2017年10月8日 礼拝説教
  聖 書 ヨハネによる福音書3章31〜36節
  説教者  山岡 創牧師

3:31 「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。
3:32 この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。
3:33 その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。
3:34 神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。
3:35 御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。
3:36 御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」


「 神声人語 」
  今日の聖書箇所は、3章22節から続いている洗礼者ヨハネの証言の後半部分です。ヨハネよりも主イエスの方に人が集まるようになる様子を見たヨハネの弟子たちが、妬(ねた)みか、あるいは危機感を抱いたか、そのことをヨハネに訴えるのです。
 けれども、ヨハネは“それでいい”といった感じの答えをします。イエスこそ救世主メシアだ。自分は、救世主がおいでになる、イエスこそ救世主である、と証言し、伝えた。その証言を聞いて、多くの人々が主イエスのもとに行くようになったのだから、それでいい、とヨハネは自分の弟子たちを諭(さと)しています。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(30節)とさえ言うのです。神の救いを宣べ伝えるというバトンを主イエスにお渡しした。ここからの救いの主役は主イエスだ、アンカーは主イエスだ。そんなふうにヨハネが言っているように私には聞こえます。そのようなヨハネの証言の後半部分が、今日の聖書箇所です。

「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る」(31節)。ヨハネはこのように語りました。ヨハネは、主イエスと自分とを対比しながら、主イエスは天から来られた方だ、すべてのものの上におられる、それに対して、自分はあくまで地に属する一人の人間だ、と証ししています。
ヨハネによる福音書の1章、その冒頭に、「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。万物は言によって成った」とあります。「言」と訳されたロゴスというギリシア語は“万物の原理”みたいな意味です。その言が人となって、この世においでになった。それがイエス・キリストだとヨハネによる福音書は冒頭で紹介します。そして、「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(18節)とイエス・キリストの紹介を結んでいます。
つまり、「上から来られる方」というのは、1章の言葉を借りて言えば、初めに神と共にあった神だ。父のふところにいる独り子である神だ、それがイエス・キリストだ、と言っているのです。そして、その証言を洗礼者ヨハネの口を通して語らせているのです。

 イエス・キリストは神だ、独り子である神だ。ヨハネが証言しているのは、一言で言えば、そういうことです。けれども、どうしてそれが分かるのでしょうか?主イエスは神のままでこの世に来られたわけではありません。人となって来られたのです。だから、見た目は“人”です。人の姿で語り、行動しています。その言動がどんなに偉大であっても、普通に見たら人間としか考えられません。それなのに、ヨハネはいったい何を見て、人である主イエスを神だと信じたのでしょうか?それは、主イエスに神の“霊”が与えられるのを見たからでしょう。
 34節に、「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである」と書かれています。霊とは、たとえて言うならば、神さまと交信する電波のようなものでしょう。私たちは、携帯電話やスマートフォンを使います。離れたところにいる相手と電波を通して言葉のやり取りをします。言ってみれば、主イエスは、神さまと交信するための“霊のスマートフォン”を持っている。しかも、「限りなく」と言うのですから、どれだけ神さまと話しても通話フリーのスマートフォンです。だから、霊を通して神の言葉を聞いておられるので、神の言葉を話すことができる、というわけです。
 別の聖書箇所で、主イエスがヨハネから洗礼をお受けになった時、「“霊”が鳩のように」(マルコ1章10節)主イエスに降って来ました。その時、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(11節)という声が天から聞こえたと書かれています。もちろん、主イエスはそれを見、その声を聞いたのでしょうが、ヨハネもまた、“霊”が主イエスに降るのを見、神の声を聞いたのではないでしょうか。だから、主イエスは神だ、と証言するのです。

