2017年9月3日 礼拝説教
  聖 書 ヨハネによる福音書3章1〜15節
  説教者  山岡 創牧師

3:1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。
3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
3:5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。
3:7 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。
3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
3:9 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。
3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。
3:11 はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。
3:12 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。
3:13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。
3:14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
3:15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。



「 新たに生まれなければ 」
ユダヤ人のルーツを思い返し、祝う過越(すぎこし)の祭り。この祭りの際に、エルサレムに上京した主イエスが神殿で巻き起こした事件としるしは、多くの人々の内側に、様々な波紋を呼び起こしたようです。主イエスは、エルサレム神殿で、商売と両替がなされている様子を見て、神さまを利用した金儲けに怒り、商売用の動物たちを境内(けいだい)から追い出し、両替の台をひっくり返して回ったといいます。その後、エルサレムに滞在中、色々としるしを 〜 神が共にいて働いておられると思わせるような奇跡の業 〜 行われます。それを見て、多くの人が主イエスを信じたと、ヨハネによる福音書2章の終りに書かれています。
 このように主イエスの言動は、多くの人の内に、様々な波紋を呼び起こしたのですが、その一人が、3章に登場するニコデモという人です。

 ニコデモは、ファリサイ派に属する教師であり、ユダヤ人たちの議員でした。ユダヤ教にはいくつかの宗派があり、その中でファリサイ派は、神の掟である律法を厳格に守り行うことを旨(むね)とした宗派でした。律法を守ることで、神に喜ばれ、神の国を見ることができる、神の国に入ることができると信じたのです。ニコデモは、教師でもあったわけですから、律法を研鑽(けんさん)し、生活の中でそれをどのように守るかを教える立場の人物でした。また、ユダヤ人社会には最高法院と呼ばれる議会があり、72人の議員によって構成され、ユダヤ人を律法によって裁いていました。ニコデモは、そのような議員の一人として、社会的な地位もある人物でした。
 そんな彼が、「ある夜」(2節)ひっそりと主イエスを訪ねて来たのです。そして、主イエスのことを、「神のもとから来られた教師」(2節)であると認め、その言動に賛同の意を表しました。もしかしたらニコデモは、祭司たちを中心にして神殿で行われていた商売や両替を苦々しく思っていたのかも知れません。けれども、はっきりとした批判や思い切った行動はなかなか取れなかったのでしょう。ところが、そこに主イエスが現れて、神殿の腐敗ぶりに、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」(2章16節)と明らかな断を下したわけですから、ニコデモとしては、感動して、その行動を人間業ではなく「神のもとから来られた」と認めずにはおられなかったのです。
 けれども、ファリサイ派の教師であり、議員でもある立場上、主イエスに対する称賛を明らかに表すと、周りからどんな目で見られ、どんな非難を受けるか分からない。それを恐れて、ニコデモは夜、こっそりと主イエスのもとを訪れたのです。
 ところが、ここで思いがけない事が起こります。神殿とその人々に下された神のもとからの断が、主イエスを称賛するニコデモにも下されたのです。
「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)
 だれしも称賛されれば、そこは和(なご)んだ雰囲気になるものです。思っていることがあっても対決ムードにはなりにくい。ところが、主イエスは「はっきり言っておく」(3節)と言います。あなたにほめられたからと言って、私は、あなたがたファリサイ派に対する非難を飲みこむことはできないよ、と言われるのです。
 あなたがたは、自分たちは神の国を見ることができる、神の国に入ることができると思っている。けれども、今のままでは神の国を見ることはできない。新たに生まれなければ、神の国を見ることはできないよ、と主イエスは言われるのです。
 思いがけない答えにニコデモは戸惑ったに違いありません。予想外の成り行きに、思わず、「年をとった者が、‥‥もう一度母親の胎内(たいない)に入って生まれることができるでしょうか」(4節)と、トンチンカンな答えを返してしまうのです。
 もちろん、主イエスが言っているのは、そんなことではありません。ファリサイ派が自負している信仰を改めなさいと、自分が“これで良い”“これが正しい”と思いこんでいるものを、もう一度見直してみなさい、と指摘しておられるのです。
 律法を守るという“行い”を神は喜んでくださると、あなたがたは思っている。そうすることで、神の国を見ることができる、入ることができると信じている。けれども、“自分の力”では、決して神の国を見ることはできない。しかも、あなたがたはともすれば、自分の行いと力を誇り、律法を守れない人々を見下し、そのような人間は神の国に入ることはできないと裁いている。そのような態度を、神が喜ばれるはずがないではないか。神の国とは、私たちの力や行いに関係なく、神が私たちを愛して、与えてくださる“恵みのプレゼント”なのだよ。その恵みに気づいて、本当の意味で謙遜になりなさい。謙遜になって、恵みに感謝して行う“愛の行い”こそ、神さまに喜ばれる本物の行いなのだ。
 主イエスはきっと、ニコデモに、このように言いたいのだと思います。そのように信仰を改めること、意識を改めること、生きる姿勢を改めること、それが「新たに生まれる」ということに他なりません。
 このような意識転換を、主イエスは、「水と霊によって生まれる」(5節)という言葉で表わされました。
 「水」と言うと、主イエスの師匠であったヨハネの洗礼運動を連想します。1章に、ヨハネの言葉とその様子が記されています。ヨハネは、ヨルダン川で、悔い改めのしるしとして、人々に水による洗礼を授けていました。主イエスも、この洗礼を、ヨハネから受けたのです。そして、ヨハネから独立した後、主イエスも洗礼を授けていたことが4章に記されていますから、主イエスは、ヨハネの洗礼の意義を認め、何らかの意味で、この運動を受け継いでいたと考えてよいでしょう。
 「水」というのは、自分の人生と生活に意識転換が必要であることを認めた人の決意のしるしなのです。
 そして、もちろん大切なのは、「霊」による意識転換、「霊」による内側の変化です。「肉から生まれ」(6節)、「肉」の思いで、つまり自分自身の人間的な考え方や常識で生きて来た人が、「霊から生まれ」(6節)、霊的に考えるようになること、神さまの心で考え、生きるようになることです。そのように転換され、変化した生き方を、主イエスは、“霊によって新たに生まれる”と表現したのです。

