそのように願う気持、切なさ、苦しみの深さは、だれしも分かります。経験しています。けれども、その願いの解決を信仰に求めようとすることは、自分を中心に信仰も定めようとする自己中心性の現れ、自分の意のままに神さまを動かそうとする罪の現れです。そのような自己中心性が人の心の中に垣間見えるために、主イエスは、人々を信用されなかったのです。いつか離れ去っていくことを知っていたのです。

 では、主イエスから信用される信仰とは、どんな信仰でしょうか。信仰とは、私たちの願いを神さまに押し付ける信仰ではなく、神の声を、神さまが何を求めておられるかを聞こうとすることです。つまり、自己中心ではなく、神中心の信仰です。聞く信仰であり、神の御(み)心に従う信仰、神に仕える信仰です。そのような信仰を、主イエスは信用されるのではないでしょうか。
 そのような心と信仰が表われている聖書の話があります。今年の夏の小学生合同キャンプにおいて、〈どんなときも神さまがいちばん!〉というテーマで、子どもたちと旧約聖書のダニエル書を学びました。子どもたちと一緒に、ダニエルの物語を理解し、考え、それを体験するアトラクション・コーナーを各グループで作り、体験ラリーをする、いつものやり方です。
 このダニエルの友だちに、シャドラク、メシャク、アベドネゴという3人がいます。ダニエルと同じように信仰が篤(あつ)い。彼らは、イスラエルの国を滅ぼされ、バビロニアに連れて来られていましたが、ある時、バビロニアの王ネブカドネツァルは、自分の権力の象徴として巨大な金の像を造り、すべての人にこの像を神として礼拝せよ、と強制します。そして、礼拝しない者は、燃え盛る火の炉に投げ込まれると定めるのです。
 ところが、かの3人は金の像を拝みませんでした。そこで、3人を妬(ねた)むバビロニアの役人たちが王に告げ口し、3人は燃える炉の中に投げ込まれます。しかし、その時、3人が王に向かって答えたのが次の言葉です。
「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、ご承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません」(ダニエル書3章16〜18節)。
 そのように言って、3人は炉の中に投げ込まれるのですが、神さまは燃える炉の中から3人を救い出されたのです。
 燃える炉の中に投げ込まれて、救われる。それは奇跡です。神の力の証明である「しるし」です。けれども、それは“結果”に過ぎません。結果的にそうなっただけです。そうならないことだって、ままあるのです。そして3人は、そういう結果になったから、自分たちの願った通り、都合の良い結果になったから、神さまを信じたのではありません。「そうでなくとも」彼らは神さまを信じていたのです。たとえ燃える炉の中で滅びようとも、彼らは神を信じることをやめませんでした。それは、結果に、現実に左右されることのない信念であり、人生の土台である曲げられない生き方なのです。
 もちろん、神さまに対して願いを持つこと自体が悪いのではありません。そのように願い、祈らざるを得ない人間の気持、切なさ、苦悩の深さを、私たちは知っています。自分の力に絶望し、途方に暮れ、神さまに頼る以外にない現実があります。そこで祈り願うことに、何の差支えも、遠慮もいりません。
 大切なのは、「そうでなくても」という心の姿勢です。自分が祈り願ったことが、常に叶えられるわけではない。そのとおりになるとは限らない。むしろ、現実はそのようにならないことの方が多いでしょう。「そうでなくても」信じる。自分が願ったようにいかなくても、神さまが最善にしてくださったと信じる。神さまは、自分を愛し、支え、導いてくださる方だと信じる。そういう信仰があるところに、希望と平和が生まれます。そして、そのような「そうでなくても」という信仰、神さまに聞き、従う信仰を、主イエスは信用してくださるのです。

 もちろん、「そうでなくても」という信仰を持つことは、簡単ではありません。絶えず試練があり、葛藤(かっとう)が起こります。でも、その時、自分の心の中にある自己中心性を、人生は自分の思うようにならなければ受け入れられない、という身勝手さを、改めて見つめ直すことが大切ではないでしょうか。そのように、自分を見つめ直し、自分の心の中にあるものに気づき、認めるのでなければ、私たちは、本当の意味で、神さまを信じることも、神さまに信用されることもできないからです。神さまと出会うことができないからです。
 先週14〜16日に、埼玉地区中学生KKS青年キャンプが行われました。〈どうしてみんな、1デナリ?〉というテーマのもと、マタイによる福音書20章の〈ぶどう園の労働者のたとえ〉を黙想し、シナリオを考え、劇にして演じました。今日、礼拝後の聖書黙想の時間に、このキャンプでの恵みを、青年たちと分かち合いたいと思います。
このキャンプの中で、キャンドルサービスの時があり、その際、何人かが自分の心の思いを語ります。最初にスタッフから頼まれた二人が、その後、自分も話そうと決心した人が続きます。自分の心の中を見つめ、自分の弱さを、不安を、後悔を認めて、それを明かしてくれます。人に自分の心の中を話すのは、勇気のいることです。でも、その時、中高生や青年たちは、きっと何かを掴(つか)みます。後になって、それは神さまとの出会いの第一歩だったと気づくに違いありません。
 20世紀に生きた森有正というフランス文学者で、クリスチャンだった人がいました。この方が『土の器に』という著書の中で、次のように書いています。
人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っております。醜い考えがありますし、また秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、恥がありますし、どうも他人に知らせることのできないある心の一隅というものがあり、そういう場所でアブラハムは神さまにお眼にかかっている。そこでしか神様にお眼にかかる場所は人間にはない。人間がだれはばからずしゃべることのできる、観念や思想や道徳や、そういうところで人間はだれも神様に会うことはできない。人にも言えず親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている、そこでしか人間は神様に会うことはできない。
 人間はきっと、だれしも、この“心の一隅”を持っています。それを見つめ、認め、神さまの前に明かす。神さまの前に裸になる。そこで初めて、私たちは、神が“私”を受け入れてくださる方だと知るのです。自分のことを認め、赦し、愛してくださる方だと知ります。自分を信頼してくださる方だと知ります。そして、そこにこそ、神の言葉を聞き、神の御心に従い、神に仕える信仰が生まれてくるのです。
 神さまと心の交流し、主イエスに信頼される信仰。この道を、たどたどしくても、至らない者であっても、私たちは、熱意を持って目指していきましょう。