 ヨハネは、主イエスに神の霊が降るのを見ました。けれども、考えてみれば、霊というものも本来、人の目には見えないのです。だから、主イエスが神だという客観的な証拠にはならないのです。ヨハネは特別な目を持っていて、神の“霊”が見えたのでしょうか?私たちは、主イエスが神であると信じるために、もう一歩突っ込んで、深く考える必要がありそうです。
 なぜヨハネは、そして私たちは、イエスこそ神である、救い主であると信じて生きるのでしょうか?ここでヨハネによる福音書のメッセージの中心は何かを改めて考えてみたいと思います。
 以前の礼拝で説き明かした3章16節には、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」とあります。これは、“小さな聖書”とか“聖書の中の聖書”と呼ばれ、この言葉さえあれば、神さまの御心(みこころ)が分かるとお話しました。そして、神さまがこの世にお与えくださった独り子イエス・キリストは、「父(なる神)がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた」(ヨハネ15章9節)と言い、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(同12節)と弟子たちに命じています。これが、ヨハネによる福音書の中心だと言ってよいでしょう。簡単に言えば、“愛”が大事と言っているのです。そして、ヨハネによる福音書を受け継ぐヨハネの手紙(一)においては、「神は愛です」(4章16節)と語られています。「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」(4章12節)とも書かれています。
 私たちの目には、神は見えません。人しか見えません。霊も見えません。けれども、愛は見えます。人が人を愛する姿は見えます。愛されていることは分かります。感じます。そういう愛のあるところに神はおられる。目には見えないけれど、人が愛し合うその愛の中に神はおられる。神は愛そのものだとヨハネによる福音書は私たちに語りかけるのです。
 そして、イエス・キリストという方は、まさに“愛のかたまり”のような方です。愛そのものが歩き、語っておられるような方です。その圧倒的な愛に触れて、ヨハネによる福音書の最後のシーンで、トマスという弟子が、主イエスに向かって、「わたしの主、わたしの神よ」(20章28節)と告白しています。復活した主イエスに自分一人だけ会えず、寂しさと疎外感からトマスは意固地になります。そして、主イエスが十字架に釘づけられた時の手のひらの穴、脇腹の穴に自分の指を入れなければ、それが復活した主イエスだとは信じないと啖呵を切るのです。後でトマスは自分の発言と態度を後悔したでしょう。そんなトマスのもとに主イエスは現れます。そして、指を入れていい、それでいいから信じてほしいとトマスに語りかけるのです。その愛の濃(こま)やかさに、トマスは圧倒されます。その愛に神を感じて、トマスは“この方こそ神だ”と信じたのです。
 洗礼者ヨハネもまた、主イエスが人を愛する姿を目の当たりにしたのかも知れません。神が見えるとか、霊が見えるとか、そういう特別な目を持っていたわけではないのかも知れません。主イエスの愛の中に、霊を見、神を見たのではないでしょうか。愛によって救われる人の姿に、霊の働きを見、神を見たのではないでしょうか。

 ヨハネは、主イエスが人と関わる時、その姿に愛を見たのでしょう。主イエスに愛されて、人が救われる姿を見たのでしょう。そして、愛の中に“霊”の働きを見たのでしょう。神を見たのでしょう。それを見た者として、ヨハネもまた、主イエスこそ、神がこの世にお遣わしになった方だと、独り子なる神、神を示す神だと信じて証ししているのです。「地に属する者として語」っているのです。
 そして、私たちもまた「地に属する者として」、主イエスは神であると証しすることができます。聖書という「神の言葉」を通して、教会の交わりを通して、主イエスの愛を信じ、主イエスによって愛されていることを感じて、トマスのように、イエスは私の神であると、私の救い主であると証しすることができます。
 私たちは、いかにも神を見たかのように、神を語ることはできません。取って付けたような証しには、力がないのです。私は神によって愛され、主イエスによって救われている、生かされている、と納得していることが、証しに力を生みます。だから、自分を抜きにして、自分の生活とその中での悩み悲しみ、苦しみを抜きにして、教科書を棒読みするように、一般論として神を証しすることはできません。自分はどのようにして神に愛され、救われ、生かされて生きているか。それを具体的に語ることが、主イエスは神であると証しすることの実質です。
 藤木正三という牧師先生が、〈自分を通過〉という題で、次のように語っています。

 神を信じるという人が神を信じているわけではありません。神に生かされている人が神を信じているのです。そして、神に生かされている人は神について語らないで、神に生かされている自分を語るでしょう。信仰の問題は、神の問題でも人間の問題でもなく、自分自身の問題です。信仰をおびやかすものは従って、無神論でも科学でもなく、多忙な生活でも物質的欲望でもなく、道徳的混乱でもないのです。それは、自分を批判吟味することに時間と労力を費やすことを無駄と考えて、簡単に自分を通過してしまうことです。(『神の風景』158頁)

 私たちの教会では、4月から、いやもっと以前から、聖書を黙想し、分かち合うことに取り組んで来ました。それは、聖書の言葉が右から左に抜けないようにするためです。聖書の言葉を前にして、簡単に自分を通過してしまわないためです。聖書の言葉によって自分の生活、自分の心、自分の姿を照らして、神さまがどのように自分に語りかけ、愛してくださっているかを発見するためです。聖書の言葉に、自分なりに納得して生きられるようになるためです。そして、神の愛によって生かされている自分を語れるようになるためです。それが、「地に属する者として」、“神に愛されている一人の人間”として、“神に愛されているわたし”として語るということです。
 先日、長男がまた、うまいラーメン屋を一軒、見つけて来ました。よくお話しますが、伝道すること、主イエスは神であり、救い主であると証しすることは、たとえて言えば、ラーメン屋でうまいラーメンを食べて、“この店のラーメンはうまい!”と実感を持って話すことと同じです。
 主イエスの御(み)言葉はうまい。主イエスの愛はうまい。魂にうまい。自分の心にあたたかく染み入る。そのように“自分”を語れる時、私たちは、「永遠の命」(36節)と言われるものに片足を踏み込んで生き始めているのです。