 このように、霊によって生まれるという意識転換を、主イエスはもう一つ、とてもユニークな、不思議な言葉で表わされました。
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとりである」(8節)。
 どうして、いきなり「風」の話になるのか、わけが分かりません。まるで“謎々”のような言葉です。ただ一つ、はっきりしているのは、新約聖書は元々ギリシア語で書き記されましたが、そのギリシア語で、「霊」と「風」は同じ“プニューマ”という言葉だということです。
 木の枝が揺れる音や風切り音を聞くと、風が吹いていることが分かります。けれども、それは目には見えず、私たちの意思とは関係なく、思いのままに吹きます。そのように風が地上を吹くように、神の霊という風も、私たちの内側を、目には見えずとも自由に吹き抜け、私たちを、自分でも考えていなかった方向へ、生き方へ導いて行く、ということではないでしょうか。
 数年前に、天に召された藤木正三牧師という方が、「風は思いのままに吹く」ということについて、次のように書かれています。
 「あの夜」以来、ニコデモはイエスの言葉に引かれながらも、ファリサイ派の面子(めんつ)にこだわって素直にそれを受け入れられない、そういうとらわれた自分との戦い、また自分の愚かさとの葛藤(かっとう)を秘かに続けたことでしょう。つまり、彼の心の中には「問いつ問われつの対話」が続けられたことでしょう。イエスに会って以来、彼はもはや、その時までのようにファリサイ主義に安定した、まとまった一つの心ではいられなくなり、問いつ問われつという二つに分かれた心の間(ま)を、行きつ戻りつする者となったと言ってよいでしょう。‥‥イエスに出会ってから、心の中に問いつ問われつという間ができたのです。そしてその間で、彼はイエスの「新たに生まれなければ」という、悔い改めを迫る言葉を味わい続けるものとなったのです。ということは、イエスはニコデモの心の中に間をつくり、その間を吹き抜けるように働いておられたということです。そしてそのことが「風は思いのままに吹く」と言われる言葉の意味です。(『系図のないもの』104頁)
 つまり、「霊から生まれた者」とは、主イエスという風が吹き抜ける“間”を、自分の内側に持っている人ということです。“これが正しいのだ”と自分を正当化して、独善的に生きていて、自分を見直す余地を持たない人ではなく、主イエスの言葉によって“それで良いのか”と問いかけられ、自分でも“これで良いのか”と見直し、時には迷い、“イエス様ならどうするか?”と考える“間”を持っている人のことです。それが、「霊から生まれた者」、新たに生まれた人です。

 主イエスは、御(み)言葉によって私たちの内側に間をつくり、その間を自由に吹きぬけて行かれます。その風に揺らされて、私たちの人生に変化が起こります。
 8月29日付の朝日新聞のオピニオンというページに、遠藤比呂通さんという方が紹介されていました。大阪の釜ケ崎という日雇労働者の人たちの町で、憲法研究者として、弁護士として、日雇い労働者たちの現実を考え続けている人です。キリスト教の宣教師を目指したこともある方で、その信仰が遠藤さんの生き方の根底にあります。東北大学で憲法学者として将来を嘱望(しょくぼう)されていましたが、釜ケ崎の人々と出会い、学者の道を捨て、釜ケ崎に事務所を構えて20年働いて来られた方です。
 大学で憲法学者をしていた35歳の時、初めて釜ケ崎を訪れて、大きな驚きを覚えたそうです。たくさんの人が路上に倒れているのに、だれも声をかけたり、助けたりしない。そこで仕事を尋ねられ、大学で憲法を教えています、と答えたら、一人の日雇い労働者の方が“日本に憲法があるんか”とつぶやかれたということです。その1年後、遠藤さんは大学を辞め、宣教師の学びを始め、更に弁護士となって、釜ケ崎での活動を始めました。
 住民票を行政から奪われ、選挙権もない釜ケ崎の人々の現実を目の当たりにして、遠藤さんは、あの日以来“日本に憲法があるんか”と言われた言葉にハッとし、問い問われながら、心の間を行ったり来たりしながら生きて来られたのではないでしょうか。それは、遠藤さんにとってもしかしたら、“日本に愛があるんか”という主イエスの言葉として、心の間を吹き抜けた言葉、そして今も吹き続ける言葉だったのかも知れません。
 ニコデモもあの夜、主イエスの言葉に、“ユダヤに律法はあるんか”という問いかけを感じたのかも知れません。律法の行いに安心し、自分の力を誇り、ともすれば他人を見下し、裁く自分たちファリサイ派の生き方に、“果たして自分たちには、本当に律法があるのか?”と、あの夜以来、問い問われながら生きたのかも知れません。その言葉は、“あなたに信仰はあるのか”“あなたに愛はあるのか”という風となって、ニコデモの内側を吹き抜け続けたのではないでしょうか。
 私たちも、主イエスの御言葉を聞くことによって、内側に“間”を持つ人、「霊から生まれた者」に変えていただきましょう。そして、主イエスの言葉に、主イエスご自身に、心の内側を吹き抜けていただきながら、自分を見直す人間として生きていきましょう。